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黒澤明の『夢』にみる、映像の調和可能性

最近、映画を観るということは、単体の作品を観る場合でも、その直前・直後に何を観ているかなどによって無限の混淆が考えられるのではないかと気付いて、一人戦慄しています。

映画におけるプロットは、記憶というシステムが残像を結んでいるうちに次の展開を準備して、当の残像をステップに次々と展開を結んでいく技術ですが、そもそも記憶には個人差があり、またその記憶の中にも、個に由来する記憶と映画的記憶が並列して存在し、私たちはその総体によって、今観ている映画を逐一評価したりしているわけです。

上映された瞬間、その映画は観る者が個人的に摂取・蓄積してきた記憶/映画の記憶の総体と切り結び、混淆されるということが都度起きているともいえます。

しかし、考えてみれば当たり前のことなんですけど、人間はスクリーンではないので、映画を観る前の、あるいは作る前の、まっさらな状態というのを準備するのは極めて難しい。実は、至る所にほころびがあったり、残像が残ってたりしています。故に、短期記憶ないしは長期記憶の領域に何がストックされているかが重要となり、大袈裟に言えば文化的な背景(バイアス)を考慮しながら映画を少しずつ推し進めてゆくというのが作り手のメソッドとなっています。

味覚で例えてみると分かり易いかもしれません。

珈琲を飲んだ後にコーラを飲むと、まだ舌が珈琲の味を覚えているからコーラがマズく感じられます。
しかし、それはコーラがマズいのではなく、直前に飲んだ珈琲との組み合わせがマズいのです。
また、喫茶店で珈琲をブラックで頼んだりすると、おまけで甘いクッキーが付いてくることがありますが、あれはこの味覚の混淆をうまく制御している例だと思います。
お寿司屋さんで珈琲がデフォルトで出てくるところは見かけませんが、あれはお茶とお魚が味覚的に調和しているからではないでしょうか。
しかしお寿司屋さんに行く直前に珈琲をガブ飲みしたら、今日は何だかマズかったねという感想を抱くことになるかもしれません。

つまり、味覚もまた記憶であり、その直前・直後に何を食べているかが肝要なのです。

映画の話に戻しますと、お寿司屋さんにおけるお茶みたいな視覚的調和を発明できれば、どんな映画でもある程度は面白い、相乗効果で面白かったと思える映画体験が得られるのではないかと気付いたわけです。
ポップコーンを食べながら観ると、映画が面白く感じられるという人も中にはいるのかもしれませんが、そういうことではありません。
映画館では必ず予告編をやりますが、あの間隙にどんな映像を挿入するかというようなことが大事なのだと思います。新作映画の予告編もいいにはいいのですが、あれは本編への期待値を上げる目的ではなく、単に集客を狙ってのことですから、時にマイナスの作用を引き起こしかねません。

直前に記憶されることで、これから始まるどの映画の記憶とも親和して、観終わった後にも本編を邪魔をしないような映像のための映像。
パンケーキにおける珈琲、お寿司屋さんにおけるお茶。
そのような確固たる映像のハーモニーはあり得るのでしょうか?

テレビだと、フィラーと呼ばれる風景や風物を流す「つなぎ」の番組があったりもします。あの映像に感銘を受ける人はなかなかいないと思いますが、いま私が探しているのは、そういうものに近いと思われます。

あらためて考えてみますと、映像が映像にもたらす影響は、これまであまり真剣に議論されていなかったような気がします。これには色々な理由があると思いますが、ひとつには著作権や作家主義が影響しているような気がします。

しかし、一旦何らかの手段で頭の中に入った映画は、配信サイトのサムネイルのように区分けされているのではなく(中にはそういう人もいるかもしれませんが)、相互に混ざり合ったり、分岐したり、今まさにぼやけて消えつつあったりします。しかも、作家の名義とは無関係に。
哀しいかな、それらの映像の煌めきも、夕食時の空腹などによって、いとも簡単に掻き消えてしまうわけですが、でもこれは、考えてみると結構不思議な状態といえます。

この議論の延長には、個々の映画の批評ないし感想は、その前後に見た映画および記憶を含み込むかたちで為されねばならないという、前提の破壊にも至りかねない問題が潜んでいるのですが、それはそれで真実に近いように感じています。

また、このような観点から、一本の映画の中で複数の作品が共存している所謂オムニバスという形式を鑑みると、存外興味深い試行が為されていることに気付かされもします。

その意味では、黒澤明監督の『夢』が最適の資料たり得ていると思います。

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