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第一回「細胞座談会」(後編)


映画祭の功罪


相馬あかり(以下相):観客の〝願望〟に忠実であろうとすれば、昨今の映画業界ではないけれど、100万でも1000万でも足りないという風にどんどん制作費が膨れ上がって大変なことになるんじゃないですかね。

三木はるか(以下三):そうですよね。

相:他の映画祭を覗いてみると、「新たな才能」を発掘すべく、劇場公開作品と見紛うようなクオリティの作品ばかりをノミネートさせているようにも見えるのですが、あれでは作り手側が大変なんじゃないかなと秘かに懸念しています。これが自主映画?みたいな傑作も生まれているので、喜ばしいことでもあるのだけど。でも、やっぱり発表場所が欲しい若い作り手なんかは、先行作品の評価を踏まえた上で映画を作るようになると思うんです。で、かなり無理をして、借金したりしても作る。そういう影響があるということは一切考慮せずに、映画祭側が「今年は完成度が高い」とか「プロでも通用する才能の出現」みたいなことを流布するのは、無責任でなければノーテンキに過ぎるのではないでしょうか。何でこんなこと言ってるのかというと、映画祭というシステムへの疑義ないしはツッコミが極端に少ないからです。映画祭に限らず、すべてのショーレースには審査する側と審査される側の間に権力勾配があるので、スポイルされるのが怖くて誰も本音を明かさないのです。だけど、こういった力学が継続すると、今度は審査員側に腐敗が生じてきて、システムが自壊するというようなことが起きてくるわけです。「東京フェイクドキュメンタリー映画祭」を運営してる木澤さんの前で言うことでもないけれど笑

木澤航樹(以下木):ぼくは一人でやってるんで、ぼくが腐敗しない限り大丈夫です!

相:確かに、木澤さんは「細胞」的に運営している笑 でも、クラファンなどの様々なツテを使って、どうにか映画のルックを整えようとしたんだけど、結局1000万近い借金を背負って映画が撮れなくなった学生監督の話なんか聞くと、どうしても懐疑的になりますよ。そういった諸々のストレスを発散すべく、立場の弱いスタッフや役者に対して監督がセクハラ・パワハラをするというのは考えうる限り最悪の展開ですが、それほど飛躍した想像にも思えないんですよね。つまり、映画祭などの格付け機関が設けたクオリティが、映画関係者における暴力行為の遠因になってる可能性はないのか。たとえば、過剰なノルマを課せられたセールスマンが、お年寄りを騙して営業成績を上げるみたいなことがありますが、ああした蛮行も、ノルマが0だったら起きない筈なのです。まぁ、代わりに会社が倒産するかもしれないけど笑 勿論、元々の作家性がハリウッド映画と一致しているという監督もいると思うので、そういう人はそのままハリウッド映画を研究して、いつの日かアメリカで夢を叶えればいいと思います。でも、そうではない監督までもが、資金集めのために株やデイトレードをやり、失敗して破産みたいなことになったら一体誰が責任を取るのでしょうか。

木:多分みんな、そうなる前に映画をやめるんじゃないですかね。

相:そう、大体作れなくなってしまうんです。でも、冷静に考えると、お金をかけたからいいものができるとは限らないよね。だって、バブルの頃に作られた映画で、これは名作だっていう作品あります? 木澤さん、今日はずっと消費社会の申し子のようにお菓子ばっかり食べてるけど、そろそろ存在感出してよ笑

三:フフフ笑

ハクポ・イシナカ氏と三木はるか氏。

映画を構成する最小限のもの


木:ずっと「映画の細胞」とは何か、考えてました。「細胞」とは最小限という意味で、ぼくらの身体も「細胞」でできている。これが映画の最小限。これがあれば、映画が成立するって何なのかなぁって。相馬さんにとって、それは監督と観客で、それがあれば、たとえ映像じゃなかったとしても映画になったのかもしれない。参加された皆さんにとっての映画を構成する最小限のものとは何だったのか聞いてみたいと思いましたね。たとえば、先ほど相馬さんが「どうして人間が出てこない映画がないのか?」というようなことを仰ってましたが、それはもしかしたら、多くの監督・観客にとっては、人間が出てくるものが映画の最小単位、つまり「映画の細胞」だったということなのかもしれませんし。

