見出し画像

自律した人として接する姿勢を大切にしたい

スポーツの指導や学校現場での指導において、私自身が非常に重要であると思っていることとして、”選手、生徒に対して一人の自律した人として接する”ということがあります。

スポーツの現場においては、近年プレーヤーズファースト、アスリートセンタードといった選手主体の競技活動の重要性が叫ばれるようになってきています。
選手自らの主体的、能動的な競技姿勢を尊重し、その内発的動機を元に競技パフォーマンスを高めるとともに、精神的にも人間的にも成長していけるよう、コーチは支援することが大切であると説明されています。

私には、これまで私たちが過ごしてきた教育の現場では、生徒は自律した人として接してもらえるのではなく、自律した人になるための基礎を身につけるために管理されているといった様子があったように感じていました。

「〇〇しなさい」「××してはいけない」「△△したいならば□□ができてからだ」といった言葉の集まりだったように思います。

指導の目的によっては、そうした指示語も必要となることはもちろんありますが、このような指示語ばかりになってしまうと、大人に管理される存在であるという前提認識が生まれてしまい、何かに意欲を持った時でも大人の存在を意識しながらになってしまうかもしれません。
また、そうした大人の管理下にあるというような認識によって、意欲が湧かなかったり、ただ黙々と与えられた課題をこなすことだけが大切であると誤った解釈をしてしまうかもしれません。

心地よく目覚める保育士のyako様の記事を拝見していると、このような記事がありましたので引用させていただきました。

“対大人の場合・・・。態度や文句で示してくれる。 看護師さんなら、体温を測らせてもらえなかったり、お断りされたりすることもあるだろう・・・その度に「わたしの何がだめなのか??「どう変えればいいのか??」と自分を見つめる機会が多いように思う。 でも、対子どもの場合・・・よく観てないと、子どもの反応に気が付かない。 子どもが柔軟であるが故に、文句も言わない。文句を言っても、いくらだってねじ曲げられる。 子どもの権利は、大人の権力でそうにでもなってしまう・・・。 時々、はっきりという子や態度で示してくれる子がいると、問題になってしまう。 どうその子を変えよう・・・という発想にいきがち。 そういうことが多々あるように思う。 だから、気持ちを言ってくる大人(親)向けの保育サービスになってしまっている。 のが、教育現場である保育現場なんだろう。 と、なんだかとっても腑に落ちた。”

「はっきりという子や態度で示してくれる子がいると、問題になってしまう。どうその子を変えよう・・・という発想にいきがち。」

このような雰囲気は、私も大学野球の頃の学生コーチをしていた時や、高校の非常勤講師をしていた時にもよく感じました。
そして、その都度、子どもたち等のような指導を受ける立場にある人は、指導をする者に管理されなければならないのだろうか、管理するような指導の在り方で本当に学びを得られているのだろうか?と疑問に思いました。

本来の指導の在り方というのは、その子それぞれに合った方法があるはずです。
しかし、人の集まりである集団を相手に指導を行う場合、どうしても集団の維持に気を配る必要が求められ、子どもに寄り添うという視点を損いやすいのではないかと感じることがあります。

また教育において、子どもを”在るべき姿”に向けて変化させなければならないといった雰囲気を感じることもあります。
教師の立場になれば、子どもを在るべき姿へと変化させるために、「どのようにしてその子を変えようか」と考えがちになってしまうのではないでしょうか。

しかし、大人になって過去を振り返ったときに、確かに教師の存在は貴重な者でしたが、私を作り上げているものは教師の指導だけではなく、周りの環境から感じたことや、自らの欲求とそれを阻む場面とのギャップの中での学びなども含まれています。

子どもは”ある職人”によって大人に変わるのではなく、様々な人とのふれあいの中から様々なことを感じ取って、成長していくものだと思います。

一人の自律した人として子ども(選手・生徒)を捉え、その生徒の成長の管理者ではなく、成長を支援する立場として関わっていたいと思っています。



よろしければサポートをお願いいたします! いただいたサポートは研究や記事執筆のための活動費に当てさせていただきます!