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反対色説の3Ⅾメガネ

アメリカの東海岸で起きている鳥の大量死のニュースに戦慄しながら、あたらしい業務として学び始めているお天気サービスにまつわるCGソフトの仕様を身体で憶えようとしていた。

天気予報は外れることも多いが、地球を包囲するサテライトからの雲画像によって、世界はこんなにも見晴るかし易いものになっているのかと今更ながら驚く。

私たちの周りも、SNSなどを通じて大分見晴るかし易いものとなってきている印象だ。だが、その透明性が新たな問題を醸成してきているように思えてならない。

たとえば、「私は元気です」というごく自然な発露も、「ぼくは死にそうだ」という言葉の傍でなされる際には、ちょっと軽薄に映る。

無理もない。テクノロジーの恩恵によって、誰もが異なる現実を同時に知り得てしまう時代に、戦争が起きてるなんて知らなかったと誰が言えるだろう?

ここだけの話、
「私は元気です!」
というありきたりな発言を目撃する度に、
「戦争が起きているけど、私は元気です!」
といっているような軽薄さを感じることが多くなった。

或いは、
「今日はライブがあります!」
という告知を聞く時、
「向うで人がたくさん死んでますけど、今日はライブがあります!」
と、知ってて知らないふりをしているような浅薄さへ同調するよう求められているような気がして嫌だ。

「ぼくの作品が表彰されました!」
というような吶喊の声に接しても、一対それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、本当のところよくわかっていない。

誰もが政治にコミットできるわけではないし、暗いニュースに引きずられて沈んでいくのみでは生きることそのものの放棄にもつながりかねないため、目の前のことに傾注し小さな幸せを嚙みしめようという姿勢は基本的に正しく、また生活者ならではの逞しさめいたものも感じはするのだが、遠くで起きていることがスマホで見れる時代に、目の前もくそもないというのが事実だ。

楽しいと同時に悲しく、美しいと同時に醜い。
誰かが笑っている時、誰かが泣いている。
どちらか一方に振れると、どちらか一方を不問に伏すようで、何だか辛く感じる――。

今日のような透明性の極まった時代に、古き良き《小さな幸せ》を謳歌できる者がいるのだろうか?

と、考えた時、「ヘリングの反対色説」というのを見つけた。

彼の理論によると、色の知覚は赤ー緑、黄ー青によって生じ、赤ー緑、黄ー青は交わることがない。(反対色ではない、赤ー黄、緑ー青は交わることが可能)私たちの網膜及び脳は、補色の混淆を見極めることができないのだ。

これは、楽しいと同時に悲しく、美しいと同時に醜い世界に適応できない状況と少し似ている。

誰もが瞬時に世界の出来事を知悉することができるようになったが、異なる現実を同時に生きることは能わず、笑いながら泣くことすらできない。
「ヘリングの反対色説」でいうなら、模式図は見れても補色同士の混淆は見れない状態。

一緒くたに見れないのであれば、ひとつひとつの事象を丁寧に辿っていく以外に術はなく、「映画の細胞」は、そういった意味でも希少な実験であり得たように思えるのだが、監督ー観客の相互作用によって為されるものでもあるため、第二回を開催できるか否かは皆目わからない。

「映画の細胞」誕生秘話|明滅工場 (note.com)

一生懸命作った作品が観客一人にしか届かないというのは、一般的にマスを対象に制作をしている映画監督にとっては不本意な結果なのかもしれないし、観客もまた、一人であることがマスであることと矛盾しない場合がある筈だ。

しかし、昨今の少子化問題などは、「数」への依存が齎したシステムの限界を示しているように思えるし、映画業界や芸能界に醜聞が続くのも、視聴率などの「数」がモラルより優先されてきたからだろう。

誰かが率先して「数」以外の価値を見出し、それに続く者が現れなければ事態は好転していかないような気がするのだけど、それは現行の神であるところの「数」において高得点を叩き出すような人物でないと説得力がない。この辺が難所である。

しかし、こんな憂いは、先のアメリカの東海岸で起きている鳥の大量死のニュースの前には簡単に掻き消えてしまう。

少し前に、スペインで開催された「Caligari. Festival Internacional de Cine de Terror」にて『BLESSIN  OF THE MOUNTAIN GOD』が審査員特別賞を貰い、イタリアの「Rochester Global Short Film Series」では『TSUJIGIRI』が最優秀実験映画賞をいただいた。

だが、それがなんだというのか。

先日は、同僚たちと奥多摩へキャンプに行き、魚を釣ったりバーベキューをしたりして過ごしたが、寝袋がなく寒かったせいで一睡もできず、テントの中で座禅を組み、延々と熊に襲われた時の対策を練り続けていた。

しかし、それがどうしたというのだ?

目の前の小さな幸せは、爆撃と虐殺と異常気象の最中で語られる時、どうでもいいとは言わないが、限りなくスノッブなもののように響くことから逃れられない。

と、ここまで書いてきて、私はふと想起してしまう。

「ヘリングの反対色説」における赤ー緑を3Ⅾメガネの左右のレンズに組み込んで装着すれば、補色の混淆を目撃するのみならず、映画をより立体的に知覚することも可能となるのではないか?

――でも、何を上映する?

ヒッチコックの『鳥』はカモメやカラスの大群が襲ってくるパニック映画だった。

私が続編を撮るなら、鳥が一匹もいなくなった世界になるだろう。


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