相:「多くの監督・観客」というワードはマスを連想させますね。マズいぞ。議論がループしかねない笑 でも、ここで忘れてはいけないのは、一生懸命マスに訴えかけるような映画を作っても、まったく観客が入らない場合もあるということです。それは何故なのか。大勢の観客に訴えてるつもりでも、実際には誰にも届いてないとしたら、何が原因なのか。そもそもマスとは、具体的に誰のことを指しているのか。誰に向けて作ってるのかわからない映画を誰が観るのか? そういう煩悶があるわけです。それでも、邦画だけでも年間600本近く生産されているので、私のところにもクラファンをお願いしますとか、色々来るんですね。で、なけなしのお金を出したりすることもあるんですが、でもよく話を聞いてみると、コロナでスケジュールが押して中国ロケができなくなったとか、そんな理由なんです。それって本当に中国で撮らなきゃいけないんでしょうか? だって、タルコフスキーだって『惑星ソラリス』で未来都市を描くのに首都高を使ったわけですよ。『ブレードランナー』のエンディングの空撮は『シャイニング』のオープニングの空撮の使いまわしです。パゾリーニも模型の舟を使って撮ったりしてました。要は、創意工夫ができなくなっただけなんじゃないかと。

三:確かに。

相:クラファンもひとつの工夫だとは思うので否定はしないですけどね。でも、ここ4、5年で色んなツールができたじゃないですか。カメラや編集ソフトなんかだと、殆どの監督がデジタル化を受け入れてると思うんですけど、足りないシーンを補うために流行りのAIを使ってみようとは考えないんですかね? ライブカメラやAdobe stockの素材を使うとかでもいいんですが。

三:どうなんだろう…。アーカイブされた映像を使うということに抵抗があるのかもしれませんね。

相:もっとシンプルに横浜中華街の看板撮ってつなげるとかでもいいと思うんですけど。

三:うーん…。

相:その辺が不思議なんですよね。CG業界だとハードもソフトもすぐに変わっちゃうんで。

三:そのほうが観易いってのはあるかもしれないですよね。その1ショットがあるだけで。監督のこだわりでやってるんだとしたら、違和感のない映画を自分達だけで作りましたよっていうので、そっからステップアップしてシネコンでもかかるようにしたいですっていう人はたくさんいると思うんです。

相:確かに監督自身の中に何かあるんでしょうね。1カットたりとも手を抜かないというのは大変素晴らしい姿勢だとは思います。でも、所謂巨匠と呼ばれるような人でも結構妥協してると思うんですが。様々な知恵を絞って、いい意味で観客を騙してきたといいますか。私個人は、映画はもっと融通の利くものだと思っています。

木:手抜きの推奨じゃないですか笑

相:くどいようですが、妥協せずに作っても妥協しまくりで作っても、映画を観ない人は増えているわけです。それは何故かということも合わせて考えないといけません。

木:それは間違いないですね。

眠たげな木澤航樹。


相:景気が悪いとか、暇つぶしが増えただとか、色んな理由があると思うんですけど、やっぱり私は、自分の死というような固有の問題に対して、間接表現であるところの映画が応えてくれないというのが要因なんじゃないかと思っています。誰にとっても自分という存在は有限で、それゆえ共有不能な何かがあるわけですが、多くのメディアはマス向けに情報発信しているだけなので、個々の問題に寄り添うことはできません。著名人が亡くなったりするとニュースになりますが、同僚が亡くなってもニュースにならないわけです。自分にとって大切だった誰かのことや、自分しか預かり知らないようなことなどは、そのままにしてると消えていくだけです。そういう個別の体験に対して映画は基本的に無力ですが、共感を喚起して感動を誘うことくらいはできます。でも、それなら動画配信のほうがリアルタイムでコメントを読んだりすることができるので向いている。世の配信サービスが下手な映画より稼げるプラットフォームになってきているのは、そういった背景があるんじゃないですか。映画はこうあらねばならぬと固執してるうちに、映画を取り巻く状況はどんどん変化してゆく――。

