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第一回「細胞座談会」(前編)


「映画の細胞」に総評は要るのか


相馬あかり(以下相):今回はお集まりいただき、ありがとうございます。「映画の細胞」は、一人の観客に向けて映画を作るという世界でも稀なイベントでした。その記録として、第一回で「観客」として参加された三木はるかさん、主催の私、協力の木澤、zineに総評を寄稿くださったハクポ・イシナカさんとで座談会を行なってみようということになりました。

三木はるか(以下三):なるほど。よろしくお願いします。

ハクポ・イシナカ(以下ハ):よろしくお願いします。

木澤航樹(以下木):よろしくお願いします。

相:そもそも「映画の細胞」に総評が要るのかという問題があるんですけどね。観客が一人で、監督がその方に映画を作るのなら、本来そこで完結してもいいわけですよ。事実、イシナカさんの文章の中でも「これは観客にしかわからない部分なのかもしれない」というような指摘が多くあった。でも、観客を一人に設定するということは、その他のお客さん=所謂マスを遮断しているということでもあるわけですね。「映画の細胞」は、そういう状況下で作られたということを、きちんと残しておきたいなと。今回はイシナカさん以外にも、「一分で観るのをやめる男」という方に寄稿をお願いしているのですが、この人は普段から映画も観ないし、映画通でもなんでもない人なんです。私の映画を観ると、本当に一分で観るのをやめる人なんで。

三:素直ですね笑

相:えぇ。zineの草稿を送ったら「長いんで一分で読むのやめました」ってマジで言ってましたし笑 でも、そういう人のほうが、意外とマスの感想と近いものを書いてくれるような気がして。彼を起用したのは、一人の観客にフォーカスするということは、マス側からはどう見えるのかっていうのを確認したかったというのがあります。場合によっては、復讐を受けることもあるんじゃないかと。

『懺悔は懺悔である』の宙吊り感


ハ:ぼくは、やっぱり観客の感想が一番重要な企画だと思っています。文章に書いたこととも重なるんですが、映画には大きく分けて二つあると思っていて、一つは、エンタメとかがそうだと思うんですけど、“観客が満足する映画”ですね。もう一方で、芸術映画とかがそうだと思うんですけど、もうちょっと主体的になって「ここには何が描かれているのだろう?」と、“観客が前のめりになる映画”。そこから対話が始まるタイプの映画ですね。そういう前提がある中で、三木さんと山科晃一さんの『懺悔は懺悔である』なんですけど、これは一体誰の何のための映画なのかが、他の作品以上に宙吊りになっているところがあって。

三:はいはい。

ハ:それは、三木さん自身が監督でもあるからじゃないかと予想を立ててたんですけど。

三:はい。

『懺悔は懺悔である』監督:山科晃一 観客:三木はるか


ハ:本編に登場する相手役の方は、役者の方ですか?

三:本当の役者さんです。

ハ:本物の役者の方が、役者役をやっているということですね。彼女を鏡にして三木さんがいる。さらにそれをカメラが撮っていて観客として観ている。まさに鏡というか、二重構造になっているわけですね。更には、監督の山科さんの視点も、あるようでないような、そこもまぁ、宙吊りになっている。それが、第三者的に観た時の一番の面白さであり、一番の物足りなさでもあるところなんですけど。鏡の鏡を観せられた時、これが何なのか、まったくわからないということになるわけです。そこのところを、ご本人としてどう思ってるのかお聞きしたいのですが。

