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#RTした人の小説を読みに行く をやってみた【11作目〜20作目】

 ひさびさにレビュー企画を再開しました。
 しかしながら、思うところがあって今回は総評はなしで、感想のまとめのみです(したがって無料で全文読めます)

【11作目】はじまりの時への幻視 評:「あたらしさ」と「古典」

虚體ペンギン(@Man_with_a_MC

 閉ざされた部屋に象徴される有限空間のなかで、いかにして外界(=無限)を言語的推進力で切り開くかという問題意識を、記録として物質的に残された情報を手掛かりに懐疑的思考によってアプローチした作品だと読みました。こうした問題意識や技巧についてヌーヴォーロマン作品を想起してしまうわけですが、やはり古臭さを感じるのは否めません。
 作者さんにはいうまでもないことですが、「ヌーヴォーロマン(あたらしい小説)」とは、従来の小説の定型を更新する野心として生じた(と分析される)フランス文学のひとつの流行です。言語表現における定型に対し20世紀を通貫してフランスを中心とするヨーロッパ諸国で画期的な方法論がいくつも開発され、ときに言語の氾濫でもってその意味を剥奪し、散文表現でもって散文表現を内破するようなラディカルさを持っていましたが、やはりそうした試みは反復によって「ありふれたもの」にもなり、時とともにその野心もまたひとつの定型となります。しかしそれでも言語表現によって言語表現を更新しようとする意志は生き続けているとぼくはおもっています。そうした「熱」を帯びたエクリチュールがいかにして「前衛」から「古典」へと昇華されるかという問題が、現代における技巧を駆使した表現の課題だと考えています。

 先日、ぼく個人の文章についておもうことがあり、いぬのせなか座・笠井康平とSF作家・樋口恭介に、
「小説とエッセイの違いはなにか?」
 という質問をしました。2人はともに「異化」というキーワードをもって両者のテクスト的特徴を述べてくれたのですが、そこに「言語表現」そのものが持つ「フィクション性」ともいえるべき性質が浮かび上がりました。
たとえばすべて現実に起こったことをすべて事実として書かれた文章があり、それを「小説」と呼ぶに必要なものはなんでしょうか。もちろん、その解答を断定することはできませんが、ぼくの小説観ではそこになんらかの「創意」が必要だと考えています。その創意を2人は「異化」と呼んでいるとぼくは解釈していていますが、すると「なにをなにと差別化するか」という疑問が生じます。
 この議論において笠井さんは日常的に使用される言語との差異に着目した見解を示してくれました。ここでかれのことばを引用します。

『1文あたりの情報量、文体の複雑さ、語られる内容、語りの姿勢、語り手が前提とする世界の常識、人称や場面の切り換え頻度などなど、n個の要素のうち、どこに閾値があるかは分かりませんが、一定個の要素の過半数が「ふだんの言葉」に近づいていくと、エッセイと呼ばれる類いの文章になるんだと思います』

 ここで例示された要素は、まさしくヌーヴォーロマンをはじめとする20世紀文学で技巧として検討されたものたちです。これを踏まえると、「言語表現」と「小説」の関係を物語的虚構を無視したかたちで「テクストを小説にするもの」の像が具体的に立ち上がるのではないかとおもいます。
「はじまりの時への幻視」は、日常の残滓を手掛かりに執拗な情景描写や多声的補足を多用し、非日常的言語でもって日常的情景の解体へ向かい、有限空間内に無限を見出そうとしたところに小説としての「異化」があります。しかし、それじたいの強調は、現代の文学シーンの文脈からみると「もうわかりきったこと」なのかもしれません。こうした問題意識の援用することでいかに「あたらしいもの」を考えていけるかが現代のヌーヴォーロマンになるでしょう。たとえばその一例が、先日公開した小説の冒頭に関するnote記事の、町屋良平『1R1分34秒』による文体の構築の手つきです。

 最後に、おそらくこれからも技巧的前衛が駆使された小説を好んで読まれるとおもうのですが、たとえばクロード・シモンを読むときなどはシモンの作品を「ヌーヴォーロマン」として読むのではなく、「古典作品」として読んでみてください。シモンは想像を絶する言語表現を執拗に行なってきたわけですが、かれの作品が「古典になりえる真価」はおそらく技巧のみによるものではありません。かれが描き続けた戦争のオブセッション、そして描かれたものたちが時空を軽々と超えて接続されていくその現象に、いかなる文学が秘められているか、そうしたことに目をむけることで、きっと作者さん自身も「前衛」を脱した小説を書けるようになるのではないか、とおもいました。

