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(1)バーテンダーは3つの空気を自在に操る。空気を読む編

誤解を恐れずに言うなら、最近、おもしろい人がめっきり減ってしまった。
理由はいくつか思い当たるが、一つに「人としてバランスの悪い人、人間味のある人」が少なくなってしまったことだ。逆に言うなら、バランスの良い優等生タイプが多く、話していても味気がしない。
薄味の精進料理を食べているようで、それが20代の若者から感じた時には残念で屁も出ない。
時代が変われど、人はそう簡単には変わらないと、高をくくっていたのかもしれないし、人が変わったのではなく、私が変わってしまったのかもしれないと、どこか焦燥に駆られることもある。

だが、私の人への関心は変わらない。
私は人が大好きだし、大嫌いだ。
大嫌いな人は面倒だ。言うことは聞かないし、身勝手で波長がまったく合わない。ストレスの原因だ。だが、大嫌いな人とも、いつか分かり合えるかもしれないと付き合っているから、私にとって重要な存在として共に生きている自負がある。
実際、10年前に大嫌いだった人が、それでも付き合いをやめずに付き合い、ストレスと戦った挙げ句に、今では大好きになっていることが少なくない。
これは、私がようやく彼を理解できた、というだけで、その時はまったく理解に苦しむ人だった。つまり、単に私の理解力が未熟だったことを意味し、彼にはまったく関係のない話だったのだ。

ここで得た教訓は、

ストレスを感じる相手に蓋をしてしまえば、その時は楽になるが、自分の成長にも蓋をしてしまう。

ということだった。

だから、その時から考え方を再構築した。

大好きな人はギフト、大嫌いな人は成長のチャンスだ。

という教訓にした。

そんな経験則のもとに、人と人とのコミュニケーションは永遠に不滅であると言う定義に則ってこれを書きたいと思う。

ここ数年、対人関係の相談のレベルが非常に低くなった気がする。高年収の企業で立派に勤めているおっさんやお姉さんが愚痴をこぼすほとんどの原因はコミュニケーション不足によるものだ。皆、向き合うことを放棄していることに気がついてすらいない。上司、部下、夫、妻、子、恋人、友人、中には稀にどうしようもないこともあるが、大抵の場合、絶対的に不足しているのは関心と理解だ。 

まず、空気を読むとは、いったいなんだろうか?なぜ、人は空気を読まなければならないのだろうか?この疑問を解決するには、当然ながら社会構造に密接な関係がある。ざっと思いつくままに書いてみる。

1.社会経済の不安(業界別での年功序列構造の崩壊と残留)
2.新しい病気(ウィルス)の蔓延と不安
3.地震や災害の悪化の頻度、その不安
4.ストレス人間が作る出す、ストレス社会というループ
5.無能な上司や部下のスキル格差(社会構造の変革期に、船に乗り遅れた者と乗った者)
6.言うことを聞かない子供の悩める未来
7.結婚しない男女、結婚が必要のない男女、リスクだらけの結婚制度
8.収入の格差、イニシアチブの具現化と差別
9.多様化された自己表現の形による対人コミュニケーション障害
10.趣味や生き甲斐の細分化(価値観の齟齬)
11.老後設計の不安な見通し

できの悪い私でも、これくらいは出せるのだから、皆さんはあとどれくらいだせるのだろうか?
こんな不安材料が山積しているのだから、もう好きなものに囲まれて、嫌なものには蓋をして、好きなように生きて何が悪い?と思うのも無理はないのかもしれない。だがせめてその時に、好きなものに囲まれていたい。
この好きなものとは、いったいなんだろう?と思うのである。
趣味やライフスタイルを理想的に実現して、好きな人たちとだけ付き合っていければ最高に幸せなのではないだろうか?

そこで必要になってくるのが、コミュニケーション能力になるのだ。

コミュニケーションには絶対に欠かせない空気読み。
現代において、どれだけコミュニケーションスタイルが変化しようとも、社会構造が変革しても、結局のところ人間関係を構築する上では、この「空気」の存在からは、けして逃れることはできないのではないだろうか?