三:なるほど。今回の「映画の細胞」で生まれた5本の作品には、観客自身が主役級で出るという共通点がありました。それは、かなり特徴的かなと思いましたね。この企画は、そうはならないんじゃないかなと思っていたので。確かに私自身、普段は映画を撮っています。なおかつ自分が出る映画を撮っている。だけど、自分が観客となって誰かに撮ってもらう時には、自分で気付いていない自分の一面が観られたらいいなと思って企画に応募したふしがあるんですね。だけど、必ずしも私が出る必要はないと思ってたんですよ。自分がどういう映画を観たいか相談していく中で、役者さんを立ててやっていただけるなら、それはそれで、また新たな「三木はるか」が生まれるだろうと。反面、きっと出ることになるだろうなと想定してもいました。それで、山科さんと話し合っていく中で、実際に私が出ることになった時、演技をしたくないって注文をつけたんですよ。自分が演技が下手だから、それが浮き彫りになるのが嫌だって。だから、なるべく演技をしない状態で出してほしいと。そこから色々意見が出て、お酒を本当に飲んで酩酊した状態だと無意識の部分が出るんじゃないかってことになって、ああいう撮影になって。言ってる内容にも中身がなくて、それを聞かされてる女の子も段々飽きてくるというような形式になっていきました。タイトルには「懺悔」と付いてますけど、私がへべレケになっていく様子だけが描かれています。ただ、この作品に対しての私の満足度は、かなり高いと思います。高いんですけど、私の役を「長澤まさみ」がやっていたら話は変わっていただろうと思うこともあります。別に「広瀬すず」でもいいんですけど。そういう人がやってくれても、私の満足度は高いわけですよ。他の方がやってくれるほうが、より多くの人の関心を惹く要素になったのかもしれないと思ったりもしました。

ハ:別の俳優だと、あの宙ぶらりんさは出ないんじゃないですか?

三:別の方がやるんだったら、違う私の面を出すシナリオを書いてもらうことになると思います。

ハ:その場合、書いてもらうんですか?

三:それは、私の知らない私を知りたいから。私がシナリオを書いちゃったら、私の範疇じゃないですか。

ハ:別の方が演じても「三木はるか」になるんですか?

三:なるかどうかを観たいっていうか。

ハ:それが失敗であっても?

三:そうそう。失敗であっても実験として観たい。

ハ:なるほど。

三:山科監督だったら山科監督が脚本を書くでいいと思うんですけど。「三木はるか」とはこういう人物であるというのを、別の人に演じてもらって、それを観て、私自身がどう思うかっていうのが実験かなって思ったんですよ。別にそれは男性でもいいんですけど。

ハ:じゃあ、あの設定は山科さんが決めたってことですか?

三:そうです。

ハ:三木さんを第三者として描くためには、あの設定だと。

三:はい。劇団の設定にしたのも山科さんだし、お酒を飲みましょうも山科さんだし、だから『懺悔は懺悔である』は、山科さんの作風を踏襲してると思うんですね。

ハ:へー。

三:観客があれやこれや注文して作風がガラリと変わってしまうのであれば、それはまた企画の意図と外れるような気もしていたので、監督の作品としての質は崩れないほうがいいと思ってました。観客に振り回される作品が5本集まるというのではない筈だとは思っていたので。

映画の型は崩れない


相:映画は監督のものなのか。それとも観客のものなのか。主従関係みたいなところで映画が作られてしまうのは面白くないというご意見だと思うのですが、たとえば床屋さんの場合、「ベッカムみたいにして」とオーダーがあっても、実際にはベッカムそっくりにならないのは理容師さんもお客さんもわかってるわけです。顔も違うし、頭の形も違うわけだから。で、妥協点としてこのぐらいかなという風にやっても、誰もクレームを付けないわけです。でも、映画で同じことをやろうとすると、その妥協点すら見えない。

三:うんうん。

相:私は、皆さんもっと妥協して非映画的な何かを作っていくのかなと思ってたのですが、意外とちゃんとした、ちゃんとしたってのも変ですが、映画っぽいものになっていたので驚きました。と同時に、そう簡単に映画の型は崩れないんだなっていうのも見えてきたんです。その証拠に、第三者である「一分で観るのをやめる男」の批評は概ね好意的でした。彼は通俗的な人なので、ちょっとでもわかんないものがあったら酷評する筈なんです。

三:そうなんだ笑

相:それともつながるんですけど、今日、座談会の場にマルセル・デュシャンの『トランクの中の箱』のレプリカを置いてるのは、この携帯美術館みたいなものが「細胞」的だなと思ったからなんです。ここには、彼が絵画及びアートの型を拡張していった過程が詰まっています。まず、こっちのほう、彼はもともとこういった絵画作品から出発してるんですよね。そこから段々逸脱していって、レディメイドといわれる工業製品だとか、偶然できた形から曲線定規を作ってしまうというようなことをやっていったわけです。これらは、形としてはもう絵画ではないですけど、説明を聞いたら大体の人が面白いと思うようなものなので、今では芸術と認知されています。映画も、今ある映画と比較して、「これは映画ではない」と断定するのではなく、「これもまた映画ではないか?」というような拡張性が出てきたら面白いなと思ったんです。たとえば、今回人が出てこない映画はなかったわけですけど、何故なんでしょう?