「細胞」の今後の展望


木:一旦、規模感を「細胞」レベルに下げて、最小限のリソースで映画を作れば、そういう個別の体験だったり思いに寄り添う表現が生まれるのではないかと予測されてたわけですね。それでもなお出てきた映画が商業映画と重なる部分があったということについては、どう思われますか?

相:それに関しては、「細胞」という抽象的な言葉で括った責任を感じています。映画のルックを追いかけるのではなく、観客の本質に寄り添う技術が要るのかもしれません。本質って何だっていわれると困るんですけど。

木:或いはそれこそが、「映画の細胞」なのかもしれませんね。

三:映画=劇映画って思ってる人が世の中にはたくさんいるけど、「映画の細胞」のコンセプトを加えることで、そうじゃないよねっていう違和感を持ってる人に観てもらうことができるのなら、そこには大きな価値があると思いますね。

『トランクの中の箱』の『大ガラス』越しに座談会を記録するカメラ。


相:ちなみに今回は、私が各監督さんに1万円出資するような形で制作していただいたわけですが、出来上がった作品を観て、一本の映画の制作費としては安過ぎかなという気がしました。見方によっては搾取に当たるんじゃないかと。もともとお金に変換できないような価値を求めているのに、なんで1万円なんだろうと考えると、大した理由もないような気がして…。だったら0円のほうが潔いのかなと。

木:そこは、マイナーチェンジしていってもいいかもしれないですね。今回は1万円、次回は0円とか。

相:じゃないと、私の懐が持たないですし笑

木:そりゃそうですよね。

相:リュミエール兄弟の映画なんか、今でも文化遺産的な価値を有していますが、列車が走ってくるのを撮ったり、工場の出口から出てくる労働者を記録しているというようなものが殆どですよね。尺も大体50秒くらいだし。ああした映像が今も映画と見做されているのなら、現代のテクノロジーをもってすれば0円でも立派に映画が撮れるというのが私の論法です。彼らの映画はパブリックドメインなので、話題にしても誰も儲からないから新作映画みたいに人口に膾炙しないけど、作品ごとに人物の入り方が違っていたり、意外と新鮮な発見があるので、「映画の細胞」にも応用できると思いますけどね。

三:私にとっての「映画の細胞」は、観客が一人ってことだけだと思っています。勿論、色んな作り方を細かく見ていって、もっとシンプルに映画は作れるでしょっていう考え方もあるんでしょうけど、監督が観客一人に向けて作るというコンセプトで作られたものが量産されたら面白いと思っています。今回は5作品でしたが、継続して100本とか200本とかになると、本当に細胞が集まるような感じになるんじゃないかと。そこに、もしかしたら時代が反映されるかもしれないし。劇映画的なものが多い年だったり、実験映画的なものが多い年だったりとか。それをずらっと並べて観てみたいなと。参加してる側からすると、これはたくさんあることによって価値が生まれるもののような気がしています。

ハクポ・イシナカ(以下ハ):「映画の細胞」は、ぼくの中では関係性なんですよ。ぼくはドキュメンタリーをずっとやってきたんで。ドキュメンタリーって全部関係性なんで。今回、一人の観客だったじゃないですか? マスの場合、関係性が生まれないんですよ。観客が一人だと、関係性が生まれる。で、さっき三木さんの作品だけちょっと異質だって言ったのは、関係性が映像に入り込んでいるのは三木さんの作品だけだったんじゃないかと思ったからです。山科さんと三木さんの関係性。だから他の作品は、映画っぽいものができちゃってるような気がするんです。つまり、マス向けの映画と同じ作り方を結局はしちゃったんじゃないかなって。『懺悔は懺悔である』の中にだけ、観客の〝願望〟を作ってもらうのでもなければ、観客にメッセージを送るというのでもない、一対一の何かが生まれてる、とまではいわないんだけど、生まれかけているように見えました。それはこの企画でしかできないものだと思いましたね。

