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雨音の旋律は、対位法ですすみゆく《140字の日記+ 14》

梅雨どきの雨の昼間はかえって涼しく、あえてベランダに出る。天から降りおちる雨音、軒先から滴りおちる雨音、みどりの葉をぬらす雨音、空のとおくに渦巻く風の音。それらはしめしあわせたわけでもだれがタクトをふるわけでもないのに、空模様にあわせておおきくちいさく激しくやさしく、音楽となる。

 

《140字の日記》のマガジンもあります。
https://note.mu/beabamboo/m/m855ee9417844

 

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 ども、自然の音を聞くと耳が勝手に聞き取る情報量が多くて脳みそへの負荷が重い↓五百蔵です。

 な〜んて言いながらも、実際は自然の物音はやはり楽です。

 だってね、自然の物音は自己主張しませんですからね。

 

・◇・◇・◇・

 

 先日、五百蔵は、noteに疲れたので「アホの子」になる宣言をしました↓。

 ここに書いたとおり、

 とにかく五百蔵は、noteでお利口さんのふりをするのに疲れました……
 そして、noteが、おしゃれで、意識高い系で、前向きな感じな場であることにも疲れました……おいおい。
 だから、アホの子になります……おいおい!

 というのが「アホの子宣言」の概要ですが、それだけではありません。

 それだけでなく、noteのなかに飛び交う、「私を見て!」「私の主張こそオンリーワンだから!」という、「とにかく誰かこっち向いて!」というPRの声なき声をきくのに疲れちまったから、というのもあります。

 ……あ、いや、「あえてアホの子、というキャラで目立とうとしている」、とかうがった見方もできますけどね。

 ですけど、そういうことと似た感じのことを感じていたのって、でも、五百蔵だけじゃなかったんですね↓。

「役に立つ」ものを求めている人が多い。誰かのnoteを開くとき、斬新な価値観や、発見や、役立つ情報や、スカッとするカタルシス、自分の気持ちがスパッと言語化されていた!…など「明らかな得」がガソリンスタンドのように供給されると、期待してる人が多い気がする。

それをガンガン意識して…つくり、つながり、とどけよう!と、いつも日常の出来事を1つの軸で結びキャッチーでnote映えする結論を出そうとしてきたまさに私自身に、反抗したくなったのかもしれない、というものある。

 そうはいっても、「ガソリンスタンドのように」という表現が、スイスイさん、斬新すぎます。

  

・◇・◇・◇・

 

 自然の物音のいいところは、勝手に鳴ってるだけなので自己主張がない、というところもいいのですが、同調圧力がない、というのもここちよい。

 当たり前のことですが、それぞれの物音は自然の法則にしたがって、それぞれがただ、勝手に音をたてているだけなのです。
 とはいえ、勝手に鳴っている音なのだけど、その時の雨足だとか、風の吹きぐあいだとか、なにか共通する大きなものに支配されて動いている。

 だからなにか、当然のように音楽となってきこえてくる。

 そしてその音楽は、同調を基本とする和声法ではなく、それぞれの旋律が独自に歌い纏わりあう対位法の音楽となっているのです。

 

 対位法、という言葉は、バッハとか、古い時代のクラシック音楽を理解するために必要な概念なのですが、五百蔵はこれの理解に苦戦しました。

 でも、今ならわかります。
 今の音楽は基本的に和声法で作られているので、そもそも五百蔵は対位法の音楽をあまり知らなかったのです。
 そして、学校での合唱の訓練。とにかく和声法で合わせることを求められます。

 すなわち、私たちには、音楽教育を通じて対位法を理解する機会がない、もしくは乏しいのです。だから、対位法を理解しようとしたら、外国語を学ぶような苦労が必要なのだと思います。

 対位法とは、ではなにか。
 教科書通りの解説をくりかえし読み、つたない手でバッハを弾きながら理解したことは、

 3人の歌い手がそれぞれの好きな姿勢で、好きな方を向いて、好きなメロディーを好きなように歌っているのに、それが期せずして相和して美しいこと。

 というイメージ。
 歌い手がなんで3人なのかは、心のなかのイメージなのでわかりません。

 

 さらにうがって考えると、同調圧力の強い日本社会は和声法の世の中で、個人を尊重する対位法は、日本人にはそもそも理解しづらいのではないか。

 そして、このnoteという場にも知らぬ間に同調圧力の魔がさしていて、時々こんなふうに、ふいに自分だけのオブリガートを歌いたくなるひねくれものが出てくるのではないか。

 そして、オブリガートとオブリガートの重なり合いが、いつしか対位法の音楽となって、さまざまな個性がより豊かに響きあえるnoteになったりするのではないか。

 

・◇・◇・◇・

 

 な〜んて。
 話をふくらましすぎましたわよ。

 ずーっとむかしに「ピアノを弾くように文章を書きたい」という表現を見たことがありますが、五百蔵も、小鳥が歌うかのように文章を書きたい。

 表現というものは、どんなジャンルであれ、引っぱり出すものではなく、かってに生えてくるものだと思うからです。

 そして、深いところでひとの心をうち、最終的に歴史の淘汰に耐えるのは、かってに自然に生えてきた表現だと思っています。

 

・◇・◇・◇・

 

 さて、「音を聴き取る」ことをきわめてみたい方は、↓をどうぞ。

 自然の物音は自己主張がないだけに、耳と心をかたむけねば、するりと逃げてしまいますゆえ。

 このnoteという場でもそうですが、人生に年季が入って、語りたいことをただ自由に語っている人の記事が、最終的にはストレスなく読み続けることができるような気がします。

 でも、役に立つことを声高に語っているわけではないから、スキの数なんかは少なかったりしますけどね。

 試されているのは、実は、読む側の耳の感度の良さのようです。

いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。