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【要約】もうひとつの教育

もうひとつの教育
村井 実  (1984年)
※画像とページ数は『村井実著作集7』(1988年)のもの


要約


 ドイツ、ケルンからの手紙

五月のドイツは花盛りです。見慣れない花、家々の庭の様子、深い森――教育というのは こうした自然の中の生活を抜きにして語ることはできません。そして「ワインもたっぷり、思索もたっぷり」でいこうと思います。ここはドイツなのですから。

子どもたちは学校で「この世界」の事を学びます。彼らが学校で教わる言葉、知識、技術、文化、そして感性も、それらはすべてその国、その地域、その学校の世界のものです。でも本当の教育と言うのは、子どもたちをして「もうひとつの世界」に目を向けさせるものです。しかし現実では、熱心に教育しようとすればするほど 子どもを「この世界」に囲い込むことになりがちです。ここに、教育のパラドックスがあります。



 スイス、ブルックからの手紙

ブルックは、ペスタロッチが晩年過ごした町です。人々はこの季節、子どもたちの夏休みを祝うために町中をたくさんの花で飾っています。なんと素敵でしょうか。ある場所の教育について知りたかったら、そこの学校や制度だけを見るだけでは十分ではありません。そうした表面的な事柄の根底にある、土台となる考えを見なくてはいけません。それは、その土地の人々が「子どもをどう扱っているか」を見れば一目瞭然です。

ペスタロッチの言葉に「下から上へと奉仕したことを、私の生涯の王冠と思う」(239)というのがあります。「教育」というと、つい知識のある人から無い人へ、「上から下へ」と何かを伝える・与えるというイメージを持ちやすいと思います。酷い場合には、「上からの押さえつけ」の教育となっていることもあります。ペスタロッチのいう「下から上への奉仕」としての教育は、子どもの純真さと可能性に対する敬いを表しています。言い換えると、人間への信頼――「人はみな善くなろうとしている」という信念――をペスタロッチは持っていたのです。



 ドイツ、フランクフルトからの手紙

一国の教育には「人間主義の教育」と「国家主義の教育」という、二種類があります。人間主義の教育では、「人はみな善くなろうとしている」という前提に立ち、それを国家としてどう援助できるかを考えます。人々がより善く生きるようになれば、その結果 自ずと国家も幸せに栄えていく、というのが人間主義の教育の考え方です。

一方、国家主義の教育の考え方では、そもそも人々や国家がどうあるべきかなど普通の人にはわかるわけがない。だから、それらのわかる人々(決めるのにふさわしい人々)に決めてもらおう。そして、それに従って国民に必要な知識や技術や考え方を身につけさせよう、というものです。

日本の教育は、現在に至るまで国家主義の考え方が強いと言わざるを得ないでしょう。偉い人が決めた教育目標や内容(学習指導要領)を組織的な段階を経て、最終的に学校現場で徹底していく。まさに「上から下」への教育です。もちろん、教育の目標や内容は絶えず見直され時代とともに変化してきました。また、そうした「上から下へ」の教育の効率性のおかげで日本の発展があったという事実は否定しません。
しかし、いくら効率的であっても、また常に改善が図られているとしても、国家主義の教育は「牛や馬を上質の肉牛や競走馬に育てるための巧みな仕事、飼育」(262)と本質的に変わりません。そこには真の意味の自主性、人間性、創造性を期待することはできないのです。



 アメリカ、プリンストンからの手紙

ニュージャージーのラトガース・カレッジの近くにある墓地を詣でてきました。そこには、明治の頃に渡米した日本人の若者たちが眠っています。当時の日本人留学生は、西欧列強の脅威から日本を守るため、あるいは彼らに並ぶためにアメリカの文明や技術を学ぶという「公的な」目的を持っていました。

一方、そういった人たちとは少し毛色の違う、新島襄という若者も同時期にアメリカに渡りました。帰国後、同志社を創設した人です。彼は他の「留学生」とは違い、正式なルートではなく密航によって出国します。彼の動機は、広い世界を見たい、民主主義のアメリカを見たいという好奇心でした。つまり、彼は「私的」な理由により渡米したのです。

新島と同時代を生きた福沢諭吉もまた、似た考えを持っていました。彼の言葉に、「立国は私なり、公に非ざるなり」とあります。国が独立し立派になるためには、まず個々人の「私的な」生き方が重要だという意味です。

しかし、新島や福沢のような人物は当時 稀でした。他方、「公的な」関心・目的を持った多くの留学生は、帰国後日本の近代化を推進しました。彼らの影響は、今の日本まで続いています。ここで、「公的な」価値観による日本の立国と発展が間違いだったなどと言う気はありません。しかし、もし新島や福沢のような「私的な」人がもう少し多くいたら、今とは違う日本が――もっと民主的で、創造的で、多様な魅力に富む日本があったのではないか、とも思うわけです。



 アメリカ、プリンストンからの手紙

プリンストン大学で面白い話題がありました。日米の子どもに「国で一番偉い人は誰ですか?」と尋ねたらどんな答えが返ってくるか、というのを話し合ったのです。これには一つ期待された正解があります。すなわち「人民、people」です。実にアメリカ的な理想です。

「第一に人民」と言う考え方は、新島や福沢にはきっとすんなり理解されたでしょう。しかし、彼らの親しい友人でもあった森有礼(初代文部大臣)は、きっと心底からは理解しえなかったのではないでしょうか。

森は公務でのアメリカ留学中、『日本の教育』という本をニューヨークで出版しました。その本の内容は、アメリカ教育界の知識人に対して当てた森からの質問と、その回答をまとめたものでした。森の質問は「日本の教育は、日本の農業、産業、政治にどのような影響を与えるでしょうか」というものでした。これに対する回答ですが、申し合わせたように、教育とは個人の徳の涵養が目的であるべきで物質的繁栄はそれに続くものである、というのが多かったのです。

こうした森の問いの立てかた自体に、彼がいかに教育を「公的な」ものと考えていたかがわかります。後世の人がしばしば言うのは、森は本来的に開明的で自由主義者であったのに、文部大臣となってから変わってしまったとか、それは彼の本意ではなかったなどという評価もあります。
しかし、教育上の自由主義とは「子どもを自由な判断や選択の主体として受けとめ取り扱うことができるかどうか」(365)のことであり、その意味で森はやはり教育上の国家主義者であったと言わざるを得ません。

森有礼の事例は、外からの文化や思想を真に理解する、身に着けることの難しさを物語っています。それは彼だけではなく、実は私たちを含めた今の日本人も――明治以降、先進諸国に追いつこうとし、一応は繁栄をしてきてきたものの、本当の意味での自由や民主という概念を獲得できたのかを、改めて考えるべきではないでしょうか。

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