【12作目】芝居 評:文学の継承、あるいは「思弁」と「遊び」

矢田真麻(@MAASAYADA_RED

 思考力、ならびにそれを言語表現としてまとめあげる力にとても大きな魅力をかんじたと同時に、そうしたものを小説化しようとする試行錯誤において身につまされるものをかんじました。
『芝居』というタイトルが示す通り、演劇の制作(脚本・演出・演技・鑑賞……)についての思考を「演劇」というひとつの芸術的行為が持つメタ性を巧みに構造化しつつ、非人称的な語りで内破することで生活と芸術行為を不可分なものとして50枚程度の短編に仕立てた技量はとても高いとおもいます。この短編のいちばんの魅力は現実と表現行為がメルトダウンし、その境界を喪失することで生まれる「わけのわからなさ」です。
 このわけのわからなさこそが、以前ぼくが楓双葉さんの『らぶりつください』の評で触れた上妻世海が提唱する「制作的空間」に一致し、細部まで徹底された感性と思考のひたすらな繰り返しを一定の自由さを伴うかたちで実現する小説の懐の深さの創出に成功しているのではないか、とおもいました。上妻世海はこの「制作的空間」の構築においてミメーシスにより導かれた非人称的振る舞いの役割を議論しており、「芝居」とはまさにその直接的なありかたとしての好例であると了解できます。

 しかし、本作にはまだ「習作臭さ」が依然として残っています。制作的空間の構築そのものへと力強く筆は向かっているものの、その制作的空間により生まれるものがなにか、というところまでは届いていないと感じました。かんたんにいうなら、「思弁」が強調されているものの、その思弁の強度に見合うだけの具体性が作りきれていない、ということです。
 こうした方法論の源流としてまず取り上げたくなる(あるいはぼくが最初に想起した)作家はやはりベケットです。「終わり」への接近と遅延をいくつもの散文により提示し続けたベケットの代表作のひとつ「マロウンは死ぬ」では、「文章を書く私」と「文章として書かれた私に似た私」が次元を異にしながら並列されています。作品内で両者は「終わりへ向かう」という共通項による接近が促されているものの、どこか完全に一致しないような手触りがあります。これによりベケットはこの作品において「制作的空間」を前提としながら、その接近を促す奇妙な力学の描像を浮上させるところにまで筆が伸び、単なる思弁を脱した表現的達成まで到達することができたのだと、ぼくは考えています。
 現代で実作するぼくらにとっての問題は、このベケット的な制作へのアプローチの更新にあります。その手がかりとして参考になるのがフィリップ・K・ディック『VALIS』による語りの分裂のエンターテイメント的な昇華、そしてそれをパロディ化した阿部和重『アメリカの夜』だとおもいます。これらの作品は過度に思弁的であり読者の混乱や辟易を招きつつも、最後までほとんど暴力的な力で牽引させてしまう胆力があります。矢田さんの小説がこれからもっと多くのひとに読まれるためには、文学を正当に継承しながらも、そこに「遊び」の要素を導入してより自由に小説内で呼吸することかとおもいました。

【13作目】母親が死んで悲しい 評:ラテンアメリカ文学と近眼的叙述

ハギワラシンジ(@hagiwarasinzi

 この小説のなかでしか機能しない独特の因果律がはたらく不思議な掌編でした。個人的にとても好きです。とてもおもしろく読みました。
 先日のnoteでぼくは「最低限の小説」は描写と叙述だけで書くことができるという話をしましたが、この小説はほとんどが叙述により構成されており、極端にディティールが省かれています。冒頭、「夜」を描写しようとしていますがほとんど具体的な空間を構築ための情報が与えられず、小説らしさを常に脱臼させるようなポーズをとることに成功しているな、と感じました。

 母親の葬式の夜に「なぜ」ばったりあった友人と飲みにいっているのか、そんな場合じゃないだろう、というような違和感がこの小説の不穏さに拍車をかけていて、思索に深入りすることを回避し続けることでうまれるおかしみに魅力をかんじました。
 先にもすこし述べましたが、この小説を構成する文章は基本的にどれも単純なつくりとなっており、レトリックと呼べるようなものはほぼ見当たりません。構成される文章のほとんどが物語を前へ前へ推し進めていく叙述なのですが、だからといって直線的な時間進行を描いているというわけでもなく、「ぼんやり眺めていたサッカー中継が録画だった」という事象は(ぼくにとっての)この小説のもっともすばらしい一瞬でした。物語は常に進み続けているのに認識される時間は渦巻いている、その迷宮をつくりあげる中心として、この現実と認識の時間の差異がさりげなく配置されていることに、原始的でありながら現代的ともいえそうです。
 叙述により物語を推進させながらもその軌跡が直線的でない、現実の時間とは異なる螺旋を描くような奇妙なストーリーテリングにぼくはラテンアメリカ文学を、特にコルタサルの短編を想起しました。コルタサルは小説におけるギミックを熟知・駆使しながらも「インテリ臭」がしない不思議さがあって(むろん、日本ではいわゆる「インテリ層」に人気がある作家であるのは否めませんが)、これはこの作家の物語に対してひたむきな態度にあるんじゃないかと感じます。目の前の事象をただ語ろうとする一途さで小説をつくり上げるのですが、その視界の特殊さによって独特の認知が作中で形成されます。
 それはいわば視力のようなものでしょうか。ぼくが車の教習所に通っているとき、教官のおっちゃんに、
「遠くに視点をおいて運転したらまっすぐ進むで」
 と言われたのですが、コルタサルの『悪魔の涎』などを読んでいるとその視点は現在の語りの地点からかなり近いところに置かれています。こうした「近眼的叙述」によって物語は蛇行に蛇行を重ね、その作品しかありえない特徴を獲得し、結果的に予想外のところへと到達するに至ります。
ぼくが『母親が死んで悲しい』を読んで不満だったのはラストシーンです。最後に急に母親を思い出して嘔吐するというのは、あらかじめ用意されていた地点への無難な着地だと読め、このような「オチをつけてしまった」ことが小説の規模をちいさくしてしまったように感じられ、とても惜しいとおもいました。
 語りの力を信頼して、未踏の場所へ到達することを恐れないでほしいと感じました。