相:ここだけの話、一人の観客っていうのも、本当に一人なのかっていう問題があるんですよ。つまり、人間って安定した存在ではないでしょ? 数日すれば感じ方も変わってくるし、なんだか虫の居所が悪い時とかもあるし。だから作品を、三木さんだったら三木さんの虫の居所のいい時に観せねばならないとか、ゆくゆくはそういうことも必要になってくるような気がするんですよね。私自身、出来上がった作品を観せたら怒られたという経験が多々あるので…。

木:爆笑

相:あとで、何であんなに怒ってたんですかって聞いたら「いやぁ、酒飲んでたからさ」って謝られたけど笑 平時なら冗談で通じるような表現も、そういう時は通じないんだなと学びました。

三:それは、相馬さんに心を許してるから怒ったんでしょうね。

相:どうなんでしょう笑 でも、打ち合わせの時の観客にフォーカスして、そこから実際に作って3か月後に映画を観せる頃には、もうその人の置かれてる状況は変わってるかもしれないし、一人って結構深いぞとは思いましたね。最初は「明るく楽しいものを」っていってたのに、「今おれはそんな気分じゃねぇんだよ」とか、そういう感想が返ってくるかもしれないでしょ? 難しいですよね。

ハ:関係性が変われば、そういうことも起きますよね。

三:お客さんがまばらな時に観るか、満席で観るかとかでも全然気分とか変わっちゃうし。スクリーンのサイズ感とか音の出方でも違ってきますよね。

相:「映画の細胞」は一人に限定してるから、お客さんが入らなくても落ち込むことはないですよ!

三:そうそうそう! そういう部分は解消されるわけですよ。

木:でも、「細胞」が自主映画的な内向き感の中に収まってしまうのは勿体ないかなと思いますね。色んなバックグラウンドの人が監督としても観客としても参加してくれるような場になってほしいな。

相:あとは、今は自分がお金を出してるけど、床屋さんみたいに映画を観たお客さんが監督に幾ばくかのお金を出してくれたら嬉しいのですが。等価交換が成立すれば。

三:うーん。映画を買うっていうのが難しいと思うんですよね。考え方として。たとえば自画像を描いてほしいっていう注文に対して対価を支払うはありうると思うんですよ。だけど、自分のために映画を撮ってほしいとか、それにお金を払ってくださいというのは、かなり怪しい商売に聞こえるというか…。それに絵は飾れるけど、映画は流しっぱなしってわけにもいかんでしょうと。

相:でも最近は、HuluやNetflixなどのストリーミング動画配信サービスにサブスクという形でお金を落とす人も増えてきてるじゃないですか? それこそ寝る時は流しっぱにして。あと、配信者への投げ銭とかもありますよね。ああいうのがOKだったら、自分だけの映画がほしいっていう人が現れてきてもいいような気がするんですが。絵画は飾れるっていうことでいえば、「映画の細胞」も試験管の中のUSBという形で飾ることができますし笑

三:確かに笑 いいですよね、これ。

相:アメ横辺りに「映画の細胞」ショップを出すのが将来の夢だったりするんですよ。たくさん試験管を置いてね笑 あとは、一気に国際映画祭にしちゃおうかという案もあるんです。フランス人が日本人に向けてとか。その逆とか。ロシアの人がウクライナの人に向けて作ってしまうとかね。まぁ、その前に、観客一人に向けて作る時の映画のクオリティとは何かっていう集合知が要るようにも思いますが。この座談会もそのための試行だったりします。本日は長時間お付き合いいただき、ありがとうございました。

参加者全員で記念撮影。

(終わり)


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