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手から消えた荷物

先日、会社から帰る時にたまたま営業部の男性社員と一緒になった。

僕より一年くらい後に入った人だけど、僕と同い年の人だ。

業務以外で話をすることはほぼ無かった。だから道すがら「さて、何を話したものか」と悩むことになった。

ふとした流れから彼の将来の夢についての話となった。

これが熱の籠った内容だった。

彼が何をやりたいのかここでは伏せる。けれど一つ言えるのは、それは少なくとも会社員とは全く別の世界の仕事だ。

その営業社員はものすごくソフトな様子で言った。

「何年後かにはその道で食べるって決めてるんです」

「それで食べていけないと困るんです。そのつもりで会社員になったので」

「プライベートではその稽古しかしてないくらいです」

「夢は絶対叶うんです」

昨日の天気を話す時くらいの表情と声色でこのような熱い言葉を発していた。

内容と様子のギャップに僕は戸惑い、幻惑されてるのだろうかと感じてしまうくらいだった。

しかしどうやら彼は冗談を言っているわけではない。本気だ。

いや冗談だったら逆につまらなさ過ぎて反応に困るから、むしろ助かったんだけど。

まぁとにかく、表情と声色以外の熱量は相当なものだった。

こんなに剥き出しの情熱、久しぶりに対面した。


僕にも夢がある。

会社員とは別の夢だ。

長年、それを追い求めている。

ある意味では、彼と同じだ。


でも落ち着いて考えてみろ。

彼のような情熱が今の僕にあるか?


答えはノーである。

20代前半の頃だったらあったかもしれない。

いや、間違いなくあった。

自分には才能があるはずだと僕は思ってたし、遅くとも25才までには結果を出すつもりだった。

それに見合うだけの情熱を持っていた。

今から思えば情熱だけが独り歩きしてたけど。

だから彼の姿を見て、戸惑うと共に、「あぁ、何だか懐かしいなぁ」と思った。

自分の人生は、その夢を叶えるためだけにあり、夢の道で生きていくことにしか意義は無い。

そんな価値観を真正面から抱く姿は、10年前までの僕そのものだった。

でも現在の僕はそうではない。

僕はこの10年で、気付かぬ内にその価値観を捨てていた。

歩いてきた道を振り返ってみても、どこで捨てたのか見つけることすらできない。

もう、できない。

きっと歩き続ける中で、砂が手から少しずつ落ちていくみたいに、ひそやかに消えていったんだろう。

歩いてきたのも砂漠のような場所だった。

そんな場所で、捨てた『剥き出し』は、もうとっくに他の砂にまみれて、単なる過ぎ去った景色となっていた。

悲しいことだ。

かつて持っていた剥き出しのアレを、もう失ってしまったのだから。

それは同時に、砂漠を歩く僕の手から荷物が一つ無くなったということでもあった。

かなり重く、質量のある荷物だった。

お陰で僕は身軽になり、実は今は以前に比べかなり歩きやすくなっている。

いちいちその荷物の重さに汗をかく必要も無いし、荷物の使い道に逡巡する必要も無いし、その質量に身の自由を圧迫される心配も無い。

ただただ、歩けば進むのだ。

なんて快適。

なんてストレスフリー。

空は青く、どこまでも伸びている。

太陽は暖かく降り注ぎ、僕を健康にする。

このまま、歩いていけばいいんだ。

そう思っていると、ふと、ある感覚が僕を襲う。

喉が渇いた。

渇いている。

水が必要だ。

でも、無い。

そう、水は、捨てた荷物の中に入っていた。

かつては荷物の重さに四苦八苦しながらも、僕はその中から渇きを癒す水分を取り出し、常時体内に含んでいたんだ。

そうすることで、熱砂を生きていた。

手から落ちたのは砂だと思っていたけど、本当は水だったのだ。

水は僕の後方に垂れて、砂に滲んで染みを作っていたはずだった。

でも、あっという間にそれは太陽に灼かれ、とっくの昔に蒸発してしまっていた。

そういうことだった。

砂の中に異物として混じるモノだったのだ。砂とは別物だったのだ。

僕は喉が渇き過ぎて、もがき始める。

あー、潤いよ、ってな感じだ。

でも、荷物が無くなり、身軽になった僕に水は無い。

砂を探そうにも、既に蒸発していてそれは無い。

じゃあどうする。

そこで僕は、自分の体の中にある水の気配に気付く。

それは、かつて体内に含んでいた水分の残り滓だった。

それを再び自分の内側で湧き起こさせ、もう零すことのないよう泉にする。

もちろん、あの頃のように充分な量ではないから、水圧も小さくなっている。

落ち着いた、少し穏やかなソレだ。

だからこそ、持っているのも少し楽で、かつてより長く保持することが出来そうだ。

少しずつ渇きが癒えてくるその喉が空気をいっぱいに吸い込むと、砂が一緒に口に入り込んで僕は少しむせる。けれど、もう水があるから大丈夫。

汗も再び流れ始め、足元に垂れたそれが砂を固め、ほんの少しだけ、今までとは違った感触の歩きやすさを、足に感じさせる。

あれ、こっちの方が、やっぱり歩きやすいのかも。

残った分だけの水分を持ったこの体そのものが、次には必要な荷物になりそうだ。


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