ラスボス

姉は結婚早々に「一生仕事をしていきたいから」という理由で当時流行していたDINKS(死語)という生き方を選択して、子どもを持たなかった。兄は父のようにはなりたくないとあえて子どもを作らなかった。二人とも配偶者はひとりっ子で、私が結婚しなければこれ以上家族は増えることなく、この先甥にも姪にも会うことはできない。

ドライな上の二人を見て育った私は二十代前半で卵巣に腫瘍ができて開腹手術をしている。そして「そろそろ限界だよ」と残り少ない卵子がささやきかけている。

姉兄と子どもを持たずに私まで卵子リーチがかかり、「一家根絶やし」の役が確定しそうな勢いだ。親には申し訳ない気持ちもあるが、私に対しては今まで過干渉の嵐だったので、すっぱり諦めてくれる方が精神衛生上おたがいに気が楽だ。いつまでも心配することが親の愛情ではないし、その心配が邪魔で足かせ以外の何物でもない。

結婚できないことについて極力ふれないでくれることはありがたいけれど「親にならなきゃわからない」という押しつけは、これから先私には叶うことのない現実になっていくかもしれないから、二度と言わないでほしい。

父に孫を見せないことは私たちきょうだいの抵抗であり仕返しだ。「お父さんの洗濯物とは一緒にしないで」というありふれた否定どころではなかった。物心ついたときから一度も「将来はパパみたいな人と結婚する」なんて言ったことはないし、言いたくもなかったし、すぐにパパとも呼ばなくなった。

ぐらぐらし始めた乳歯は押さえつけられて抜かれることが常だったし、虫歯だった奥歯も容赦なく抜かれて血だらけになった。食べたことのないすじこやたらこも押さえつけられて泣きながらむりやり食べさせられた。私がいまだにいかの塩辛やらっきょうが食べられないのは食わず嫌いではなく、まずくて食べられずに吐きだして殴られた恐怖体験からだ。

機嫌が悪いときにはプロレスの技をかけられたり、短い髪がいいと勝手に決めつけられて長かった髪の毛をざくざく切られもした。幼少時代にそんなことをされている友達はいなかったし、ただおびえて耐えるだけの毎日だった。父はただ自分がおもしろいから、ストレス解消にやっていたことなのだ。

NHKのニュースがはじまるとともに父が帰宅する夜の7時は魔の時間で、「永遠に7時が来ませんように」と七夕の短冊に書きたいのをがまんして、心の中で願い続けた。

幼いときから非力なお姫様のおとぎ話が嫌いだった私は、十代の半ばから殴られたら殴り返すくらいには成長した。兄は父に殴られても殴り返そうとはせず、それが私には許せなかったし、親として尊敬できなかったし、自分の自由を侵略してくることは殴るに値すると判断したからだ。

蹴られたら蹴り返すし、頭や顔を狙われたら狙い返す。腹を狙われれば金的で応酬する。成長するにつれて互角な戦いをくりひろげた。それは端から見れば壮絶だったにちがいない。着ていたパジャマや洋服は袖が取れたり、破けて着られなくなることが多かった。制服のシャツの袖がちぎれ、顔には生傷ができたまま登校して友達を絶句させることもあった。私の心もビリビリに破れたけれど、来る日も来る日も戦い続けた。

私の学校の都合で父が一年単身赴任になるその日の朝にお前のせいだと殴られた。でも、一生のうちのその一年間だけは煩わしいことなく、静かに自分の思う通りに生活することができた。

その後も「女が浪人して大学に行く必要はない」「留学して英語ができて何になるんだ」「五流の大学から就職できるわけがない」とひたすら否定され続けた。絵がうまくて美大に行きたがっていた兄は「男が美大に行ってどうするんだ」と否定され、その後国家試験が必要な職に就きたいと告げたところ「そんなもの受かる訳がない」と全否定された。結局兄はその国家試験に受かり、今では父よりも年収が高くなったので、努力して父を見返す難関の仕返しに成功している。私たちは常に大事な局面でことごとく父の犠牲になってきた。

何かあるとすぐに「単独行動はするな」と言われ続けたせいか、今ひとりである瞬間がたまらなく愛おしいし、人生は単独行動そのものだと改めて突き詰めたい。自分に自信が持てずに安定志向が命の父が嫌う転職を繰り返したことも、大酒を食らってタバコを吸っていたこともすべて黙って生きてきた。父が嫌いなもので形成された自分はそれだけで強くなれた気がした。嘘を重ねてそれを貫くことで自由になり、生きている実感があった。そして、つかの間の平穏を手に入れることができた。