【14作目】妖怪探偵は阿波の国の月夜に笑う 評:「笑い」と「ユーモア」

蒼井坂じゅーり(@juurijurio

 学生のころ京大で村上春樹の講演会があり、そこで村上春樹は、「自作の最大の武器はユーモアです。すくなくともぼくはそう考えている」ということを言っていました。これは個人的にとても納得のいく話で、ハルキ作品のそんな奴いねーよ感や、初期に見られたB級コメディ感、どうでも良い屁理屈など、村上春樹が「狙ってやっている」としたら、いわゆる「ハルキ臭さ」はなくなるような気がしました。たぶんかれの作品の「臭い」がきつく感じるのは、それが「笑い」ではなく「ガチでカッコつけている」と読んでいるためではないか、とおもいました。
 一方で、ぼくの友人には何人か小説で「お笑い」をやるひとたちがいます。そのなかでもかなり力のある友人はむかし、
「文学では『ユーモア』は歓迎されるけれど、全力で『お笑い』をやると風当たりが強くなる」
 ということをいっていました。もちろんこれについて、業界内での具体的な言及はないのですが、「お笑い」についてそのものが本論として議論されることはなく、「ユーモア」という作品内の味付けの一要素として(文芸誌などを読む限りでは)扱われがちです。木下古栗といった例外的存在の次元まで達するには、「気の利いたユーモア」を脱したオブセッションと呼べる強靭さが必要かとおもいます。

 そうした前提のうえで『妖怪探偵は阿波の国の月夜に笑う』を読みました。阿波しらさぎ文学賞の選評で吉村萬壱はまさしくこの作品を「ユーモア小説に終わってしまった」と述べていますが、上記の問題に対する独自のアプローチが検討されていない点を指摘しているのではないか、とおもいます。
 また、15枚以内という極めて短い尺に対して作品を構成するギミックが多すぎて消化不良になっているとも感じます。恥を忍んで自作を引き合いに出すと、同賞を頂いた『青は藍より藍より青』ではあえて「15枚では到底おさまらないネタ」を選択しましたが、それを強引に15枚で圧縮することで小説に強い歪みをもたらすことを意図した戦略を立てました。それが「SF的世界観の徹底した説明」による小説の圧縮だったわけですが、御作品で選択された「日記」という手法はその逆だったとおもいます。ぼく日記は時間の堆積によって強烈な特異性をもたらすことができると考えていて、それゆえに「掌編には向かない」という原理的問題を抱えているように感じます。しかし掌編で日記をやるなというわけでもありません。その原理的問題を破壊する創意が必要だった、ということです。

 この小説で使用された要素を眺めてみると、トマス・ピンチョン『LAヴァイス』のような長編性を持っていたと感じます。ぼくはピンチョンがめちゃくちゃ好きなのですが、この作家の美徳のひとつは「1000枚スベってもおもしろい」ということだとおもいっています。たぶんピンチョン自身は最高におもしろい!と確信して書いている節があるのですが、執拗にそれを続け、辟易さえも読者を牽引する力に変える強力な想像力とナラティブが「長さ」ゆえに生まれているんじゃないか…と考えさせられます。ピンチョンは決してユーモアをやっているわけじゃなく、常軌を逸した「お笑い」が狂気を獲得しています。
 ぜひとも「お笑い」を徹底することで、そうした巨大な力をもった作品を作り上げてほしいです。

【15作目】月見山りりはヒトデナシ 評:「異世界」という共同体と不死のトリックスター

ふる里 みやこ(@hurusatomiyako

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 民俗学者ロジャー・D・アブラハムが編集した『アフリカの民話』の前書きには、編者によるアフリカ民話批評が記されているのですが、ひとつの象徴として「ものを言う骸骨」というナイジェリアのヌペ人による民話が紹介されています。
 ざっと筋を話すと、ある狩人が道端の骸骨が「しゃべったからここに来たんだ」としゃべったことに驚き、そのことを村中に言いふらす。やがてこの話は王様の耳に届き、王様は狩人に骸骨が喋るところをみてみたいというのですが、王の前で件の骸骨は一言も発しなかったために、狩人は首をはねられてしまいます。そして骸骨となった狩人はじぶんを見つけた狩人に対して「しゃべったからここに来たんだ」という、ループ構造で閉じられるのが一般的とのことです。
 編者によれば、このお話は「ものを言う骸骨」というだけで共同体のなかで一定の共通認識が生まれるという旨も記しています。そして民話の話者たちは、こうした既知の物語の「語り」を互いに批評し、内容以上の即時性に享楽を見出していたという記録もあるようです。かれらにとって「物語る」という行為は、その内容のディテール以上に「共同体のコモンセンス」を演芸によって盤石なものとする意図を無意識的に持っていたのかもしれません。

