見出し画像

坂本龍一 追悼 YMOブレイク前夜 「KYLYN」とその周辺 20のプレイリスト

坂本龍一氏追悼の続編。前編では坂本龍一がYMOへの加入に至るまでの軌跡を書いた。1978年11月にデビューしたYMOだが、1980年にブレイクするまでセールス的な低迷期が続く。YMOブレイク前夜の1979年、坂本は精力的に外部での作品を残した。YMOと併走して立ち上げたKYLYN等、非YMOの名曲達を振り返る。

YMOブレイク前夜 KYLYNとその周辺 18のプレイリスト

YMO結成前までは以下のプレイリストを。

1977年 渡辺香津美との出会い

スタジオワークが多かった坂本だが、ピットインを舞台としてライブセッションでの実績を積んで行く。
そこに欠かせない存在だったのがジャズ・ギタリスト渡辺香津美

Olive's Step/Olive's Step(渡辺香津美)

坂本と渡辺は新宿ピットインで山下洋輔の前座で初共演した。そして1977年9月にBetter Daysレーベルから発売された渡辺の『Olive's Step』に参加している。
坂本はクラビネット、エレクトリックピアノを奏で、後藤次利 (ベース)、つのだヒロ(ドラム)という非ジャズメンバーで録音された。

この時期はシュガーベイブの面々と濃厚に付き合いつつも、ジャズ、フュージョンにも手をつけると言う振り幅の広さを見せ付けている。
この年から翌年にかけて、六本木ピットインを舞台に、渡辺、向井滋春(Tb)、土岐英史(As,Ss)、清水靖晃(Ts,Ss)、杉本喜代志(G)、村上秀一(Ds)などとの強者とセッションを重ねている。
この時期の坂本はスタジオワークとジャズ、フュージョンの系のライブセッションの二本立ての音楽活動で腕を磨いていた。

The End of Asia/千のナイフ(坂本龍一)

渡辺は坂本のソロデビュー作の「千のナイフ」にも助力。松武秀樹の全面協力によってシンセサイザーを導入し、殆ど坂本1人で録音された作品にギターで人力の爪痕を残す。
因みにYMOでプログラマーとして名を成す松武は坂本ルートで、坂本がりりィのコンサートのバックをやっていた時以来の付き合いだった。
The End of Asiaでも後半に火を吹くような渡辺のソロが聴ける。後々この曲はYMOのライブでも定番となり海外でも評判を呼ぶ。

YMO海外ツアーで弾きまくる渡辺香津美

1978年10月には六本木ピットイン「千のナイフ」発売記念ライブとして開催された「坂本龍一&イエローマジックオーケストラ」にも参加。坂本龍一、細野晴臣、高橋ユキヒロに渡辺香津美(G)と言う垂涎物のメンバーで開催された凄いものだった。
細野のファンで「HOSONO HOUSE」を愛聴していた渡辺は、細野との共演に感激したようだ。

そして11月に「イエロー・マジック・オーケストラ」でアルバムデビューしたYMOはテクノポップという言葉もまだなく、フュージョンとして扱われ、本作もチャート69位とまだ世間では無名の存在に過ぎない。
12月20-22日には六本木ピットインで、YMOの3Daysライブが開催。ここにも渡辺は参加している。ピットインという箱が当時の規模を物語る。

YMOは翌年の1979年8月2日、ロサンゼルスのグリーク・シアターで行われた海外公演まで、10ヶ月間は表立った活動はなく言わば凪の状態。
(水面下ではソリッド・ステイト・サヴァイヴァーを3月から録音)

坂本にとっても、YMOは細野主体のもので自分は従の立場。
YMOは「バイト感覚でOKならやってもいい」と高橋に話していたようで、今後の見通しが立たない中で、ソロや別プロジェクトを手探りで試す状況だった。