混雑した飲食店で注文したものが遅いと店員と私と母に激怒して以来、二十年以上も家族で外食はおろか外出さえもしていない。定年を迎えた後は家族サービスをすることなど毛頭になく、ただ自分のためだけに生きている。もともと親になるべく人ではないし、子どものことよりも自分のことが一番大事な人なんだと気づいてしまった。

そんな男だと見抜けずに現世を諦めて、自分の選択ミスを結婚のせいにして呪いをかけてくる母もどうかしている。父との殴り合いの時は、泣いてやめてと言いながら窓を閉めて止めようともしない母のようにはなりたくなかった。そもそも母が戦ってこなかったから、私たちに火の粉が降り注いだのだ。だから、母の分も兄の分も勝手に背負って父とつかみ合って殴り合ってきた。

最近はおたがいに体力の衰えもあり、正面きっての殴り合いはなくなった。たぶん今殴り合ったら体力のない父親を救急車送りにすることは目に見えているし、そんなくだらないことで犯罪者になるのはごめんだ。子が親の虐待ゆえに返り討ちで殺してしまう事件を見ると胸が痛くてたまらない。たまりにたまった恨みや怒りは爆発したら止められないことを自分が一番よく知っているし、それは他人が介入して収まるものでもない。

何年か前に今までされてきたことを一生忘れないし、許すこともないと告げた。父は昔のことで覚えていないし思い出せないと言い、その都合のよさに驚きあきれた。さらにお金を払うので将来自分の面倒を見てほしいと言いだしたので、即座に断った。外面だけはいいから、家族以外に面倒を見てもらう方が全員幸せだ。それなりに財を築いた姉や兄はお金は出しても直接的な面倒は見ないだろうし、私も見ない。見たくもないし、見る筋合いもない。

ずっと前に当時の彼氏と言い合いのケンカになったことで私のスイッチが入ってしまい、父とのケンカと変わらない口調で責めて彼氏を泣かせてしまい、そのとき初めて自分の知っているケンカは異常だったと気づいた。たまに出る私の気の強さは、父に負けたくない一心で培われてきたものだった。

もし仮に私がこの先奇跡的に結婚することができたとしても、孫ができたとしても父には報告したくないし、幸せそうな自分をひとつも見せたくない。私は今まで支配されてきた分を単独行動で取り戻す旅の真っ最中だ。仮にこの文章が世に出ることになっても、私は誰にもカミングアウトしない。「親をそんな風にいうなんて」と言う人は、きっと今まで幸せに過ごしきたのだろう。子どもに親にさせてもらえなかった人だし、子どもが途中で絶望して諦めて放棄するくらいの人だ。

私は自分が普通の子どもではないと悟るのと同時に、父は尋常ではない執着心と支配欲で成り立つ狂人だとはっきり認識していた。ゲームのラスボスの方が正しい悪であることは明白で、簡単に攻略できた。得体のしれない恐怖とゆがんだ一方的な愛情は私から長い間、結婚や夢を持つことを遠ざけてきた。

生まれたときから父に顔が似ていることで、グレーな生活を送っていたこないだまで自分の顔も受けいれられなかった。

父とそっくりなわがまま三昧だった父の母にも似ていると言われ続けることも私を傷つけたし、父と同じ血液型であることもアレルギー体質であることも自分を苦しめ続けてきた。自分は父と同じで自分のことしか考えられない人間じゃないかと思い悩んできた。ガラにもなくいい人でいようとしたからか、私はグレーの底なし沼によけいにはまり続けることになった。

何年か前にこの話をセラピストにしたところものすごく驚かれて、つらい体験をしてきたのに明るく笑って話せることがすごいと言われた。おそらく今の時代は自分がされてきた仕打ちは即児童相談所通報案件だろう。それでも世間に対してうちは普通の一家ですよとすっとぼけて、家族はバラバラなままきっと生活していくんだろう。

いつまでこの生活を続けるかはわからないけど、近々家を出ようとは思う。一度出た家だが、謎の体調不良のせいで戻るはめになってしまった。ちょっと遅すぎたくらいだけど、もう二度と戻ってくることはない。


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