30年間、接客に従事してきた私の仕事は、時にさまざまに形を変えるこの「空気」の存在と、真っ向から向き合ってきた戦いの歴史と言い換えても過言ではない。
そして、「空気を制圧した者がコミュニケーションを制する」ということも、暗黙の了解として知られているのではないだろうか?
30年間、「空気を読んで飯を食ってきた」私が、空気の謎についてできるだけ詳細に書いていこうと思うものである。

まず、タイトルにもあった3つの操る空気について説明したい。
1つめは、「空気を読む」である。
2つめは、「空気を作る」である。
3つめは、「空気を壊す」で完成だ。

私は、この3つを駆使してこれまでやってきた。言い換えるなら、この3つだけで30年を生きてこられたのだ。
それほどに、空気の影響力とは絶大であり、取り扱いを間違えれば、いとも簡単にその世界から締め出されてしまうのである。  
(もっと重大な状況に陥ることもある)

さて、今回は1つめの「空気を読む」について書いていきたい。

これについての著書は多く出版されていて、私も苦悩した若い頃に数冊ほど目を通したことはあるが、どれもピンとくるものがなかった。つまり「そんなこと、わかっとるわい!!」と、いうことばかりだったからだ。
当時のわたしが知りたかったのは、空気を読んで、お客さんに喜んでもらい、また来店していただける方法だった。
しかし、空気を読めたところで、お客さんは来店しなかった。むしろ、読めてしまったことで、余計なことを慎むようになり、接客が消極的になって、ホテルのBARのような簡素な接客になってしまったことを覚えている。

これでは街場のBARは生き残れないのである。

私の店に新人が入ると、まずは空気を読んでもらう。これは必須のスキルだからだ。
読めていないと判断したら、ただちに下がらせる。それほど、空気は恐ろしく繊細な生きものだ。

空気を読むとは、その場の意思の塊を把握することだと思っている。

それは、その場の相手が1人であろうと10人であろうと関係なく、意思の塊が存在するのである。そして、その中に必ず空気を発している塊のコアが存在している。
1人の場合はもちろんその人だ。
だが、10人の場合でも、必ず空気の根源が存在している。
集団の場合は、また別の話になる。
これは2つめの「空気を作る」で書きたいと思う。複数人の場合は、ほぼアレンジになるので、ここでは1人の場合について書きたい。

目の前にいる人の空気を読むということは、
まず、その人が何を考えているのか?が重要だ。
空気は、その人の意思の塊であるのだから、どうしてもその人の主旨を知らなければ、空気を読むということにはならないのだ。

その人のコンディションが知りたい。
その人は何を楽しんでいるのかが知りたい。
その人は出会いに対して率先的かを知りたい。
など、「知りたい」と思うところから始めなければならない。

つまり、空気を読むとは、

人に関心を持って接する気持ち(理解したい気持ち)

と言い換えられるのではないだろうか。

最近は空気を読まない人が増えていると聞くが、これにはある意味合点がいく。それは、人に関心を持たない人たちが、空気を読まなくてもよくないか?と発言していると思えるからだ。
人に関心を持つことは、とてつもなく面倒だ。誰かに関心を持つためには、その人に気を配らなければならないし、相手の言動や仕草などに集中しなければならないからだ。それを「めんどくせー」と、サジを投げた者たちが、空気なんか読まなくてもよくないか?と言っているような気がしてならない。実際、誰にも会わずに仕事を得て収入がある場合、空気を読む機会や、その必要さえ無くなってしまうし、収入が多ければ、黙っていたって向こうのほうから気を配ってくれるのだから、何もこちらから空気を読まなくてもいいのである。ネット社会の台頭で、収入の格差が加速したが、若年層の高所得者の増加は、この現象をさらに加速させたと思っている。先輩、後輩の関係性のない社会。資本主義による若年層の成功体験は、年功序列社会に下克上宣言を下した。ここでも、関心と理解のチャンスを失う危険を孕んでいる。

話をもどす。この関心を持つことができれば、危機回避能力のスキル向上にもつながるのである。その人が、自分の苦手な空気を纏っていることも、事前に察知できるようになるからだ。空気を読む行為は、その人の好き嫌いを判断する前段で行われる。空気を読むことで、好き嫌いの判断ができるのであって、好きだから空気を読もう!だったり、嫌いだから空気を読みたくないといったことではないのだ。

私は、空気読みによって相当数の無駄の削減に成功している。
それは、空気を読むことを放棄しなかったからだ。人は人との営みが途絶えることはないだろう。理想と現実を繋ぐものは、関心と理解である。もちろん、駆逐されなければならない、悪しき習慣やハラスメントはある。だが、人々の営みや人間関係に効率化など存在しないのだ。

みんなで、存分に空気を読もう!
そして、苦手な人にでも関心を持ってぶつかりあって理解に励もう。

次回は「空気を作る」でお会いましょう。









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