1979年 KYLYN

渡辺とのピットインでの活動は「渡辺香津美・坂本龍一プロデュース・ナイト」となり、さらに発展して伝説的なバンドKYLYNになる。
Kは香津美から、Lは龍一のRをLとして、2人の合体を表した。そしてNは仲間たち。
これは1979年2月23日六本木ピットインの渡辺香津美の音源。坂本龍一プロデュースでのライブから東風(Tong Poo)。この形態がKYLYNへと進化する。
渡辺香津美と坂本龍一に、小原礼(b),矢野顕子(key,vo),ペッカー(per)、高橋ユキヒロ(dr)、上原ユタカ(dr)。

KYLYN』は1979年4月 - 5月に録音され、6月25日にリリースされた。先行シングルとして5月にはブライアン・フェリーの「東京ジョー」発売。ボーカルは渡辺と高橋ユキヒロ。

東京ジョー/渡辺香津美

東京ジョー

5月3日には原宿を皮切りに、KYLYNでの全国ツアーも開始していた。

全国ツアーを敢行したKYLYN

アルバムは坂本龍一が共同プロデュースをつとめ、シンセサイザーからピアノ、フェンダー・ローズまでを縦横無尽に引き倒している。渡辺香津美名義だが、坂本との双頭バンドKYLYNの作品と言ってもいい。
参加しているメンバーが、坂本に矢野顕子益田幹夫小原礼村上 ”ポンタ“秀一高橋ユキヒロペッカー向井滋春本多俊之清水靖晃とロックとジャズ、フュージョン界精鋭の混合という画期的な組み合わせ。

そして5月30日にはYMOの1stがアメリカでリリースされ、水面下では徐々にYMOブレイクへの種は蒔かれていた。

E-Day Project/KYLYN

「KYLYN」最大の聴き物はYMOのフュージョン版とも言うべき坂本作曲のE-Day Project。坂本の曲で最も心地よく響く隠れた傑作である。
渡辺 、坂本に高橋ユキヒロ矢野顕子と後のYMO海外公演のメンバーが揃い、小原礼(ベース)、ペッカー (パーカッション)という精鋭が固める。
編曲家坂本が冴え渡るストリングスのイントロから始まり、渡辺のギターソロとYMOを彷彿させる矢野のARP Odysseyのソロが中盤を盛り上げる。高橋のシンセドラムもYMOっぽい。

1979年 矢野顕子とKYLYN

I'll Be There/KYLYN

I'll Be Thereは作詞:矢野顕子、作曲:坂本龍一 と言う後に夫婦となる2人の共作。いつもと違うR&B調の矢野のボーカルが聴ける。

矢野は1976年に「JAPANESE GIRL」でデビュー。78年の「ト・キ・メ・キ」までは坂本は矢野のスタジオ作品での接点はない。
ライブでは78年「ト・キ・メ・キ ツアー」にYMOのとして3人が参加。吉田美奈子山下達郎もコーラスも参加していた。この時の演奏が最初に世に出た矢野と坂本の共演音源である。
「わたしこの時『坂本龍一ってキーボード、はずしてもらえない?』って言ったの」と矢野が語っていたが、やがては夫婦となる。
WALK ON THE WAY OF LIFEはKYLYNでも演奏されたが、矢野のライブアルバム「東京は夜の7時」に収録され79年4月に初めて世に出た。

『KYLYN LIVE』

KYLYN LIVE

さらにKYLYNはYMOの活動の合間を縫うように5月3日から全国ツアーを敢行。六本木ピットインでのラスト3日間(6月15~17日)のライヴを収録したアルバム『KYLYN LIVE』を発表し、この伝説的なユニットは幕を閉じた。
参加メンバーは渡辺香津美、坂本龍一に、村上ポンタ(ds)、小原礼(b)、矢野顕子(key,vo)、向井滋春(tb)、清水靖晃(ts)、本多俊之(as)、ペッカー(perc)。
KYLYN LIVE』は11月25日にリリース。

