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名盤と人 第27回 自立 『Innervisions』 スティーヴィー・ワンダー

スティーヴィー・ワンダーの最高傑作とも呼ばれるのが『Innervisions』。黄金時代の3部作の一つであるが、そこに至るまでの彼は決して順風満帆ではなく、葛藤の歴史があった。モータウンから音楽的、経済的自立をするための抗争、そして演奏面で自立するためのシンセサイザーTONTOとの出会い、など『Innervisions』に至るインサイドストーリーを辿る。

自立のための葛藤

ドラムを叩く19歳のスティーヴィー

音楽ドキュメンタリー映画『サマー・オブ・ソウル』はThe Rootsのドラマー、クエストラブが監督し、2022年の94回アカデミー賞にて長編ドキュメンタリ―賞を獲得した。
舞台は1969年7月20日、夏のニューヨークのハーレムで開催された「ハーレム・カルチュラル・フェスティヴァル」。
この映画の冒頭でスティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder)がドラムソロをとるシーンが出てきて度肝を抜かれる。

(以下の映像は映画からではないが、同時期のドラムソロシーンと思われる)

1969年ハーレムのステージに立ったスティーヴィー・ワンダーは、若干19歳の若者に過ぎず、映画でも本人が語るように「人生の岐路」に立っていた。

スティーヴィー・ワンダーの足跡

スティーヴィー・ワンダーは1962年に11歳でデビュー、63年には「フィンガーティップス」が全米1位の大ヒットとなる。この、13歳での1位獲得は史上最年少の記録である。
が、その後はヒットは出しても単発に終わり、ブレイクは1969年のハーレムのステージから3年後の72年の『トーキング・ブック』 (Talking Book)からシングルカットした迷信(Superstition)の全米一位まで待たねばならない。

インナーヴィジョンズ』 (Innervisions) は、『トーキング・ブック』の次作として1973年に発表されたスティーヴィー・ワンダーの16枚目のアルバム。23歳にして既に16枚目という作数に驚く。本作はチャート4位となりグラミー賞の最優秀アルバム賞を獲得した。

Innervisions

現代では2020年のアメリカ大統領選挙の際、バイデンのキャンペーンソングとして使用された「ハイアー・グラウンド」が知られている。これは当時CashBoxチャートで1位に達し、後年レッド・ホット・チリ・ペッパーズにカバーされたことでも知られる。彼はクラビネット、モーグ・シンセサイザーによるベース、ドラムなどすべての楽器を演奏した。

前作の『トーキング・ブック』、本作、次作『ファーストフィナーレ』(Fulfillingness' First Finale)と3部作のリリースで黄金期を迎える数年前の、19歳のスティーヴィーはモータウンの創始者ベリー・ゴーディからの自立志向が芽生え始めた苦悩の時期にいた。

ファンクブラザーズからの自立

このハーレムでのスティーヴィーのドラムソロはとても象徴的なシーンで、この時期を境にモータウンのハウスバンドであるファンクブラザーズから離れて、多重録音による全楽器自演の方向に舵を切る。
つまり、鍵盤は言うに及ばず、ベースはムーグベースを自身で操り、ドラムまで自分で叩くスタイルに転換していく。
これは金太郎飴的なモータウンのオートメーション式音楽生産からの離別と自立でもあった。
同時期に発売された「My Cherie Amour」では、James Jamerson(bass)
Benny Benjamin(drums)のファンクブラザーズのサポートを全面的に受けるが、翌年1970年8月発売の『Signed, Sealed & Delivered』ではファンクブラザーズの演奏は部分的となり、自身でもドラムを演奏し始める。

タイトル曲の涙をとどけて(Signed, Sealed & Delivered)はシングルヒットし全米3位を記録した。この曲はツインドラムとなって片方はスティーヴィーのドラムと思われ(もう1人はRichard "Pistol" Allen)、スタジオ録音でもドラムを叩き始める。

モータウンのベリー・ゴーディとの抗争

このアルバムを発表する直前モータウンと新たな契約を交わし、プロデュース権を獲得し共同プロデューサーとしてのクレジットを与えられた。
そしてビートルズのWe Can Work It Outをカバーし、単独でプロデュースもしている。
「僕は自分のレコードをセルフプロデュースするにあたり、ポール・マッカートニーの様なメロディーセンスの良いミュージシャンを目指した。だから、最初のセルフプロデュース作にしようと思った作品にビートルズのWe can work it outを入れたのはポールマッカートニーへの感謝の表れからなんだ。」と語っている。