 小説家になろうで多数存在する「異世界モノ」についてぼくが感じるのは、一種のそうした熱狂です。個人的なことですが、「RTした人の小説を読みに行く をやってみた」という企画をはじめてから毎日大量にそうした小説を読んでいるのですが、これまでこうしたファンタジー作品について感想を書けていなかったのは「ぜんぶおなじに見える」という理由があったからです。これはひとえにぼくのこのジャンルへの理解が絶対的に不足しているからに他ならないのですが、しかしひとつ確かなことは、どの書き手も「異世界モノ」というジャンルに対してただならぬ執着があるという感触でした。どの書き手も、「異世界モノ」に対して強いリスペクトがあり、「異世界モノ」への不特定多数の帰属意識のようなものが強固な「異世界観」をつくりあげていると感じました。そしてそれなしで「異世界モノの小説」を読むことはほとんど不可能ともいえ、これはすべての文芸ジャンルにもいえることです。ポストモダン文学の素養がなければポストモダン小説をたのしむことはむずかしいように。
『月見山りりはヒトデナシ』はなんといってもとてつもなく長い(ぼくは80万字の小説など一度も書いたことがありません)。そして作中にほ描写や説明(=小説の認識・物理空間の構築や、その補佐を行う文章)がほとんど存在せず、ほぼすべてを物語とキャラクターへの想像力だけで80万字を書ききったことはある意味ですごい才能だとおもいます。だれでもできることではありません。
 先に述べた「描写や説明がほとんど存在しない」のは「小説家になろう」では本作だけによるものではないこともまた事実で、そうした書き方がなぜ定型化しているのかに表現のおもしろさがあると感じました。
たとえば「異世界」ということば。文字通り、ぼくらが暮らす「現実世界」との大きな差異を持つ世界のことですが、そうした差異を前提としながらも(つまり緻密な描写・説明を要する空間)、「異世界」というだけでなぜか情景が鮮明に浮かんでしまうという不思議さがあります。「ギルド」にしろ「エルフ」にしろ「人魚」にしろそれは同様で、こうした名詞がまるで「赤い」などと同様な絶対性を持って使用され、それがある程度の素養がある層に対して絶対的意味として機能しているがゆえに、描写や説明の余地がなくなっています。つまり、描写や説明を挟むのは「無粋」なことだった、と捉えました。そして本作は、これらのことばが作る「コモンセンス」を土台とし、想像力というパフォーマンスをいかに躍動させるか……という享楽を追い求めた小説だとおもいました。
 しかし「異世界」という共同体のなかで反復される定型について、より客観的に見つめて付き合いかたを模索するとよいともおもいました。冒頭で紹介したロジャー・D・アブラハムの批評では、ローラ・ボハノンという人類学者により記録されたアフリカ民話が語られる場の情景を引用しています。
そのなかでこんな一節があります。おそらく「異世界」という共同体の小説が持つもっとも大きな問題がまさにここにあると考えています。

〝グボディはいま物語を語っていた。自らを妖精の一人として森の妖精たちの国に送り込もうと試みたノウサギの物語を。ノウサギは偉大なトリックスターであり、またかれの知恵は無限であったが、かれは森の妖精と同じように行動し感じることはできなかった。最初かれはその故に妖精たちをうまく欺くことができ、人を風のように運び行く衣を盗み取ることはできたが、最後には、この無理解とこの違いがかれの身の破滅となった。「今度は」とグボディは歌った、「妖精はノウサギを殺して食べた。物語はノウサギを殺したのだ」
ノウサギはやがて別の物語の中に再生するかも知れぬ。ある一人のトリックスターが何度自らのトリックにより破滅しようとも、類型としてのトリックスターは不死である。しかし、いかに偉大なトリックスターであろうとも、自らを変えることはできぬ。かれの個人的な習慣がつねにかれを欺く。それは、われわれの個人的な慣習がわれわれすべてを欺いて、われわれがかくあるものと思いこませるのと同じである。われわれ自身を、われわれがかくあるべきものと、あるいはかく思われたいものと、思いなすのは、われわれ自身にほかならないのであるから。〟