渡辺香津美,坂本龍一,村上ポンタ,小原礼,ペッカー,向井滋春,清水靖晃,本多俊之,矢野顕子

在広東少年/KYLYN LIVE

矢野顕子の曲。YMOのワールドツアーでのレパートリーとなった自分もYMOでこの曲を跳ねながら歌う矢野の姿が目に焼き付いている。
スタジオバージョンは1980年の「ごはんができたよ」と1981年リリースの大ヒットシングル「春咲小紅」のB面に収録された。

YMO世界ツアーでの在広東少年

インナー・ウィンド/KYLYN LIVE

渡辺の曲インナー・ウィンドでは怒涛のソロが聴ける。ホーンが3台にパーカッションの大所帯バンドの演奏は、現代のSnarky Puppyにも通じる古さを感じない。

THE RIVER MUST FLOW/KYLYN LIVE

THE RIVER MUST FLOWジノヴァネリのカバー。ボーカルは矢野だが、彼女のテイストとは違うAOR調の曲をこの精鋭達に格負けせずに歌い切る技量に感服。本多俊之のサックスソロが素晴らしい。

坂本龍一&カクトウギセッション

SUMMER NERVES/サマー・ナーヴス(坂本龍一&カクトウギセッション)

KYLYNと同時期の1979年6月21日に坂本龍一&カクトウギセッション名義の『サマー・ナーヴス』がリリース。録音は3月に開始されていた。
ユニット名は、ジャズフュージョン系とロック系のミュージシャンの競演を格闘技になぞらえたもの。
坂本、高橋、矢野、小原、ペッカーとミュージシャンはKYLYNと大部分が被るが、大村憲司 、鈴木茂 、松原正樹が参加。渡辺はアブドゥーラ・ザ・"ブッシャー"名義で参加していた。
元々CBS SONYからは企画アルバムとしてボサノヴァを提案されながら、坂本の希望でレゲエ色が強まった。
タイトルチューンであるSUMMER NERVESは、リズム、ギターのカッティングやベースラインはレゲエっぽいナンバー。
そして坂本龍一自身のヴォーカルが珍しい。

Sleep On My Baby/サマー・ナーヴス(坂本龍一&カクトウギセッション)

矢野顕子作曲。1982年に「愛がなくちゃね。」でセルフカバーされる。坂本と矢野のデュエットによるラヴァーズ・レゲエ調ナンバー。
渡辺香津美、大村憲司がギターで小原礼、高橋ユキヒロ参加。

“カクトウギ”のテーマ/サマー・ナーヴス(坂本龍一&カクトウギセッション)

カクトウギ”のテーマは、全日本プロレス中継の次期シリーズ予告にも使用された時期があった。この時期は自分もプロレスの熱狂的なファンで、この曲が坂本のものとは知らずに驚いた。“ロッキーのテーマ”のパロディー・ソングだったようだが、ヴァン・マッコイの“The Hustle”のようなソウル・インストルメンタルに仕上げられた。
坂本龍一(kb, p)、小原礼(b)、高橋ユキヒロ(ds)、鈴木茂、松原正樹(g)、浜口茂外也 (perc)

坂本は6月にKYLYNカクトウギセッションと2枚のアルバムを同時にリリース。KYLYNのツアーにも参加しながら、水面下では「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の録音も進行する超過密スケジュールをこなしていた。

カリブ海にて

そしてYMOの海外ツアーが決定。

そのYMOの海外ツアーの前に坂本は初の海外渡航を経験。テレサ野田「トロピカル・ラヴ」を録音するために加藤和彦と訪れたジャマイカ
続いて1979年7月にバハマのナッソーで録音された加藤和彦の「パパ・ヘミングウェイ」にも参加。

アラウンド・ザ・ワールド/パパ・ヘミングウェイ(加藤和彦)

