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『カメムシ』

夜勤中に新しい工場長がやってきたので、ぼくは挨拶をした。
立花というその男は、ぼくよりも幾分背が高くて、年齢も一回りくらい若い印象だった。

ここのシステムについて二三聞かれたが、正直いうと、ぼくはここで何が作られているのかよく分かっていない。分からないまま24年も働いてきたのだから大したものだと思うが、その間何をしていたのだろうと考えると、実のところ何も思い出せず、胸の奥がぎゅっと冷え込むような気がした。

――それで、こっちは何があるの?
――あ、はい。シュートとタンクっす。
――で、そっちがスロープね。
――あ、はい。スロープっていうか……。まぁ、スロープっすね。
――プラントも案内してくれる?
――あ、はい。

工場長の横には、ぼくと同じかもう少し上と思わしき男が二人付き添っていたのだけど、ぼくはその二人を知らなかった。

多分おそらくは偉い人なのだと思うが、ぼくは人の顔にあんまり興味がないので、誰だが分からない。
顔に興味がないというより、皮膚のぶよぶよした質感が嫌いなのだが、正直に言うと変な人だと思われるので、ぼくは隠し通す。

この仕事を選んだのも、人の顔の皮膚を見て過ごすよりコンクリートの表面を見て過ごすほうがマシだと思ったからで、あとは家から近かったということもある。

長く務めるうちに、夜勤担当というか夜間警備みたいなことをやらされることになったわけだが、それはぼくにとってもぼく以外のスタッフにとってもプラスの行いのように感じられた。

そんなぼくの自慢は、秘密のオリジナル生コンを調合することであった。

生コンの原材料は、セメントと砂と水となぞの薬剤を混ぜ合わせたものなんだけど、それだけじゃつまらないなと思って、夏から秋にかけて工場の壁に大量発生するカメムシをこっそり放り込んでやるのだ。

カメムシ達は、柔らかなセメントの中で暫くはもがくのだけど、段々と弱っていって、最後はアート作品のようにかっこよく固まるのだ。

ぼくはその遊びが大好きだった。

――機材周りは大丈夫ですね。
――意外とちゃんとしてたね。
――3年に一度は入れ替えてるみたいですから。
――それは、初めて聞いたな。
――え? そうなん?
――あいつは、そういうとこが……
――まぁ、そういうとこだよな。

プラント見学を終えると、新工場長と偉い人達は、骨材置き場へと向かった。

ここには元工場長とのささやかな思い出があった。

元工場長の中村さんは、生コンにカメムシが混じっていても笑って誤魔化していくスタイルの、どちらかといえばぼくと同じタイプの人間だったので、声が小さい意外は割と好きだった。
顔の皮膚は想い出せないが、手の形状をよく覚えている。

長年セメントを扱ってきたせいか皮膚がカサカサで、ところどころ罅が入っている。それから、親指の爪の部分に黒い斑点があった。

あれは入社して初めて夜勤に入る日の前だったように思う。
骨材置き場の前で、二人して缶コーヒーを飲みながら駄弁っていると、中村さんが、カサカサの手をさすりながら、突然ホラーなことを口走った。

――匂うだろ、ここ。
――そっすかね?
――結構人が埋まってるからな。
――え? マジっすか?
――言うなよ、他のやつに。
――あ、はい。……てか、あの、ガチなやつっすか?
――バーカ。冗談だよ。

中村さんは、ぼくがヘルメットの装着の仕方も分からないバカだと安心して、そんなことを漏らしてしまったのだろうと思う。
でも確かに、誰かが人を殺して夜中こっそりここに埋めてもバレないような気がする。ドライバーの澤田さんは元ヤクザらしいし、組合の溝口さんも5つか6つ前科があったらしい。勿論、ぼくがバカなので中村さんがからかって遊んでただけの可能性もある。

だけどぼくは、夏から秋にかけて、工場に大量発生するカメムシは、骨材置き場の下の死体を食べに来てるんだと密かに思っている。

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