明滅工場

「保身の帝国」から身を守る術を模索しています。

明滅工場

「保身の帝国」から身を守る術を模索しています。

最近の記事

自由詩『天気の絵』

今 雨が ほら 雨が でも今日の雨は 土のにおいしかしない 見えないが 雨が降っているのを感じることはできる 皮膚に当たると ちょっと生暖かいから 天然のシャワーが私を洗浄する 滴り 洗浄する 滴り 洗浄する 滴る雨の洗浄 滴る血の戦場 滴る 滴る 滴る 日々激しく滴る 花は笑い 犬は泣き 空気は今日もたっぷり淀んでいる 夏は苦しく 冬も耐えきれない 春と秋は 疲弊した都市の地下に潜って眠っている 四足歩行のベンチは 一枚の紙きれに託した 雨だれに濡れた紙きれの 白い

    • 黒澤明の『夢』にみる、映像の調和可能性

      最近、映画を観るということは、単体の作品を観る場合でも、その直前・直後に何を観ているかなどによって無限の混淆が考えられるのではないかと気付いて、一人戦慄しています。 映画におけるプロットは、記憶というシステムが残像を結んでいるうちに次の展開を準備して、当の残像をステップに次々と展開を結んでいく技術ですが、そもそも記憶には個人差があり、またその記憶の中にも、個に由来する記憶と映画的記憶が並列して存在し、私たちはその総体によって、今観ている映画を逐一評価したりしているわけです。

      • 『視線誘導』

        澄んだ空気のなかでめざめたせいだろうか ゆめから現への移行もまたなめらかにおもえた 研究所のナカもソトも森閑としている 校舎にはまだ誰もいないようだった わたしの研究所は広いがよごれていて まいにち清掃しても快適とはほどとおかった ベランダを水あらいしてぬれた床面にぞうきんを並べてみる しろい布地に水分がしみこみ たいようのヒカリで除菌されるのを待つのにもあきてくると 布のうえに腰をおろしてボーっと過ごしてみる ひんやりした臀部で窓のソトをみやると 玲瓏な空に視界が

        • 『シーシュポス』

          男は、大きな緑色のマットを背負って川辺に向かっていた。 釣りか? だが、マットを使う魚釣りなど聞いたことがない。 では、日光浴か? その割には肌が白すぎる。 案内されたのは、要塞のようないでたちの大きな岩の前。 男は、おもむろに荷解きを始めた。どうやらこの絶壁を登りきるつもりらしい。なかなかどうして酔狂な趣味だ。 何人かオーディエンスもきているらしい。だが、皆一様に釣竿を携えている。熱心な観客ではないようだ。 暫くすると、男は岩の手前にキャメラをセッティングしはじめた。

        自由詩『天気の絵』

          『たこ焼き』

          許せるのは、湯たんぽ、または枕になる足だけっしょ。 =何ていうんだろ。姉とはいえ異性の足のことを話すのは、ちょっと恥ずいんで、誰にもいえずに心にしまってるって感じが結構ずっと続いてるってことだと思うけど。 まぁ、学校では人と同じことをしている限り怒られることはないので、そしてぼくもまぁ、怒られるのがとても嫌なタイプの人なので、隣の席に座って黒板の中身を全部トレースしてるバカと同じことをしてるだけの、=モブキャラみたいな毎日を送ってるわけなんだな。それはでも、教育上結構間違

          『たこ焼き』

          反対色説の3Ⅾメガネ

          アメリカの東海岸で起きている鳥の大量死のニュースに戦慄しながら、あたらしい業務として学び始めているお天気サービスにまつわるCGソフトの仕様を身体で憶えようとしていた。 天気予報は外れることも多いが、地球を包囲するサテライトからの雲画像によって、世界はこんなにも見晴るかし易いものになっているのかと今更ながら驚く。 私たちの周りも、SNSなどを通じて大分見晴るかし易いものとなってきている印象だ。だが、その透明性が新たな問題を醸成してきているように思えてならない。 たとえば、

          反対色説の3Ⅾメガネ

          「映画の細胞」誕生秘話

          日本では、年間600本程度の映画が制作されているそうです。 もちろん、そのすべてに目を通すことはできませんし、鑑賞したとしても、本当に記憶に残るのは年に数本あれば良いほうだと思います。 では、なぜ記憶に残る映画とそうでない映画があるのでしょうか。 私の場合、鑑賞時の自分の気分に合ったものや、もともと興味があったテーマを深堀りしているような映画が、その後も大切なものとなる傾向がある気がします。つまり、当時の私が置かれている状況や問題と関わりの薄い映画は、ただ消費されるに留まっ

          「映画の細胞」誕生秘話

          『一関』

          川をはさんで向こう岸におだんご屋が見えます。 その店のおだんごは空を飛んでとどくのだといいます。 「立ち入り禁止」の看板をまちがって乗り越えないように気をつけながら お客さんたちがカゴの中にお金をいれて、トンカチで板をカンカンたたきます。 すると、カゴがワイヤーにひっぱられて、向う岸にあるお店の中へひっぱりあげられるのです。 それからしばらくすると、またカゴが降りてくるのですが、今度はちゃんとなかにおだんごとお茶が入っています。 父によると、これは一ノ関市厳美渓の名物だと