『トランクの中の箱』について語る相馬あかり


三:うーん…。

木:でも、観客にわかってもらわないと困りますから。

相:「わかり易く」というのは、マスに向けて作る時に必要とされる前提で、私達の時代特有の呪いなんじゃないですか? 学校の授業やSEO対策、ユニバーサルデザインとかは、大体全部わかり易さをベースに考案されてます。現在のことだけを考えると正しい選択なのかもしれないですが、100年、200年というスパンで考えると、ひたすらわかり易いものだけが出てくる時代というのはどうなんでしょう? 分析の必要ない作品だけが残る世界が、はたして豊かといえるのかしら。

ハ:その辺は、ぼくも相馬さんと大体同じですね。もっとヘンな作品が出てくると思ってたら、意外とフォーマットに収まっているように見えました。ただ、相馬さんの関心は、「映画の細胞」を通して面白い作品が生み出されることですが、ぼくの関心は観客がどう思うかということなんですけど。そういう意味でも、三木さんは真ん中にいると思うんですよ。ご自身でも監督であるし。

三木はるかは『懺悔は懺悔である』をどう鑑賞したのか


ハ:先ほど、新たな「三木はるか」が観たいと仰りましたが、それは「三木はるか」なのか、「監督 三木はるか」なのか、それもわからないんですよね。どこがどう満足して、どこがどう不満だったか。

三:自分で自分を撮ってるから、もう飽きてるんですよ、自分に。

ハ:え~笑

三:この企画では、撮る側ではなく撮られる側として存在意義がありそうだと思ったんですよ。自分で自分が出る映画を10本以上撮って、どこをどう切り取れば、こうなるとかもわかるし。もう引き出しがないんですよ笑 だけどそれは、私が自分で自分のことを分析してるだけなので、他の人からの分析が入れば、それはまだ多様にあるだろうなと思って。誰か他の人の視点によってえぐり出されたりとかされるんだったら面白いなって思ったんです。

ハ:飽きてるのは作風ですか? 自分自身に飽きてるんですか?

三:作風だと思いますね。見せかたのパターンが自分の中で出来上がっているので、そこから脱出したいみたいなのはあります。

ハ:脱出できたんですか?

三:模索中ですね。最近のものは、自分は出てくるけど、自分じゃない役をやってみたりだとか、全然違う役をやってみたりだとか。あと、自分の言葉を完全に排除したりだとか。あとは、何とか自分を出さないで「三木はるか」というものを表現できないかという感じのものに変わっていってます。どんな形でも、他の人が介入すると自分の違った面が見えるなっていうのがあるので。

ハ:今回の『懺悔は懺悔である』で、新しく変わったとか発見したことなどありますか? そこがあれば満足度に返ってくると思うんですけど。

三:自分が自分にカメラを向ける時とは全然違うテンションのものが完成していて、その中に自分が介入していることの喜びみたいなものはあります。

ハ:テンション?

三:山科監督の映画のテンション。

ハ:あぁ。

三:あのリズムを自分で作り出すのは不可能って思っているので。鮮度のある「三木はるか」を観たなって感じがあるので、そこの満足度はあります。グダグダ喋ってるところなんて、自分では見せたくないですし。自分の映画の中では、酔っぱらってる自分なんて絶対に出てこないので。

三木はるか氏とハクポ・イシナカ氏。


相:確かに私も映画を観た時、普段の三木さんとのギャップを感じました。自信なさげというか。意外と消極的なんだとか笑

ハ:本当に飲んでるんですか?

三:本当に飲んでます。

ハ:本当に酔ってるんですか?

三:本当に酔ってます。本当に4本ぐらい飲んだので。普段はそんなにたくさん飲まないので。

ハ:三木さんに限らず、人間、カメラが回ってれば演技するじゃないですか?

