見出し画像

短編小説「夏の恋」

「雨です」
 私はそう呟く。声にはしないように気をつけて、思わず外に出そうになったそれを閉じた唇で塞ぎ、口のなかに吸い込んで、いっそ飲み込んでしまおうとも思った。誰にも聞かれないように。だけど、私はそう呟きたかったのだ。カバンのなかのハイチュウを口の中に放り込む。それから時間を確認する。午後五時四十五分。足元の水たまりに落ちる雨粒がぱらぱらと少なくなってゆく。高架下から西の空を覗く。焼鳥屋の二階の上の真夏の空は、いまだに青さを保ったまま、再びの晴れを展開するつもりのようだった。目の前を軽自動車が通り過ぎる。
 ほら。まだ、雨が残っているうちに。届け。
「雨だよ」
 Twitterにそう一言だけ呟いてみようとスマートフォンを見つめる。そこには、きっと私の呟きに目を通してくれるはずの誰かがいる。アプリを開く。「フォロー1人。フォロワー1人」と表示されている。昨日と同じだ。それでいいんだ。たくさんの人に見てもらうようなことは言わない。言えない。そのつもりもない。ハッシュタグもいらない。私の呟きは、たった一人に届けばいいのだ。
 そう思って、きっとは私は微笑みさえ浮かべて、「雨だよ」と呟いた。私の呟きが誰かのタイムラインに乗る。それから、すぐ近くを自転車のちりんちりんが鳴る。壁に背中をぶつけそうになるまで私が後退すると目の前を日焼けたおじいさんの自転車が横切ってゆく。昨日とまるで同じ風景のように思う。満足して私はアプリを閉じる。また雨になったら、この高架下で誰かに届けばいいなと思って、私は呟いてみるだろう。
 一歩、二歩。その先に広がる真上はまだ真夏の空。夕はまだ始まりそうもない。天井のないところに手のひらを差し出して、私は雨が終わったことを知る。呟きのすぐ後に雨は終わった。私の呟きが誰かに届くころ、きっと昨日よりも真っ赤な夕陽が広がるだろう。そのとき、私たちはそれぞれの生活の場所で、何気なく今日のことを笑い合うことができるだろう。
 それでいいんだ。

「今日も降りそうだね」
 僕は今日も残業になりそうだ、なんて、まるで、いつかの父のように呟こうとして、やめる。いつからこんなことしか書けなくなってしまったのだろう。言葉を失うことが大人になることだとしたら、それはまるっきり僕に当てはまる。天気のこと、話題のニュース、それから、今日の仕事の進捗状況。残業があるのかないのか。思わずため息を吐く。
 窓から眺める外はみるみる濃い灰色が広がって、遥か南で微かに光った。雷鳴だろう、その閃光に遅れて一秒半後に空が唸った。その地響きが走ってくる、ビルの真下を通りすぎて、北上してゆくのだろう。突然の雷鳴や通り雨。夏の夕立。避けようのない大雨を喜んで、むしろ衣服を汚したときの言い訳だと思って、雨のなかを駆け抜けた。両手を広げて天に雨を乞い、全身にそれを受けた。ゴムの長靴で水たまりを踏み締めて、そのときまるで巨人になったような気さえした。そんな少年時代はずっと遠くになってしまった。あのころの僕は、いまの僕をどう思うのだろうか。
 午後五時四十五分。窓の向こうは僕の意志とはまるっきり無関係に、ついさっきまでの青さを取り戻しつつある。思わず誰にも聞かれることのない呟きを残しておこうとTwitterのアプリを開く。そこには。
「雨だよ」
 たった一言の呟きが残されていた。僕の呟きは、見ている人も、見ることができる人もたった一人。たくさんの人に拾ってもらえなくていい。たった一人にだけ、拾って欲しい言葉だけがある。おはよう、とか、おやすみ。何食べた? みたいな、他人にはまったくどうでもいいこと。僕たちは雑言で埋まるタイムラインで、たったそれだけを見つけるほうが嬉しいことだと知っている。
 何を呟こう。僕はそのスマートフォンの入力画面をじっと睨んだ。
「雨のあとの風景ってきれいだよね」
 そこまで書いて、苦笑いを浮かべてしまった。