          宣伝過多

          映画を娯楽として観ることが少なくなりました。 そもそも映画は、日本だけでも年間600本近く作られているらしいので、すべてに目を通すことは到底不可能ですが、それにつけても観なくなりました。 私の場合、自分でもあんまり出来の良くない「映画のようなもの」を作っているので、そっちのほうに時間が取られているというのもありますが。 コンテンツ過多は一昔前から指摘されていますが、宣伝過多に関してはあまり取り上げる者がいません。 何故なのでしょうか。 『君たちはどう生きるか』が、宣伝

          『タイリング・ワールド』

          父と母がアメリカに出かけたので、ぼくが留守番することになった。 人の少ない小道を、年甲斐もなくケンケンパをしたりしながら進んでいると、何度も来た道なのに迷いそうになり、真面目にちょっと焦った。それくらい、何か景観が変わってしまっていたように思えた。 近所の床屋は潰れ、同級生のやっていたバーは廃れていた。学校の横を流れていた河川も全部埋め立てられていた。駅の方まで等間隔に続く街灯は、新品のブルーライトでぼくの影を明るく照らしだした。遠くのほうに、緑色のフェンスと生コン工場の

          『タイリング・ワールド』

          『カメムシ』

          夜勤中に新しい工場長がやってきたので、ぼくは挨拶をした。 立花というその男は、ぼくよりも幾分背が高くて、年齢も一回りくらい若い印象だった。 ここのシステムについて二三聞かれたが、正直いうと、ぼくはここで何が作られているのかよく分かっていない。分からないまま24年も働いてきたのだから大したものだと思うが、その間何をしていたのだろうと考えると、実のところ何も思い出せず、胸の奥がぎゅっと冷え込むような気がした。 ――それで、こっちは何があるの? ――あ、はい。シュートとタンクっ

          『カメムシ』

          最近の映画手法

          年末の予定などを少し。 『Arrivée des trains au 21ème siècle』が「Future Vision Festival」の"NON-NARRATIVE"部門にノミネート。12/16に東京で、1/6にはアムステルダムで上映されるようです。 また12/22には、旧ソ連の防空壕にあるBomba Galleryによる「Bomba Video Club」というイベントで『PAN AND KAN』が上映されます。 年明けの1/5~1/9には、インドの「In

          最近の映画手法

          『黒い着ぐるみ』

          ――熊が出たんだよ。危なかった。今、逃げてきたんだ。 ぼくは自転車に鍵をかけるのも忘れて、居間に寝転んで野球を観ている父と兄に、今さっき起きたことを説明しようとした。 ――何が出たって? ――すぐそこの、ほら、駄菓子屋んとこ。 ――熊が? あんなとこまで来ねてば。 ――マジで来てたんだって。 ――本当だったら、今頃大騒ぎだべ。誰も騒いでねでねか。 言うと、二人はまた、テレビの野球中継へ意識をやった。 だけども、確かにぼくは見たのだった。 橋の袂に黒い着ぐるみを着たヘンな

          『黒い着ぐるみ』

          「映画の細胞」とは?

          パンデミック以降、ミニシアターが次々と閉鎖されてゆくのを観てきました。緊急事態宣言が解除された今も客足が戻ったとは言えず、代わりに映像配信サービスが隆盛を極めています。4K対応の高画質映像には、個人情報保護の目的で施されたモザイクが犇めき、ポリコレと表現の自由を巡る議論は水平線を辿るばかり。パワハラやセクハラも枚挙にいとまがなく、映画業界全体が機能不全に陥っています。 一体何が原因なのでしょうか。 リュミエール兄弟がシネマトグラフを開発して以降、映画はマスに向けて直線的に発

          「映画の細胞」とは?

          『銀の棒』

          高速道路は車内にいかなる走行音も伝えなかった。 タクシーにゆられながら、私は恋人 に耳掃除をしてもらっている。細長い銀の棒は耳から脳へ至り、私に奇妙な幻影を見せる。 私は友人らと能楽堂で能を観ていた。山登りを題材にしているようだが、演目は分からない。傍らには恋人もいるが、ここでは私自身が耳かきをしている。 だが私は、幽玄の美より蝸牛の中に興味があったらしく、力を入れ過ぎて銀の棒を投げ 飛ばしてしまった。しかもあろうことか本舞台の中へ。 一瞬間、耳かきが作る光の円盤を観た

          『ソーシャル・ディスタンス・ダンス』歌詞

          cloud monitorさんとミュージック・ビデオを作りました。 映画『sfumato』の劇中歌です。 Location: Site of Reversible Destiny—Yoro Park © 1997 Reversible Destiny Foundation. Reproduced with permission of the Reversible Destiny Foundation https://youtu.be/iHlPwd9Af4s?si=h1wa

          『ソーシャル・ディスタンス・ダンス』歌詞