20歳になり、自分のアイデンティティを思う存分発揮した初のアルバムであり、変革の第一歩となった。
折りしも1970年6月にはマーヴィン・ゲイWhat's Going Onを録音し、
モータウンの創始者であるベリー・ゴーディが、ミュージシャンの芸術的自由を認める必要性を感じ始めた時期でもある。

そして 21 歳の誕生日が近づくと、スティーヴィーはビジネス的な自立に向けた行動を試みる。彼の契約には、成人になるとそれを無効にすることを許可する条項があった。ゴーディが契約の再交渉について持ちかけたとき、スティーヴィーは拒否し、契約を無効にするよう求めた。

『青春の軌跡(Where I'm Coming From)』は、1971年4月に発表されたアルバム。
スティーヴィーは自分のアルバムのクリエイティヴな面の全面的なコントロールを主張し、モータウンの社長のベリー・ゴーディと交渉。ゴーディはそのことを許可した。ゴーディはマーヴィン・ゲイの『What's Going On』の制作過程においてゲイから反抗され、弱気になっていたかもしれない。
そしてプロデューサーとして単独クレジットを勝ち取るが、チャートは62位と振るわなかった。
シングルのIf You Really Love Meは全米8位まで上がり、ムーグベースシンセサイザー、ドラム、ピアノを演奏している。

モータウンから勝ち取った自立

ベリー・ゴーディとの抗争に勝つ

1971年5月スティーヴィーは遂にモータウンとの契約終了を、ベリー・ゴーディに伝え、未払い金の支払いをゴーディに要求。
そしてステーヴィーはデトロイトを離れ、ニューヨークへと移転する。そして自費を注ぎ込み、次作の制作に着手する。
モータウンのしがらみから解放されたスティーヴィーは、会社に口を挟まれることなく、流れ作業から生まれたモータウン・サウンドから脱却した、全く新しいサウンド作りを目指す。
そして、ただのヒット曲の寄せ集めのアルバムではなく、コンセプチュアルなアルバム制作に挑むのである。
それが1972年3月にリリースされた『Music of My Mind』(心の詩)である。

Music of My Mind

この作品の制作過程でスティーヴィーはモータウンに戻り、再契約を交わす。新たな契約は、プロデュース権を獲得し、制約されることなく自分が作りたい音楽を思うように作り上げることができるというものだった。
Music of My Mind』は自費を注ぎ込み制作されたが、モータウンの販売網でリリースされたのである。

マルコム・セシルとロバート・マルゴレフ

本作はトロンボーンやバジー・フェイトンのギターを除いて、スティーヴィー単独の演奏により録音されている。バジー・フェイトンは当時フルムーンにも所属していた。
Love Having You Around
のライブ映像(1972年)。ライブではギターのバジー・フェイトン、レイ・パーカーJr.以外にはScott Edwards-bass、Trevor Laurence - saxophone 、Ricky Lawson - drums 、Greg Phillinganes - keyboardsなどがバックが務める。

そしてレコーディングではほぼ一人で楽器を演奏。それを実現したのが、シンセサイザーの開発者であるマルコム・セシルロバート・マルゴレフとの出会いである。
Music of My Mind』は彼ら2人との共同プロデュースとなっており、この形態は『トーキング・ブック』『インナーヴィジョンズ』『ファーストフィナーレ』まで続くことから、3部作ではなく4部作と称すべきだろう。

マルコム・セシルとロバート・マルゴレフとの共同プロデュース

マルコム・セシルは、1937年ロンドン生まれ。ジャズ・ミュージシャンとして1950年代後期にグループを結成、自らベース奏者として活動した。
ロニー・スコットなどのジャズ・グループに参加し、アレクシス・コーナーとブルーズ・インコーポレーテッドを結成。
1960年代後期にニューヨークに移り、ロバートマルゴレフと知り合い、2人でシンセサイザーを使ったオーケストラ音楽を作ろうと、TONTO ("The Original New Timbral Orchestra"の頭文字)というユニットを結成、アルバムZero Timeを出した。

スティーヴィーはそのアルバムを聴いて感銘し、自らマルコム・セシルに会いに行き、彼らを新しい音楽エンジニア兼共同プロデューサーとして自身のレコーディングに迎え入れた。
マルコム・セシルについては以下の記事が詳しい。

