黒澤明の『夢』にみる、映像の調和可能性
最近、映画を観るということは、単体の作品を観る場合でも、その直前・直後に何を観ているかなどによって無限の混淆が考えられるのではないかと気付いて、一人戦慄しています。
映画におけるプロットは、記憶というシステムが残像を結んでいるうちに次の展開を準備して、当の残像をステップに次々と展開を結んでいく技術ですが、そもそも記憶には個人差があり、またその記憶の中にも、個に由来する記憶と映画的記憶が並列して存在し、私たちはその総体によって、今観ている映画を逐一評価したりしているわけです。