加藤のミカバンドの同僚の小原礼 (ベース)、高橋 (ドラムス)が参加し、大村憲司 ( ギター)と坂本と共にバハマのナッソーで録音されたディスコレゲエナンバー。

バハマから帰国するとすぐ、YMOとして8月2-4日には、ロサンゼルスのグリーク・シアターチューブスの前座として公演を行い絶賛を浴びる。
まさに怒涛の日々で、ここから誰も予想しない快進撃が始まるのだ。
KYLYNメンバーから渡辺香津美(ギター)、矢野顕子(キーボード、ボーカル)が加わり、同じくKYLYNの坂本、高橋と息の合った演奏を披露。
ライブの場数で言えば当時はYMOとしてよりKYLYNの方が多く、KYLYNに細野が加わったメンバーと考えると演奏のクオリティも理解しやすい。

そして、帰国後の9月25日にセカンド・アルバム「ソリッド・ステート・サヴァイヴァー」が発売された。

レコード大賞編曲賞受賞

YMO加入前の坂本の生活の糧は何かと考えると、それはセッションミュージシャンよりもむしろ編曲家ではなかったか、と思えるほど多くの作品を残している。グラミーやアカデミーに比べては屁でもないようなレコード大賞だが、この編曲賞は坂本にとっての初の大きな受賞だった。
東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音響研究科修士課程を修了し、教授と言われた坂本にとっては仕事感覚での取組みだったのか。

モンロー・ウォーク/SPEAK LOW(南佳孝)

モンロー・ウォークは1979年6月にリリースされた南佳孝「SPEAK LOW」からのシングル。作詞が来生えつこ編曲は坂本龍一
高橋ユキヒロ (ドラム)、小原礼 (ベース)、鈴木茂 (ギター)、坂本龍一 (Fender Rhodes、Synthesize)
イギリスで流行したファンクとラテンをミックスさせた「ファンカラティーナ」の要素を早くも取り入れた坂本の編曲の見事さ。
南の前作で得た信頼をさらに発展させた坂本の完璧なアレンジ。

TOKYO FMの坂本美雨の高橋幸宏追悼番組にゲストで参加した南佳孝は、高橋のベストプレイとしてこの曲のドラムをセレクトしていた。

サルバドール紀行/ニュー・ホライズン(サーカス)

YMOと同じアルファ・レコード所属だったコーラスグループサーカスの『ニュー・ホライズン』にもYMOとして細野・高橋と共に参加。
南佳孝のアレンジにも通じるラテン調で、シンセとビブラフォンのソロが効果的なサルバドール紀行

アメリカン・フィーリング/ニュー・ホライズン(サーカス)

アメリカン・フィーリングは職業編曲家、坂本の代表作。芸大出の坂本らしく、クラッシックの楽器ハープシコードが効果的。
1979年の日本レコード大賞で編曲賞を受賞。
「嬉しいとは思わなかった」と坂本は語り、受賞式は欠席。

受賞の前月、1979年11月9日NHK「ニュースセンター9時」でYMOの海外での活躍が放映される。自分もこれを観た記憶がある。
「日本音楽の海外進出」ムードは高まり、これを機にしてYMOはブレイクに向けて邁進する。

1980年 YMOブーム

カットされた渡辺香津美のギターソロ

1980年3月10日 、2月にリリースしたライブアルバム『パブリック・プレッシャー/公的抑圧』が初のチャート1位。『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』がチャートにて9位にランクイン。
遂にYMOブームが顕在化した瞬間だった。
なお、渡辺香津美のギターソロは所属していた日本コロムビアが収録を拒否したため、坂本のシンセサイザーに置き換えられた。クレジットには「Also thanks to Mr. KYLYN」として渡辺への謝辞が掲載。
渡辺香津美がカットされていない音源入りのライブ映像。

坂本さん逝去の報に、渡辺氏のコメント「感謝しかない」。色々あったが、坂本氏あっての渡辺氏だったと思う。

TONG POO /ごはんができたよ(矢野顕子)

坂本が共同プロデュースを手がけ、YMO3人と大村憲司が参加。YMOの東風を歌詞入りてカバー。

Dearest Ryuichi,
Would you like to play piano four hands together again?