 ぜひ世界中にある「異世界の外側の小説」をたくさん読んでみてください。いま以上に「異世界モノ」を楽しめるようになるかとおもいます。

【16作目】牛男 評:色褪せない寓意

根木珠(@_negi_tama


 御作品『牛男』を読んで、まずさいしょに「寓話」ということばを調べ直しました。辞書によると寓話とは「擬人化した動物などを主人公に、教訓や風刺を織り込んだ物語」と記されていますが、よりやわらかく解釈するとなんらかの存在を比喩によりデフォルメし、なんらかの意味を伝達するための物語と考えることもできます。意味という抽象を具体化する想像力がとくに「寓意」と呼ばれますが、寓話とはまさにその想像力を駆使した物語ととらえることができます。
『牛男』の主人公は生まれつき背が曲がっているせいで〈牛〉と呼ばれ、ふつうのひととは明らかにことなる姿ゆえに醜いと蔑まれる男が主人公です。男はかつて物乞いとして生きていたけれども、ある紳士に拾われ……という筋書きなのですが、この主人公の設定においてぼくはなぜ21世紀の日本でこの物語が書かれ、読んでいるのだろうか、という疑問を抱きました。根木珠さんはおそらく寓話に愛着やリスペクトがあって、素朴に「こんなお話が書いてみたい!」という衝動によりこの小説を書かれたのかもしれませんが、この小説を読んでぼくはどうしようもない古臭さを感じました。
10人目の感想の水野洸也さんについてカルヴィーノを言及したのですが、この作家は古典と現代性の関係性について『なぜ古典を読むのか』という著書のなかでこのように述べています。

〝古典を読んで理解するためには、自分が「どこ」に立っていてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのは、こういった理由からである。そのためには、かならずしも内面の静寂を前提としない。忍耐が足りなくていらいらしているときも、なにかが不満でうんざりしているときも、古典は読める。〟

 この文脈でカルヴィーノはリアルタイムで日常的起こり、多かれ少なかれぼくらに影響を与えるさまざまなニュースを街の喧騒にたとえ、その喧騒は古典を読む現代のぼくらにとって不可欠なものとみなしています。あるいは世界的に大きな事件が発生し、その喧騒が世界で前景化されたとしてもたえずBGMとして流れ続ける物語を「古典」と定義しました。
 寓話とは、古典のなかでもかなり原始的なかたちをしています。特殊な想像力により事象が単純化され、意味を運ぶ担い手として物語が機能しています。素朴な寓話が時を経ても色褪せないのはひょっとしたらこの機能の十全さによるものかもしれません。

『牛男』の古臭さについては、同様にある男の「醜悪さ」を寓意により表現したカフカの名作『変身』と比べてみるとわかりやすいとおもいます。両者は「姿の醜悪さ」ゆえに迫害を受けますが、「牛男」は人間であるのに対して「ザムザ」は人間ですらありません。「姿が醜い」という次元ではともにおなじかもしれませんが、存在として両者は決定的にちがいます。
究極的には人間である「牛男」を、多様性が叫ばれている現代社会に参照するとどうでしょうか? たとえ小説の舞台が現代日本ではなくても、どうしてその想像力が現代の時事の影響を受けずに「身体的特徴ゆえに迫害され」て、死体処理という「汚い」仕事をという単純化が採用されるのか。もちろんこれ自体を採用することは創作において悪くはないのですが、どうもぼくには古典ではなく「古典的なもの」を無批判に受け入れただけのように読めてしまえる。現代社会の動きに対して、生まれた瞬間から置き去りにされているようなどうしようもない古臭さをそれゆえに感じました。
 おそらく、カフカの『変身』はまだまだその新鮮さを失うことはないだろうな、とぼくはおもいます。その理由はたいへん長くなるのですが、ご自身の実作では「物語をはじめる最初の寓意」についてよく考えてみてほしいとおもいます。そのためにも、現代においてぼくらはカフカの作品をどう読むのかを考えてみるとおもしろいかもしれません。
 今回触れた、現代の「多様性」についてはあえて深入りしませんでしたが、それを容易に単純化できない複雑さを経由して「寓意」へと昇華してほしいとおもいます。

【17作目】サッちゃん 評:一人称複数の身体とその傲慢

和泉真弓(@izumim11

 いま文章論の話をするうえでかなり強い「胡散臭さ」を持っているのが「身体性」ということばだとおもっていて、ちょくちょく目にするこのことばは、いったいどのような思考を前提として使用されているのか……というのは、散文表現を実践するひとびとにとってどこかで深く考えなくちゃならないんじゃないか、ということをよく考えます。

 決めた。
 桔平にも会ってもらうんだ。
 あたしの、半身に。

 という文章により物語の歯車が回転を始める御作品『サッちゃん』は、まさしくさまざまな「身体性」を主題とした小説と読みました。「あたし」というナラティブの身体、姉と恋人の狭間で揺れ動くあたしの「健康な」身体、そして姉とあたしという一人称複数としての身体。サブカルチャーやSNSの固有名詞が配置された現代的空間において、これらをどう読んでいくか、あるいは「どのような文脈で読むことができるか」を考えることでこの作品の評価は大きくわかれるのではないかとおもいます。