Superwomanは爽やかなエレピに彩られた優しいメロディ、さらにこのアルバムでは少ない助っ人のバジー・フェイトンのメロウなギターの心地良さが際立つ。

本作は全米21位まで上がり前作を上回り、次作以降の爆発的な成功の助走となる。
地味ではありながら、ゴーディの影響力を排除し音楽制作の自由を獲得し、シンセサイザーという道具を得たという意味で歴史的な一枚である。

同年10月に矢継ぎ早にリリースされた次作「トーキングブック」(Talking Book)は、1973年2月にポップアルバムチャートで3位に達し、シングルの迷信You Are the Sunshine of My Lifeは連続して全米一位に達する。そしてグラミー賞最優秀男性ポップボーカルパフォーマンス賞を受賞し、レコード・オブ・ザ・イヤーとソング・オブ・ザ・イヤーの両方にノミネートされた。
本作にはジェフ・ベックが参加、また迷信を巡っていくつかの逸話もあるので、その辺りは以下の記事に書かれているので参照して欲しい。

頂点を極める

Innervisionsの衝撃

そしてわずか10ヶ月後73年8月に『インナーヴィジョンズ』 (Innervisions) はリリースされる。
スティーヴィーは事実上すべての楽器を演奏し、彼はアルバム全体でARPシンセサイザーを全面的に使用している。
歌詞に込められた政治的・社会的なテーマ、無駄のない演奏、シンセサイザーという当時の最新機器を使いながらも今持っても古臭くないサウンドと名盤中の名盤とは本作のことだろう。

A-1では、薬物乱用をテーマにしたファンクナンバーToo Highでいきなり飛ばしてくる。スティーヴィーのファンクのドラムとベースは既に独自の領域に達し、そしてまた本人のハーモニカソロも素晴らしい。

A-2のVisionsでは珍しく外部ミュージシャンを起用した。本人はFender Rhodesとelectric pianoに徹して、Dean Parks (acoustic guitar)と
David T. Walker(electric guitar)を起用、そして何とダブルベースはマルコム・セシル。元ジャズベーシストのキャリアを活かしている。
(4:09から始まる。)

A-3の「汚れた街」(Living for the City)は全米8位のシングルヒットを記録。完全なる独演でFender Rhodes、electric piano, ドラム, ムーグベースを演奏。 TONTO synthesizerの響きが独特である。この曲は、貧困の中に生まれ、その後に麻薬を輸送したという疑いで禁固10年の刑を受けた少年を描いたもので、不平等と人種差別に怒りをぶつけている。
このライブでは、
Wonderlove(スティーヴィーのバンド名)は
Bass: Reggie McBride、Lead Guitar: Michael Sembello
Drums: Ollie. E. Brown、Vocalists: Deniece Williamsらが参加していた。

Stevie Wonder “Living For The City
スティーヴィーがドラムを叩いてレコーディングするレアな映像。

A-4のGolden Ladyはシングルカットされていないが、彼の至高の隠れた名曲として高い人気を誇る。
ジャズピアニストのロバート・グラスパーもカバーしている。

そしてB-1のHigher Groundは、73 年 5 月に 3 時間で一気に曲を書き録音したという。フィルターペダルを通したワウワウクラビネットを全編に使用したファンクチューン。

B-4のDon't You Worry 'Bout A ThingIncognitoのカバーでも有名である。BongoにSheila Wilkersonという女性パーカッションを起用し、大々的にラテンのリズムを取り入れつつも、親しみやすく極上のポップスサウンドになっている。

B-5のHe's Misstra Know-It-Allウィリー・ウィークスにエレクトリックベースを弾かせ、それ以外のピアノ、ドラム、TONTO シンセサイザー、コンガをスティービーが演奏。ウィークスは前年の72年ダニー・ハサウェイのLIVEでのベースソロで名を馳せた当時の若手ベーシスト。後には売れっ子スタジオミュージシャンとなる。歌詞は当時の大統領ニクソンに対する痛烈な攻撃となる内容だ。

