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「冬の朝」

 子猫を咥えたカラスは東に灯り始めた太陽に突き刺さろうと、雲の切れ間の青みがかった朝焼けへ駆け抜けた。そのあとに始まったのは小雨。晴れ間を追い払おうと鉛を混ぜ合わせたような雲がふくらんだ。晴れているのに不思議だねって、空を見上げていた子供は言葉とは裏腹に不安げな声色で、母の手を強く握りたかった。しかし、その手はすでに彼から離れていた。その手は行き先が他にあるのだ。
「ママは電話するから、そのへんで遊んでいて」
「うん、わかった」
 少年は飲み干した、ラムネの空瓶の中で上下して騒ぐビー玉だけを持って帰りたかった。幼い手でそのボトルの首をつかむ。公園のすみの、赤いレンガを見つけて、破裂して粉々にしてしまうまで瓶を叩きつけた。
 花壇には、自己紹介もできない、とりあえず咲いて、どうにか色づいてはいる、しかし、おそらくありふれているのであろう花たちが肩を寄せ合っていた。その花たちの根元に、割れた瓶のガラス片が散らばった。そのひとつひとつに微かな冬の朝の光と、止まずに続く雨粒が乗り移って、ぽつんとした孤独な光が弾ける。踵に踏みつけられた茎と花弁。絶える息。見上げれば青。
 それではまた来世があれば。
 葉の下で潰れた虫には、すぐに蟻たちが集まってくるだろう。

 少年は振り返る。そこにはすでに母はいない。天地と左右、東と西と南と北を、昨日まで隣で笑っていたはずの母の笑顔を探してはみる、しかし、そこに愛する人の姿はなかった。リュックサックにはわずかな紙幣と、さっき買ったばかりのあんぱんとカレーパンと、そして、一通の手紙が入念に封をされて閉じ込められていた。
 良い人に育ててもらってください。あまり迷うこともなく、その一言だけを残して、彼の母は去った。恋人がいるのだ。
「お母さん……?」
 それがすでに過去になってしまったとは知らず、彼は歩き始めた。踏みつけられた花たちは、残されたビー玉と空瓶の破片を払って、もう一度、立ち上がれないかと血を通わせて伝え合っていた。
 ひと気のなくなった冬のベンチは、ついさっきの母親よりも人周り若い男女が占領していた。黒い髪で、黒い学生服の男の子と、女の子。ふたりが話し合うのは、まるであてのない、不確かな、未来についてだった。そんな、愛についての事柄を、指折り数えて、約束を、お互いのことを拘束しようと躍起になっているのだった。
「ずっと一緒にいてね」
 私が君に飽きてしまうまでは。君より条件のいい男が見つかるまでは。彼女はそう考えていた。もう少しハイスペックなのは、こんな田舎にはいないだろうな。
「僕のほうこそ」
 でも、本当は、おまえなんて、三番目だったんだよな。いまの俺じゃ、おまえにしか手が届かなかった。もっと上を狙いたい。そのときまでなら、一緒にいてもいいかな。彼は彼で、似たことを考えていた。
 ふたりがベンチの隅に残した、ハンバーガーの残りをカラスが狙っていた。子猫は栄養面に問題があったのだろう、内臓まで痩せていた。あんなのじゃ、子供たちは満足さてくれない。
「アタマを突かれたくないなら、それを置いて、さっさと消えろ」
 眼下のふたりには、カァ、と聞こえたのだろう、顔をしかめて見上げる。その、遥か高くから、残り少ない雨が落ち始める。学生服の二人は、手を取り合わず、屋根を探してそれぞれに走って、公園をあとにした。
 近くの雑木林では、ある老夫婦が首を吊ろうと、枝にロープを縛りつけているところだった。なるべくしっかりした木を選んだつもりが、何度か揺さぶると、卵のある鳥の巣と、血まみれになった、子犬が子猫か、よくわからない汚物が一緒に落ちてきた。最期まで不愉快な。老夫婦はその落下物を踵に捻った。そして、やっと、終われるのだと、輪に首を通した、そのとき。
 泣きながら歩いてくる、小さな男の子の姿を目にした。しまった。老婦は思う。夫はどうしているのだろう。禁を破る。振り返る。彼はロープを解いてしまっていた。
「僕と一緒に帰ろう」
 新しい家に。古いけれど、君の新しい家に。

 僕は君に言う。
 じゃあ、とりあえず、ビールでも飲むか、と。何も出来ない。出来るとも思わない。せめて、生きよう。それなら、出来るだろう。そんな、冬の朝のことは、ずっと昔のことだった。
 君って、誰だっけ。
 まあいいや、誰でも。こんなに自分の体を軽いと感じたことはない。当たり前なんだけど。僕の魂は、いま、天に向かって上昇しているのだ。
 いつかまた降りてきて、小さな子供からやり直させられるのだろうか。再び、冬の朝に生まれてしまって、何も知らないふりをして、あの日のように泣くのだろうか。あの天に向かって。

photograph and words by billy.
#眠れない夜に
#ほろ酔い文学

追伸
 さて、本日11月7日は、最上の吉日である天赦日で、大安吉日も重なっています。そういう日なので、天に赦しを乞うべき、罪深い生き物のショートショートにしてみました。
 では、また。

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