 小説の重心となる姉は、病気によりあたしが備えている「健康さ」を逸しており、「バナナをはんぶんしか食べられない」ということばでその欠落が象徴化されています。病をコアな事象として駆動する小説はここ数十年ほどのあいだに大きな変遷を経験しており、特に戦前などはいま以上に病は「死の宣告」の様相を強く帯びていました。ペストやコレラといった社会を巻き込む大規模なものや、結核の治療を背景にした個人的なものに至るまで、病を通してなんらかの「死の実感」が具体化され、それゆえにかつて多くの「病の小説」はひとびとのまなざしを死生観へ向けさせました。むろん、いまでもそうした小説は少なくなく、現代でも実際にそれを描いたベストセラーはたくさんあります。しかしながら重要なことは、医療技術の発展やそれにともなう長寿命化により、病と死の距離は確実に変わっているということです。「治る」という科学的根拠が、病に焦点をあてたときに思考可能な物事を多様化させたのではないか、とぼくは考えています。身体の挙動により促されるナラティブや思考を「身体性」とよぶなら、その身体に与える外的因子の影響は不可避的に生じていると考えられ、その自覚がテクストの多様性を生気させるとおもいます。『サッちゃん』はその多様性のひとつとして死生観から距離をおいた、コミュニケーションやエゴへ向かう作品だと読みました。
 本作はカクヨム内の有志の賞を受賞した、という旨をツイートでお知らせいただいていたので、あえて「ぼくが選考の立場だったら」という仮定でコメントさせていただくと、すみませんがかなり大きな×をつけたとおもいます。その論点は最後の展開や、各章につけられた数式のタイトルにあります。
 冴子は姉の幸子と対等になるため、幸子とじぶんがともに等価な「1」として存在しなおすために自身の腎臓を幸子に提供しようと思い立ちます。この決断は幸子と桔平が(表向きには)冴子自身の健康を「損なう」可能性を指摘して保留されますが、ほんとうに冴子は幸子のためにじぶんの腎臓を差し出そうとしたのでしょうか。おそらくふたりはそれに薄々気づいて優しく彼女を諌めたようにも読めるのですが、それでもそこにある不気味な所有欲を客体化できていないと感じました。
 ぼくにとって、この作品を通貫しているのは「冴子が幸子を所有しようとしている欲望」あるいは「冴子が幸子を所有していると自覚している傲慢」です。それを決定づけるものとして「腎臓提供」があり、もし冴子が彼女の腎臓により「欠落」を補うことになれば、そこで実現されるのは冴子と幸子の完全な分離ではなく、冴子による幸子の「完全な所有」です。これはかなり凶暴で暗いエゴであり、通読してもそれに対してどこまで検討されているのかが見えないことに不満を覚えました。
 各章のタイトルはまさにその所有欲を表象したもので、1や0.5や2という数字以前に、物語という演算のなかで提示される結論である右辺がすべて単項であることで、語り手の身体的認識が「あたしたち」という一人称複数であることが強調されています。しかしこの複数性は演算する者のなかに取り込んだ結果いう意味合いにも解釈でき、結果的にあたしの支配下として他者をいかに所有するかということにも見えます。そうしたものが表面的には「良い話」に見える雰囲気で描かれることに、ぼくはどうも本作を肯定的に読むことができません。

 もちろん、これは本作の偏った読みかたのひとつでしかないことは自覚していますが、わたしと他者の関係性に生じる暴力性について、もうすこし多角的な視点で捉えて欲しかったという気持ちがありました。

【18作目】違う骨 評:表現とメディア

遠藤ヒツジ(@end_of_hitsuji

 いまはもうネットから引き上げているっぽいのですが、以前、ぼくの友だちがアリ・フォルマン監督のアニメーション映画『戦場でワルツを』についての批評文を公開していました。レバノン内戦についてドキュメンタリータッチで構成されたこの映画は、アリ・フォルマンが内戦のときの記憶を失っていることに気づき、その失われた記憶を取り戻すようにかつての友人を訪ね歩くという筋書きがあります。ぼくの友だちがこの映画について言及したのはその衝撃的なラストシーンでした。それまでは切り絵調のアニメーションでつくられていたこの映画が、虐殺の現場を映し出す最後のシーンだけ実写が採用されています。これについて友だちはアリ・フォルマン監督による一種のアニメーション批評だと解釈し、(その賛否は保留した状態で)すくなくともフォルマン自身は「凄惨な現実を確たる現実として映し出す表現としてのアニメーション限界」を感じていたのではないか、と述べていました。
 本作『違う骨』はまさに表現とメディアをとりあつかった作品と読みました。友人・斎藤の気まぐれによりとある漫画をiPadのカメラをつかって実写化するという筋書きで、実際に撮影をはじめてみると「原作」との差異ばかりが撮影された動画に現れてくる。ぼくが行なっている「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」でもたびたび上妻世海の「ミメーシスによる制作的空間」について言及しているのですが、この小説で生じている創作と現実がないまぜになる特殊な空間もまさにこれといえ、iPadのカメラをとおして模倣されたすべては「違う」ものになっていく。
こうした異化の駆動力になっているのはまさしく「iPadのカメラ」という物語を製作するツールだとおもいました。漫画では作者が意思を持った必然が原則的に描写されるのに対し、カメラは特定の時空間に埋め込まれてしまった偶発をすべてとらえてしまいます(初期のゴダール映画が駆動力とした想像力はまさにこの偶発です)。
この小説は漫画でセリフが途絶え、かつiPadのカメラが侵入できない領域において発揮される強い想像力に大きな魅力を持っています。