三:はいはい。

ハ:で、三木さんは、そのプロというか。

三:そうですね。勿論、お酒を飲みながら演技というか、一台固定、もう一台がぐるぐる自分の周囲を周ってるなっていうのは確かに感じてはいるので、それを捨てきるのは無理なんですけど、台詞が用意されているわけではないので、なんか喋らなきゃとかも考えながらやっていたので、無意識がじゃんじゃん出てたと思いますよ。

ハ:最後に時計が出てきますけど、合計で何時間ぐらい喋ってたんですか?

三:2時間で撮りきってましたね。

ハ:ずっと回してるんですか?

三:ずっと回してます。ずっと回して、それをかなり切って5分にしてます。酔いが回るにつれて、やっぱり同じ話をしたりしてたようで。

ハ:山科さんは、どうして5分にしようと決めたんでしょうね。

三:絶対5分って決めて、切りましたって言ってました。

ハ:山科さんの作品は、他の作品を観ていないので、その作風がよくわからないんですが、この作品だけを観ると、「批評眼がない作品」に見えてしまうんです。でも2時間も撮ってたら、きっちり焦点を合わせることはできるんですよね。「これはこういう視点です」と。物語を作ることもできるでしょうし、もうちょっと輪郭をはっきりさせることができたと思うんです。でも、お話を聞いてると、あえてそうしなかったとしか思えないですね。その宙吊り感をあえて出したかったというバランス感なのかなと。

三:うん。多分、山科さんは中身のない話を抽出したかったんだと思います。私も本当に中身のない話をしているし、着地点も決めずにやっているので、これで終わらせようみたいなのがあんまないんですよね。その、ふわふわした言葉、何となく演劇やってる人っていう設定だけなので、核心に迫る何かはないわけですよね。

ハ:演劇をやってるようには見えないですよね。三木さんにしか見えない笑 演じるのを拒否しちゃってるというのもあると思いますけど。

三:まぁ、そうですね。だから、ほぼドキュメンタリーになってるわけですよ。私が酒を飲んで喋るっていうドキュメントが始まり、それを1時間半かけて撮ったって感じなんですよ。それを一応、劇映画としてまとめましたっていうのが、山科さんの仕事だったということですかね。

ハ:映ってないところで、三木さんがもっと饒舌に語ってたり、理路整然と何かを語ってるところもあるんですかね?

三:あるかもしれないですね。記憶がなくて私。

ハ:記憶がないくらい飲んでたんですか?

三:ハイペースで4本くらい飲んでたんで。

ハ:自分をなくすために?

三:そうそう。自分をなくすために。記憶がないほうがいいんだろうなと思って。

ハ:あ、そういうところで演出に応えてたんですね。そういう応え方があるんですね笑

三:後半は特に全然覚えてないですね笑

相:映像って、全部具体的になっちゃうから、余白を作るって実は難しいですよね。『懺悔は懺悔である』は、その意味では余白の多い映画だったように思います。余白を解釈の余地と言い換えてもいいと思うんですけど、観客が三木さんで、かつ三木さんが実験映画をよく観ていることを監督の山科さんが信頼して作ったからこそ、こういう映画ができたのかなと思いました。

ハ:観客の〝意志〟が一番入ってる気がするんですよね。他の作品は〝願望〟が入っている気がするんですが。

相:あぁ。

三:そうか。〝願望〟と〝意志〟は違うってことですね。

ハ:そうそう。いいとか悪いじゃなく、質がちょっと違うんで。

三:そういう意見が出るのはよかったと思います。〝願望〟と〝意志〟という話で言うと、『走る男』と『結局お前次第』は、観客の〝願望〟を叶えた映画で、『包 bāo』は観客の〝願望〟を汲み取りながら、その通りにはやらないぜっていう、ちょっと意地悪なコンセプトが秀逸でした。『廃屋に取り付かれたメスザルの物語』は、観客の〝願望〟ではなくて、監督の思いがすごく強い作品でした。あれを観ても、観客の女の子は楽しくはないと思います。「ホラーが観たい」というのが〝願望〟としてあったと思うんですけど、全然そうではない、社会問題としての怖いドキュメントになっていて。あれは現時点の観客にとっては「何だこれは?」でも、10年経ったら価値が全然変わってくるものだと思いました。

座談会を記録するカメラ

(後編に続く)

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