1980年 大貫妙子

CARNAVAL /ロマンティーク(大貫妙子)
新しいシャツ/ロマンティーク(大貫妙子)

YMOがブレイクするとYMO的なサウンドを求めて、3人がプロデュースしたり参加する作品が増え出す。時代はティンパンアレー的な音から、YMO的な音がトレンドになりつつあったが、その代表作が『ロマンティーク』
前作『ミニオン』リリース後、大貫は約2年間音楽活動を休止。牧村憲一氏から「ヨーロッパっぽい音楽をやってみない? 」という誘いで『ロマンティーク』を制作する。
「それを音にしていく上では坂本さんの力が大きかったですね」という通り、坂本が編曲で貢献した。
CARNAVALは編曲が坂本、演奏もYMOの3人に大村憲司、松武秀樹(Computer program)というまさに当時のYMOが丸ごと参加。

新しいシャツも坂本が編曲しYMO+大村がそのまま参加。
「当時、大貫さんが発表したのが「新しいシャツ」で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、2人のコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知る人がいたのでしょう。だけど、あれから長い時間が経ち、今ではもう親戚のような付き合いになっていて、『UTAU』では大人のミュージシャン同士の新たな関係が築けたと思います。」と坂本は語る。

結局、坂本が最も編曲を手掛けたミュージシャンは大貫だったが、それだけ2人の相性は抜群だった。
2010年には数年ぶりの共同作品として『UTAU』をリリースしている。
大貫は坂本の行う社会活動「おやすみなさい柏崎刈羽 署名プロジェクト」にも賛同し署名していた。

そして今年3月5日、坂本の番組「RADIO SAKAMOTO」(J-WAVE)が最終回を迎えたが、がん療養中の坂本に代わり大貫妙子が代役を務めた。

坂本にとって大貫は音楽だけでなく公私に渡る最大の理解者だったのかもしれない。

「坂本さんとご縁の深かった方のご好意により荼毘に付す前日、お会いすることが叶いました。肉体に宿ったすべての苦しみから解き放たれ本当に安らかで綺麗なお顔でした。家族に見守られ安心して旅立ったことを思います。ありがとう坂本さん 大貫妙子」

Riot in Lagos

Seiko Is Always On Time/春がいっぱい(大村憲司)

渡辺香津美離脱後にYMOのツアーギタリストとなった大村憲司「春がいっぱい」は高橋幸宏、坂本龍一との共同プロデュース。
Seiko Is Always On Timeは坂本龍一との共作。坂本のソロ「B2 ユニット」と通底するインスト曲。

大村氏は1998年11月、肝硬変で49歳で早世。
坂本氏の逝去に関しての大江千里の寄稿文にも大村氏が登場する。

Riot in Lagos/B-2ユニット(坂本龍一)

1980年12月日本武道館、YMOのライブ。
オープニングは坂本の2ndソロ『B-2ユニット』よりRiot in Lagosだった。
自分も目撃したこのライブでYMOの曲ではなく、坂本の未体験ゾーンの曲で始まり戸惑いを感じつつも、衝撃を受けたのを思い出す。

Riot In Lagosについて
細野晴臣は「教授に『打ちのめされたよ』って感想を伝えたら、嬉しそうだったのは覚えてる。単に曲というよりも、音の構造も含めた『作品』としてすごいと思った。当時の微妙なエスニック感覚が入っていて、絶妙のバランスだった」と語っている。

1980年9月20日、「B-2ユニット」発売。

坂本龍一氏はプロとして人に合わせたり、人の要求に応える仕事でもクオリティの高い制作物を提供してきた。
そして自己の作品「B-2ユニット」で真に自分の作りたい表現に辿り着き、「YMOに至る旅」はここで完結を迎えたと感じた。



この記事が参加している募集

#思い出の曲

11,369件

#私のプレイリスト

10,915件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?