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短編小説「かくれんぼ」#2000字のホラー

「もういいかい?」
 その呼びかけが構内に響き渡る。砂埃が寄せる隅。祭壇の下で灰になるまで枯れた花。身廊、側廊、後陣まで。その隅々まで呼びかけは届く。まだ幼い、高い声。がらんと静まる十字を模したその建築はコンクリートに包まれていた。見上げる彩光塔は窓の一部が欠け、そこから黄色く丸い、秋の太陽が燦々と長い光線を差し込ませている。その光が届く床の継ぎ目から、背の低い雑草がどうにか伸びて呼吸していた。倒れた椅子は起こされることもなく、そしてそれを望むでもなく、ただただ錆びて、朽ちてゆく。その生はあきらかに極められた。充分に生きて、そして、いまは倒れて眠っている。眠りの日々。穏やかな午後。声は聞こえる、しかし、人らしい姿はない。
「もういいかい?」
 語尾に明確なクエスチョンを連れて、二度目の呼びかけが教会のなかを駆け巡る。少年は誰かの気配に気づいて振り返る。背中のすぐ後ろに人が迫っていると思っていた。
 見ぃつけた、そう声をあげるつもりが、それができない。そこには誰もいなかった。どうもおかしいと彼は思う。どうして誰も見つからないんだろう。どうして僕の声は誰にも届かないんだろう。
「もういいかい?」
 ありったけで叫ぶ。誰かに届きますように。僕の声に驚いた誰かが、僕の友達が、慌てて出てきてしまいますように。倒れたままの椅子のあたりで物音が聞こえて、「見ーつけた」を用意して、彼はよろこぶ。伸びない影。ネズミかイタチか、茶色の毛の四足歩行が逃げてゆく。その尾は短く影にはならなかった。
 少年は不思議に思う。ふいに不安に襲われて自分の足元に視線を送った。異変はない。普段と変わらない。はずだった。どうしてだろう、僕には影がない。いつからだろう、いつ失ってしまったのだろう。膝を上げてみると、その小さな膝が、ハーフパンツのふとももが透けて、その下の砂利や土埃や、床の上の砂までが見えている。
「僕はずっと昔に死んでいたんだ」
 欠けた窓から室内を侵入しているほどけた光。手を伸ばす。指先は溶けて透けている。手首の焦げ跡。白いのは骨だろう。誰のものでもない小さな午後の視界で、少年はトイレへ向かった。そこには鏡があったはずだ。僕は僕を確認しよう。そうすれば答えだって見つかるかもしれない。慌ててもつれそうになるはずが、もつれたりはしない。干渉し合うはずの膝が、爪先が、すでに実体ではない。記憶のなかの実体の、もつれる姿を思い出しているだけだった。
 扉にかけた指はノブをすり抜けて、姿勢を崩して、その勢いのままぶつかったはずなのに、やはり、頭から順にドアを通過していた。体を操れない。操るべき体がない。お腹も空かない。僕はもう生きていない。
 そうだ、左には鏡があった。きっと何も映らないだろう。いつものように、そこにはひび割れたタイルのトイレの壁だけが映り込んでいるのだろう。少年は鏡の前に立ち、そして目を開けた。
 少年は自らの死をすでに認めていた。恐れるものすらない。なのになぜ、躊躇があるのだろう。
「もういいかい?」
 講堂だろう。誰かの声が聞こえた。誰だろう。思い出せない。記憶のなかに友達がいなくなっていた。じゃあ、僕は誰に呼びかけていたのだろう。とにかく行ってみよう。そこには声の主が、誰かがいるかもしれない。誰かがいてくれたらいいのに。もつれても絡まることのない足で、少年は駆け出した。誰かいてくれたらいいのに。
 鏡には誰の姿も映ってはいなかった。「まーだだよ!」と彼は声をあげる。どれだけ走っても息がきれない。そうだった。僕は生きていないのだから。
 講堂にはたくさんの子供たちが集まっていた。子供だけではない。大人もいる。若い人。お兄さん、お姉さん。お父さん、お母さん。彼より小さな子供もいた。それぞれに誰かを呼んでいる。そして、その声はまだ誰にも届かない。
 精一杯の「もういいかい」が、その無人の講堂に響き続けた。何人がそう叫んだことだろう。そしてそれに応えても、それは誰にも届かないのだろう。
 さあ。思い出そう。僕のことを。目を閉じて耳を澄ます。何が視えるだろう。何が聞こえるだろう。僕は。僕たちは、ここの火災に巻き込まれた、教徒とその子供たち。泳ぐようにして彼は中空へと浮かび上がった。太陽の光線に貫かれ、そしてやはり透き通っているままだった。天井を抜ける。屋根の上に到達する。空は今日も青い。雲がどこかへ流れてゆく。丘の上はあの日と同じままだった。
 花束を抱いている人が敷地内に入ってゆくのが見えた。黒い服の女の人。ありがとうと僕は言う。そうか、あの人がお母さんだったんだな。そして彼は消えた。少年の母は喉を震わせて、手を合わせている。
 何度、気づいて、何度、忘れるのだろう。それを繰り返して、天に昇りそこねてきた。今度こそと彼は思う。泳ぐようにして、空を登ってゆく。

photograph and words by billy.

#2000字のホラー

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