青年が海から上がる。今度は骨を心臓に当てず放ったまま寝転んでいる。娘もやがて海を上がると、眠る青年を横目に、豚の心臓の骨をクロックスで踏みつぶす。実際は適当な穴だらけの汚らしい貝ガラだが――。クロックスで踏みつぶした時の骨の音はドクンドクンドクン、バリッだ。青年の横を過ぎ去った娘を撮影して僕はアイパッドの停止ボタンを押す。

 この領域への侵入こそが「僕(ら)」にとっての物語経験であり、その存在はその以前と以後で「違うもの」になる……というふうに解釈し、とても興味深く最後まで読まされました。
 しかしがなら、ちょっと着地が綺麗すぎたかな、というのもあり(←どないやねん)、まだまだ作者の安全圏で書かれた小説にも感じます。どこまで危険な領域まで踏み込める書き手なのか、とても気になりました。

【19作目】二〇一六・五・二六 評:身体を借り受ける

磯山煙(@en_isoyama

 タイで生まれ、日本にやってきた象のはな子は、井の頭自然文化圏にて2016年5月26日に69年の生涯を終えました。この小説ははな子の命日がタイトルに示されているように、はな子が語り手となり、みずからの死の瞬間に向かうひとつなぎの思考がひたすら綴られている作品です。
 この作品では、死にゆくはな子の身体を借り受けることで、具体的なモノを指し示す名詞の多くがことばから排除され、記憶や事物のすべてを抽象に置換して語られています。また、草食動物的視野により生じた「影」が、生命の終わりをもたらす暗いものとしてのメタファとしても機能しています。
根源的な言語の解体・再構築の意欲は金井美恵子や黒田夏子と同様のものを感じるのですが、しかしこうした志向をもつ散文を数多く書いていた時期があるぼくだからいわせていただくと、まったくおもしろいところがありません。
 その理由は技術的なもの以前に、ここで述べられた思考が「快楽的なエクリチュールによりもたらされたもの」ではなく、「快楽的なエクリチュールのために用意されたもの」に読めるからです。

 展開される思考は行きつ戻りつトートロジーのような軌跡を描き、思考は死生観の深みへ届く前に瓦解しています。もし仮にこれを「死、という終わりにむかって意識と思考が解けていくようなもの」として表現したのならば、さすがに考えが甘すぎるんじゃないか、と感じました。特定の事象に接近することの不可能性を、テクストが持つ意味の崩壊としてしまえば「なんでもアリ」の世界になってしまい、しかもこの「なんでもアリ」は「なにもない」と等号で結ばれます。そうしたもののすべてを否定する気はないですが、もしそれがなんらかの「真理」であるとするならば、文学は21世紀に入るまえに終わってしまっていたんじゃないか、とさえ感じます。
 人間以外のものから身体を借り受けた小説は、非人間的な視座をもちながらもやはり人間である我々の言語で語られます。フィクションだからこそ生じるこの「無理さ」を、ぼくは内田百閒の『件』という短編がうまく言語表現として結実させているとおもいます。かつて人間だった男はある日、じぶんが体は牛で顔が人間という化け物になっていることに気づき、「件は3日以内に死ぬが、その前に予言をしなければならない」という具体的な切迫に向かって小説は進んでいきます。死を虚無と感傷で片付けるのはかんたんです。そのかんたんさに対するアプローチのひとつが内田百閒のような態度なのではないか、ということを考えました。