交通事故とTONTOとの決別

1973 年8月6日『Innervisions』のリリースから 3 日後、スティーヴィーは交通事故に遭遇する。事故後意識を失い、重度の脳挫傷による昏睡状態で10 日間横たわっていた。この事故の後遺症で味覚、嗅覚を失うが、その後のリハビリでほぼ完全に回復する。
この体験より、慈善活動や平和活動に目覚め、南アフリカのアパルトヘイト政策に反対する歌、公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師に対し、敬意をはらう歌を発表するようになる。

1年前に交通事故で瀕死の重傷を負ったスティーヴィーだが、見事に復活して1974年7月22日『Fulfillingness' First Finale』をリリースする。
You Haven't Done Nothin'(悪夢)は全米チャート第1位の大ヒットとなるが、自分が彼を知ったのも日本でもヒットしていたこの曲だった。

プロデュースはスティーヴィーとマルコム・セシルロバート・マルゴレフという鉄壁の布陣だが、印税を巡る闘争で両者の関係に綻びが生じ始める。
本作はTONTO期最後のアルバムとなり、TONTOが悪夢など数曲で使用されているが、ジェームス・ジェマーソンが復活したりギターのマイケル・センベロが活躍したりと外部ミュージシャンと演奏する楽曲が多い。
そしてマーゴーレフとセシルには印税はない、という判決が出て両者のコラボレーションが終わりを告げた。

セシルとマーゴレフはスティーヴィ以外にもTONTOで多くの貢献を成し遂げるが、クインシー・ジョーンズの「Body Heat」、ビリー・プレストンの「It’s My Preasure」やアイズレーブラザーズの『3+3』での成功は有名だ。

ポール・マッカートニーとスティーヴィー

1975 年末までに、スティーヴィーは引退し、ガーナに移住して障害児を支援することを真剣に検討していた。送別コンサートの計画がすでに始まったが、考えを変え、1975 年8月にモータウンと新たな契約を結ぶ。
そして新たな彼の金字塔となる『Songs in the Key of Life』は、ダブル LP アルバムとボーナス 7 インチとして1976 年9月28日にリリースされた。このアルバムは全米アルバムチャート14週1位となる大ヒットになり、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤー他4部門をも受賞した。

1982年には同じく多重録音の名人ポール・マッカートニーと共演し、エボニー・アンド・アイボリー(Ebony and Ivory)をリリース

スティーヴィーの録音に影響を受けたと言われるポールは、多重録音作品として『マッカートニー』(1970)、『マッカートニーII』(1980)、『マッカートニーIII』(2020)の三部作、「Chaos and Creation in the Backyard」(2005)を残す。さらにはInnervisionsと同年73年のウイングス名義の「バンド・オン・ザ・ラン」(Band on the Run)でもギター、ベース、ピアノにドラムを担当し、マルチぶりを発揮している。
この前作「Red Rose Speedway」の裏ジャケットにはスティービーへのメッセージが、点字で「We Love You Baby」と書いてあり、2人の相思相愛ぶりが窺える。

Ebony and Ivoryのレコーディングは1981年2月にモントセラトのAIRスタジオにて行われ、演奏はポールとスティーヴィーの2人のみで行われている。
ポールはギター、ベース、鍵盤を、スティーヴィーは鍵盤のみならずドラマーでもあるポールを差し置いて、ドラムを叩いている。
そしてムーグベースの名手スティーヴィーも流石に世界一のベースプレーヤーのポールにはベースを譲っている。
世界的なマルチ奏者2人の共演でもあった。

「ポールマッカートニーはギターに頼らない楽曲作りが特徴だった。白人は多くがギターに頼ってたけど彼はそうではなかった。それは彼が素晴らしいベーシストだったからでもあるんだけど。 」 
「僕はビートルズの最高傑作である(サージェントペパーズロンリーハーツクラブバンド)の様な作品を作ることが黒人にも可能だという事を世界に証明したかった。なぜなら、ビートルズの音楽は僕にとってはいつも最高だったが僕の黒人の音楽仲間には決してそういうわけではなかった。しかし(サージェントペパーズ)が出て、僕は音楽仲間にそのレコードを持って行ったときには彼らはすでにそれを持っていた。つまり、もし素晴らしい音楽を作ることが出来るのならば音楽は人種問題を超えることが出来るのだと分かった。」

Stevie Wonder

そしてスティーヴィーは1970年、初めて自分でプロデュースした作品『Signed, Sealed & Delivered』でカバーしたWe Can Work It Outを、2010年White Houseで敬愛するポールの目の前で披露するのである。

Innervisions


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