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「夜叉神峠の亡霊」〜洗礼〜6

獣道は想像をはるかに超えて過酷なものだった。息は乱れ、呼吸法は己の鍛錬不足を痛感するほど使い物にならなかった。
さすがの村田も呼吸を保つのが精一杯といった感じだ。
もうどれくらい歩いているのか?
時計はいつのまにか16時を回っていた。

獣道に入り、世界が一変した。
真夏の太陽光が遮断された森。
人が介在できない場所とは人々にとって無力で過酷な環境だからだ。
この森はまぎれもなく、人間以外の為に存在していた。
まず想定していなかったのは湿度だった。
粘りつくような緩い空気。
灼熱の陽射しがアルプス全体を熱して、森の中は水蒸気に満ちていて、まるで天然の蒸し風呂のようだ。
30分も歩かないうちから汗で服が身体に張り付いた。
山蛭に血液を吸い取られているように、毎秒で体力を奪われていく。
温存していた体力は既に枯渇しはじめ、冷静な思考すら失っていく。
足場はぬかるみ、南アルプスの強靭な蔓や根が脚を絡め取る。
バランスを失い踏ん張ると、そこにもまたぬかるみが用意されていた。
脚の筋肉を絶えずバランスよく駆使しなければ、歩くことさえ困難だ。
自慢の脚力もここでは糞の役にも立たないと知る。包囲磁石を頼りに、なんとか目的方向へは向かっているようだが、果たして目的地までは近いのか遠いのかさえわからなくなる。
森一帯が不気味な蟲の音で耳に触り五月蝿い。
まだ太陽が落ちていないはずなのに、辺りは薄暗く闇が濃くなっている気がする。
視界には、モノトーン調の退屈な色彩が続く。
不意に前を歩いていた村田が立ち止まり、人差し指を口に立てた。「しっ!」
私は立ち止まり、瞬時に息を殺した。

ミシミシミシン……。

地に落ちていた小枝を何者かが踏みつける音だ。明らかに生きている何かが慎重に移動している。

20メートルほど前方、私たちの向かう方向に何かが間違いなくいる。人か?それとも。
音の距離が近づいている。向こうからこちらに近づいているのがわかる。
もしも熊ならひとたまりもないだろう。
掌から汗がジワリと浮かぶ。
村田は持っていた木刀を握りると、すぐさま中段に構えた。
私は、息を殺しつつも呼吸を整えた。

ミシミシミシン……。

音が鮮明に聞こえる。
だが、熊や猪の類いではないように思った。
この音の近さなら、既になんらかの姿を目視できているはずだからだ。
私は静かに村田を呼んだ。
私の呼びかけに村田が振り返った瞬間、村田の足元で闇の塊が蠢いた。
そして、うねりながらひっそりと村田の靴を舐めた。
頭を軽く擡げた、蛇だ。
私の腕くらいはある太さの、頭部に朱色のデザインが施された三角形の頭を持ったやつだ。
私は咄嗟に叫んだ。
「村田、下!」
と、村田は足元に今にも絡まろうとしているマムシに、咄嗟に木刀を振り下ろした。
手応え虚しくマムシは一瞬のうちに姿を消す。
その刹那、村田が叫ぶ。
「むっち!後!!」
私は咄嗟に振り向くと、目の前に紐のような物がぶら下がっていた。その距離、およそ40センチか?
紛れもないマムシ。
木を伝って静かに獲物を狙っていたのだ。
私は静かにその場を後退り距離を図った。
すると何かが急に左脚に絡み付いた。
またマムシだ。
私はローキックの要領で振り解くと意思を持った真っ黒い紐が宙を舞った。
どうやら私たちは、知らないうちにマムシの巣に迷い込んでいたらしい。
信じられない現状に目を凝らす。
1匹みつけると、足元に数えきれない黒紐の大群が群れをなして黒い塊となって蠢いていたのだ。まさか、は攻撃性が強く凶暴だ。
あの状況を無傷で逃れらたのは奇跡だった。
私たちは迅速に息を殺しながら踵を返すと、全速力でその場を離脱した。
もちろん、先に進むほど愚かではない。
歩いてきた獣道を戻ることになった。

気がつくと、時計は19時を指していた。
辺りは

闇に包まれていた。
この時間になると、登山者の姿はない。
いや、正確に言うのならば、ここには人はいられないのだと思った。
私たちは、一旦登山道に戻らされたようだ。
登山道は急斜面を避けるように横に伸びているものだ。だから、縦に登っていけば、いつかは登山道にぶつかる。この峠はそんなに大きい山ではないから、山道にでるのは容易かった。
私はリュックから懐中電灯を取りだして、辺りを照らしながら歩いた。
至る所で「シャーシャー」と言う蛇の唸り声がした。私たちはペースを上げて上へと目指した。今度は私が先頭を選んだ。
村田よりも、体力的にいくらか劣る私が前を歩いた方が、結果的に逸れることもないし、お互いにとって都合が良かった。
村田は体力バカだから、さっさと先へ行ってしまう。私は追いつく為に必死で、いつしかクタクタになっていたからだ。
暫く歩いた先に、20メートル四方の踊り場に出た。そこには立札があり、こう記されていた。

[これより左、夜叉神峠小屋]
[これより右下、水場]
[これより上、鳳凰三山入り口]

私たちは、立札にある字を読むと、真っ先に水場へ急いだ。喉が渇いて死にそうだった。
ペットボトルの水はとうに飲み干していた。
2人は50メートルほど下った水場で、浴びるほど水を飲んだ。上半身だけを脱ぎ、身体を洗って拭いた。なんとも生き返った気持ちになった。もちろん辺り一面は、暗闇が支配していた。時折、樹々の隙間から覗く月明かりが闇を薄く照らしてくれた。
最初は懐中電灯が必要だったが、いつしか月夜の薄明かりに慣れ、すっかり夜目が効くようになった。私たちは、電池の消耗を考えて懐中電灯は使わないことにした。
水場では水を補給してリュックに入れた。
一旦、踊り場まで戻り、これからの作戦を練ることにする。
霧雨が降ってきた。湿度が上昇していく。
踊り場は、樹木がなく空まで吹き抜けていたから、月夜の光が淡く私たちを照らしてくれた。目も徐々に慣れ、辺りの見通しもよかった。
人や獣の接近も気付きやすいと考えた。
ここなら、ある程度は凌げるだろう。
しかし、真夏だというのにこの寒さはなんだろう。朝から休みなく歩いたせいで、すっかり疲弊していた。敷物を敷いて2人で座ると、パンを出して貪るように食った。
懐中電灯を点けガイドブックを開く。
登山家の間でも有名なのが、夜叉神峠小屋のジビエ料理だとある。ここの猪鍋が絶品のようだ。疲弊した私たちは、極力顔を見られないようにして、この小屋で一泊しようと考えたのだ。
不本意ではあったが、山を舐めていたことへの戒めとして、我々は一路、夜叉神峠小屋を目指した。
もう時計は21時を過ぎていた……







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