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平将門と東京の霊的結界史

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**ザックリ千年くらい前の事、平安時代の中期、関東武士の平将門は、京都の朝廷(天皇)の圧政に反旗を翻し、関東に独立国家を築こうと戦を仕掛け、京都まで攻め入った。

世に言う「平将門の乱」である。**

**将門は戦術に長けていたが、戦場でも武士としての礼節を重んずる武将であったが、朝廷側にその隙を突かれ、志半ばで弓矢に倒れてしまう。

反逆者として首を切られ、京都でさらし首にされた将門の首は、腐る事もなく、胴と離されているのに三ヶ月も呻き続け、その首は自らの意思で江戸に飛んで行き、今の東京の大手町一丁目に落ちたという。そこに誰かが、首だけになって江戸に帰ってきた将門を弔って、小さな首塚を作った。首塚の隣にあった神田明神に祀り、将門信仰が始まった。


その後、将門の兜が戻り、江戸の地に兜神社が建ち、次は鎧神社だなんだと、半ば史実があやふやになるが、築土神社、水稲荷神社、鳥越神社などが建ち、神田明神と首塚を含めた7つの社ができた。


**江戸時代

時は流れて、関ヶ原の合戦に勝利し、天下統一を果たした三河(愛知県)の武将、徳川家康が江戸に幕府を開いた。
当時の江戸は、河が多く、水に恵まれた土地ではあったが、毎年氾濫して辺りは沼だらけの荒れ地だった。
そんな土地に幕府を開くなどと、当時、征夷大将軍の位を授かった折に家康は、朝廷に笑われたと言う。**

だが家康は、大規模な治水工事などをして、発展する土地に開拓した。そして、江戸の街を霊的な守りで固めるべく、将門の霊力を借りるべく、7つの社を、将門公が信仰していた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形に配置した。

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家康は、将門公が作ろうとしていた江戸の都をリスペクトして、江戸幕府を開いたのである。そして更に遺言を残し、自らを日本の守護神として駿河国久能山(静岡県)に墓を作り、東照宮の柱として祀らせ、江戸の鬼門の方角に当たる日光に東照宮の本山を作らせ分祀した。江戸には寛永寺と増上寺を作り、神仏一体の守りを固めた。

かくして江戸は物理的な都市計画だけでなく、霊的な防衛機能を備えた都市となり、江戸の街は栄え、日本の歴史上、最も長い平和な時代になったのである。

**明治時代

そして、江戸幕府は倒れ、明治維新が起こった。
明治政府は江戸を東京に改め、京都の朝廷を東京に移設した。
朝廷に反逆した逆賊である将門に、東京を守らせる訳には行かず、霊的な防護を見直す事となった。
将門公を朝敵である為、天皇の治世になれば、将門の霊は怨霊となってしまう。そのため、九段坂に東京招魂社をを創設。現在の靖国神社である。**

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**通常、守りの神社は鬼門に向けて鳥居を立てるが、靖国神社は東向きである。本殿から鳥居を結ぶ直線の先には、将門公を祀る神田明神がある。

つまり靖国神社は、将門公の怨霊から、皇居を守るために建てられたのである。問題は将門公と戦わせる為のその祀神。最初は幕末維新の犠牲者が合祀され、その後も戦没者などが次々と合祀された。靖国神社の鳥居は神明系だが、神明の神は祀られておらず、国のために戦って死んだ国民が、靖國神社の柱に合祀され、将門公の怨霊に対する盾として使役されているのだ。
そして明治政府は靖国神社を中心に、霊園を作り、死者を使った霊的防衛要塞を築いたのである。**

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**明治政府は靖国神社が完成すると、神田明神の将門を祀神の座から降格させ、神田明神内に将門神社を作り、そこに封印してしまった。

更に明治政府が将門の結界を弱める計画は、神社だけでなく、更に鉄の結界を用いて、北斗七星をズタズタに分断したのだ。
その結界とは、山手線である。**

長期の計画で、鉄の輪による結界の分断で、将門の力を弱めようとした。

更に中央総武線で、八王子の天皇陵から首塚までを結んで、天皇の霊力を流す鉄の結界を敷き、首塚を北斗七星の結界から独立させた。

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緑の線が山手線。赤の✖️の中心が靖國神社。

あと一区間で山手線の鉄の輪が完成するという大正12年、ついに将門公の怒りが爆発した。関東大震災である 。死者10万人を超える大災害は将門公の怨念がもたらしたと言われている。この災害により、山手線の工事は、大幅に遅れ、多くの建物が倒壊したが、将門の首塚は残った。

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そして、震災復興計画で、首塚を整地して、大蔵省の庁舎を建て直す事が決まり、大正14年に山手線が完成すると、程なく現職の大蔵大臣が体調不良で入院。3ヶ月後には死んでしまった。その後も大蔵省と工事関係者14人が不審な死を遂げた。**

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これにより大蔵省の建設計画は中止となり、首塚を建て直し、神田明神から宮司を読んで、将門の鎮魂をしたのだが、正15年。大正天皇が47歳の若さで崩御。政府は天皇を将門から守りきれなかった。

**戦後、焼け野原になった東京は、GHQにより首塚を整地して、駐車場にしようとしたが、ブルドーザーが横転し、GHQが政府関係者に説明を求めたが、将門やら祟りやら、古墳やら言っても分かって貰えなかったが「古の時代の大酋長の墓だ」と説明し、GHQを納得させた逸話が残っている。

また、築土神社は空襲で焼失し、靖国神社の鳥居の目の前に移設され、北斗七星の形は崩されてしまった。**

そして、昭和の末期、昭和59年。神田大明神の祀神に将門公を戻した。昭和天皇たっての希望であったと言われている。

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