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『タイリング・ワールド』

父と母がアメリカに出かけたので、ぼくが留守番することになった。

人の少ない小道を、年甲斐もなくケンケンパをしたりしながら進んでいると、何度も来た道なのに迷いそうになり、真面目にちょっと焦った。それくらい、何か景観が変わってしまっていたように思えた。

近所の床屋は潰れ、同級生のやっていたバーは廃れていた。学校の横を流れていた河川も全部埋め立てられていた。駅の方まで等間隔に続く街灯は、新品のブルーライトでぼくの影を明るく照らしだした。遠くのほうに、緑色のフェンスと生コン工場のタンクが見える。どうやらあすこだけ昔のままのようだ。

雨が降ってきたので、ぼくはフードを頭にかぶったまま、スキップで家に帰った。
すると、どうだろう。実家の裏の空き地すらなかった。
ついこの前来たときは、揺れるススキが黄金の原っぱみたいなのを形成し、家の向こうまでひろがっていくように見えたものだけど、いつの間にか集合住宅が立ち並び、驚くほどありきたりな景色が横たわっている。

ぼくはなんとなく、もうここにはモヘの墓以外は何も残ってないんじゃないかというような気がしてきて、グッと唇を噛んだ。
モヘは、数年前に父の中指を食いちぎったため、保健所で殺処分されたカラカルの名だ。

次の日も雨は止まず、水滴はひねもす屋根を叩き続けていた。
昼過ぎ頃、ぼくは二階の自分の部屋の布団の中でアキレス腱を伸ばしていた。起き上がるためには準備体操が必要だというのが、ぼくの学生時代から続く習慣だった。と、横を見ると、壁紙が変わっていることに気付く。だけどそれは、本当は壁紙ではなく、何処からか侵入した大量の蛾が張り付いているせいなのだった。蛾の羽は原色で、エッシャーの鳥と魚のタイリングを思わせる複雑な模様を浮かび上がらせていた。

ぼくは、すぐにも部屋を出て行きたかったが、ヘンに音を立てると蛾の大群が部屋中を飛翔しそうな気がして怖かったので、可能な限り緩慢に布団を跳ね除け、能の舞みたいな速度で父の部屋へ駆け込んでいった。父は生物学者なので、研究のために飼っていたやつが逃げ出して部屋を徘徊することが結構あった。そのたびに、父と母は大喧嘩をしていたわけだが、今回もそれだと思ったのだ。しかし何度確認しても、薄紫のカーテンによって遮断された暗い窓際に並ぶラックには、蛾を容れるタイプの虫籠は見つからなかった。机の下に、小さなキノコが生えている青いバケツのようなものも見つけたのだけど、蛾を餌にするような生物は見当たらなかった。
ぼくは、反復横跳びのし過ぎで疲弊した中学生みたいな気分でフローリングに胡坐をかいて、スマホで蛾の駆除の仕方を検索したりした。
空っぽの水槽からは、空気ポンプが奏でるあぶくのリズムのみが流れ続けていた。

暫しの休憩の後、ぼくは手練れの泥棒よろしく迅速に動き回り、家中の棚を点検していった。
靴箱という盲点みたいな場所から、ようやく目的のブツ=殺虫剤を見つけ出すことに成功すると、ぼくは元ぼくの部屋へ引き返し、相も変わらず壁紙のように泰然としている新しい主人らに向かって、まんべんなく毒を噴霧してやった。
蛾は微動だにしなかったが、夕方頃には、みんな弱って死んでしまった。
ところがぼくは、寝室に散らばった蛾の死骸をどう処理するかまでは調べてなかったため、結局その日は徹夜で作業する羽目になったのだった。

次の日、雨は風に変わり、風は家の外で電線を殴りつけていた。
蛾のいた部屋に寝るのが嫌だったぼくは、一階のリビングで寝起きしていた。

夕方頃、理由もなくテレビをつけてみると、海岸で大量のイワシが死んでいる映像が流れてきて、その死骸の列が、昨日殺した蛾の羽にあったエッシャーの文様みたいなやつと似ているような気がして、動悸が激しくなった。
台所へ行き、深呼吸をしする。珈琲を挽いて、頭の中を初期化して戻ると、テレビの中のレポーターが「イワシを食べた海鳥も死に絶えています!」と言うのが聞こえる。ぼくはまたぞろ動転して、背中にびっしょりと汗をかいていた。平衡感覚も狂ってきてる気がした。だが、中継は続く。よせばいいのに、カメラがズームして、死んだイワシの斑点模様みたいなやつを画面いっぱいに映し出してくる。それが等間隔に続く街灯のように見えてきたので、ぼくは堪らず電源を切った。
説明しずらいのだけど、そのまま眺めていると、街灯どころか、集合住宅や緑色のフェンス、工場のタンク、ぼくの家やモヘの墓まで見えてきて、見えたが最後、すべてが崩壊しそうな予感がしたのだ。

それからぼくはどうしたというのか。
両親との約束を反故し、カプセルホテルの一室で、世界平和を願いながら死んだように横たわっていた。




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