【20作目】深夜はきっと生ぬるい息、大事にできないまっぷたつ 評:神ですら見通せないもの

ざーさんオイル(@atk27kan

 さいきん、思うところがあって小説の書き方読本を読んでいました。そこには「神視点三人称」の小説に否定的な態度が示されていて、たしかすべてが見え過ぎてしまうことによる感情移入の阻害や、一定の技量がない限り視点が安定せずリーダビリティが落ちるといった旨のことが書かれていました。
上記のような意見に対して、ぼくはといえば一部認めはするもののあまり感心はしないというか、小説に対する考え方の多様さを想起します。感情移入しやすいように整備し、ストレスなくストーリーに向き合えるものを「良い小説」とみなす価値観もあれば、小説や言語表現そのものの仕組みへ向かうものに重きをおく価値観もあります。
 ぼくは後者のような価値観の強い読み手であり書き手でもある一方、ここのところは前者のような価値観に対してどうあるべきかをよく考えます。そして御作品『深夜はきっと生ぬるい息、大事にできないまっぷたつ』もまた、小説や言語表現の技巧やそれにより切り開かれる事象への興味が強い作品だと読みましたが、多様な価値観の存在を認めたうえで、なにをどう書いていくのか、みずからの抱える静けさとラディカルさ、そして作者や作品の外的要因と相対的にどうあるべきかの分析と決断のさなかにある作品だと読みました。
この作品はひょんなことから一夜を共に過ごした若い男女の朝というシチュエーションのなかで、そのシチュエーションが持つ記憶に潜り込んでいくような書き方がされているとおもいました。
 ここで、ぼくが「修次の記憶」や「ナツミの記憶」と書かず「シチュエーションの記憶」と書いたのは三人称神視点や「」を排除した話法の多用という形式による叙述が採用されているゆえで、本作は恋愛小説として読むことが可能でありながらも、この種の小説が一般に重視されるであろう「共感」が重視されていないという特徴がありました。特徴、というのはもちろん良し悪しのことではありません。
 いうまでもなく、この小説が読者にとって修次やナツミの感情に寄り添うことのできないものだというわけではありません。しかし、1万字程度の短い作品において視点が頻繁に変わり、読者は修次の内面もナツミの内面もよく見渡せる位置に配置されます。読者を牽引する力の要素として「(広義の)謎」を仕込むことはリーダビリティを担保するための小説の重要な技巧と考えるならば、この一見して見通しの良すぎる小説は「恋愛小説における謎」が排除されたものにもおもえます。
「謎」という牽引力を絶対視するわけではないのですが、しかしこの作品には「いったいなにが見えなかったのか」という問題意識の徹底が必要だったとぼくはおもいます。すなわち、「神ですら見通すことのできないもの」です。
 神視点三人称は、たんなる演出やカメラワークの問題にとどまらず、すべてを見通すことにより多くのひとやひとならざるものの記憶・認知・思考を射程においた複雑な場を構築することができます。その構築性を駆使して書かれたものがいわゆる「意識の流れ」と呼ばれるジョイスやウルフなどで知られる作品群だとぼくは解釈しています。
これらの作品は、ある特定の場における多数の存在の歴史が連鎖的に、時に大きな跳躍を踏まえながら、その語り・認知の射程を物理的な世界認知では到達できない領域まで押し広げていきます。
 その手続きとして、本作で扱われたような男女の微妙な関係性であり、双方へのまなざしの差異、いま・ここという時空を支える別の時空のエピソードが積極的に使われていますが、それは作品じたいの射程の広がりによって「意味」たるものを獲得し得るものではないかとぼくは考えます。そうした解釈において『深夜はきっと生ぬるい息、大事にできないまっぷたつ』は、結局のところ「恋愛小説」というフォーマットの域を脱することができていない。「なぜそれが語られたのか」という不可解さがなく、複数の視点・思考がテクスト内に盛り込まれているにも関わらず、これを読む過程において視点を固定した小説以上の思考を喚起しないという「狭さ」を感じ、「他者の記憶や思考が見えない」ということよりも格段に「見通しの悪い」作品になってしまったのではないかと。
 無責任なことをいうのですが、「神にすら見えないもの」がなんなのかはぼくにもわかりません。しかしながら、そうしたものがあると思わせるだけの複雑さと不可解さ、そして人間ひとりでは到達できないだろう圧倒的な広大さが神視点三人称には必要な気がしていて、(書く側にとっても読む側にとっても)その難しさゆえに「神視点三人称」があまり歓迎されていないという側面はあるんじゃないか、とぼくはおもおました。
こうしたものを書くときは、視点・認識が動く瞬間にどういう力学が働いているかを自身で読み返す段階で精査しておくとじぶんでも「なにを書いているか/なにを考えているか」をよりよく把握できるようになるかとおもいます。具体的には視点ごとに色分けしてみて、色が変わる瞬間にどういうことがテクストで起きているかを自分自身で批評的に分析してみるとわかりやすいとおもいます。さいわい、本作は1万字程度の短い作品ですので、この作品はご自身で手を動かしながら分析するのにうってつけのものかとおもいます。

 また、特に冒頭に多かった「詩的な」ことば使いについて、ぼくはもっと簡単にいえるはずのことをあえて迂回している印象を受けました。対象をまっすぐ書くのではなく、抽象的な語や印象を前面に出した描写をすることじたいに否定的ではないのですが、そのように対象の輪郭をそぎ落とす書き方を「美意識」として打ち出すような書き方はリスクが大きいかとおもいます。あくまでも個人的な印象に過ぎないのですが、特にぼく以上に詩に詳しいひとほど、字面だけから生じる詩情に対して懐疑的な立場をとっているようにもおもわれるので、そうした表現を作品の性質を決定しかねない場所に配置する際は、より慎重になるべきではないか、とも感じました。

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