 すっかりと雨の終わった真夏の夕を視界に集めて私は歩く。寸分違わず見慣れた風景でさえ、雨上がりは光の跳ね方が違うのだろう、昨日よりも眩しく見えた。駅の高架下を南に抜けて、信号を待つ。ドラッグストアの駐車場には焼鳥の屋台が煙をあげて、それからは私は通い慣れたスーパーへ行く。美容室やファストフードが立ち並ぶ専門店街とスーパーマーケット。何者でもない私たちの暮らしの舞台。おじいさんとおばあさん。もしくはおじいさんだけ。おばあさんだけ。奥さん。それと旦那さん。売り場にはしゃぐ子供たち。それから、グループの若い人たち。笑顔の人も、なんとなくお疲れ様の人も。あらゆる人を飲み込んで吐き出すスーパーマーケット。働く人々も忙しそうに顔をしかめている。そこには、夕ご飯の用意をしようとたくさんの人でいっぱいになっていた。
 なにを食べようかな。私は売り場で立ち止まる。ほんの少し前まで毎日の食事というのは、お母さんが用意してくれていた。それが当たり前だと思っていた。いざ、自分一人での生活が始まると、それがどれだけ困難なことか。何を食べたいだろう。その回答を私は持たない。周遊魚のように何度もお惣菜のコーナーを巡ってはみる。そのたびに食べたいものが見つかってしまって、決着できずにため息を吐く。
 こんなときね。いつも思う。空腹は同じでしょう?
「なにか食べたいものはありますか?」
 そんなことを呟こうかな。私が買い物をしている間にそれを見て、君は今夜、食べたいものを呟いてくれるかな。忙しいよね。いちいち、そんなことにまで構っていられないよね。わかってるんだよ。だから、直接、話しかけずに呟こうと提案したんだ。
「いまもまだ仕事しているのかな。まるで君は月の住民みたいだよ。いつも遠くて、私の声は届かない」
 スマートフォンを閉じる。言いたいことなんて一つしかない。呟きたいことなんて、本当は何もないんだと私も知っている。
「ハロー、ハロー。私の声は聞こえますか?」
 そう呟こうとして、私は目を閉じた。

 いま何時だっけ。
 冷静に見直すと生活には不要に見える、意味の不明な文字列の並ぶパソコンのモニターが目の前にある。そのモニターが映すのは、窓の外のいまの空の模様だった。雨は止んだのかな。ふと右上を天井を見上げる。エアコンの通風口。いつの間にか冷えた室内。もうみんな帰ったんだな。前後左右の空席を一周、確認した。それから自分の生活のことを考える。着替えとベッドが待つ部屋に帰る。シャワーを浴びて、ありあわせのなにかを食べる。僕は昨日、何を食べたんだろう。そして、明日、何を食べるんだろう。そこには誰が笑っていてくれるんだろうか。
「お腹減ったな」
 僕は時間よりも早く空腹に気づく。それから、やっぱり、どんな呟きが残されているのかと過去を探る。
 僕の過去なんて、そんなの何もない。必死に生きてきただけだよ。それは誰も同じ。これから生きる未来とか、一緒に何を食べようだとか。
「食べたいものなんて」
 そんなの何もない。君と一緒に食べるご飯が美味しい。僕はそれだけでいい。君と話そう。小さな小さな、僕が用意した食卓で。
 僕は呟いた。
「声を聞きたい」と。

 え、なんだこれ。そう思って私は固まる。
 これって、ばっちり告白でしょう。こういうのって、まあまあ固まる。反応に困る。ほんとは困ってなんてないけど、そりゃもうめちゃくちゃ嬉しいけど、どこに反応すればいいのやら。Twitterに「私もです」とは書けないでしょう。なんでこんなところに書いてるの。誰が見てるかわからないのに。誰もが見られる場所なのに。やめてよもう。なのに、
「私もです」
 思わず、そう呟いてしまった。誰が見ていてもいい。
 私は君のところに駆け出したい。そう思って私はあの日のことを思い出していた。通り雨から逃れようと、駅の高架下で不意に顔を合わせた君と私。あまりの大雨に困り果てたように君は。
「すごいですね、これって」と。私は。
「大雨です」と、見たままのことを言った。君はそれに笑った。私もやっぱり笑った。初対面の私たちが話し合えることなんて何もなくて、それでも、必死に言葉を重ね合った。まるで言葉を憶えたばかりの幼子のように、知り得る限りの言葉を使って。無言のままでは、何もなく過ぎて、いつしか忘れ合ってしまう。そうも思っていた。
「僕もです。やっと言える」
「聞こえる。君の声」
 ハローハロー。僕はそれを思い出す。まるで宇宙人になったような気分だった。
「ハローハロー。聞きたいよ、君の声」
 僕はそう呟いた。
「ねえ。なに食べたい? たくさん買ってきた。お肉でも魚でも野菜でも」
「君と話したい。これから会いたい」
「うん。私も」
「やっと言えた」
 そんな、個人の思いがタイムラインに溢れ返る。そして、私たちは初めて会った、あの駅の高架下へと走り出す。そこにはきっと、君がいてくれるだろう。なんて話そう。雨が降ってくれていたらいいのに。もし、そうであってくれたなら。
「雨だね」
 そんなふうに。君と僕は笑い合うことができるだろう。
 声を聞かせて。いつかそんなことだって言い合えるだろう。
 未来にはたくさんの可能性があるのだから。見上げれば、その先には、まろやかな月の光が灯っていた。

artwork and words by billy.

 さて。
 TwitterなどSNSで恋をしたことはありませんが、陸橋の下で雨宿りをしていたときに知り合った人とお付き合いに発展したことがあります。
 人と人、他人という垣根なんて、すぐに越えられるもの。ここまで読んでくださった皆さんが、恋に落ちたきっかけがあったら(ありますよね?)、もし、良かったら、お聞かせください。
 では、また、明日。ビリーでした。

#創作大賞2023

サポートしてみようかな、なんて、思ってくださった方は是非。 これからも面白いものを作りますっ!