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祖父や父より出世した人物・陳羣(ちんぐん)

皆さんこんにちは、ただのオタクです!
なんだかとても忙しかったり今回書いた記事の途中でデータを消してしまうという事件が発生して随分ご無沙汰になってしまいました。
どうやって書いてたかちょっと忘れてしまった気がします…。

さてさて今回は前回紹介した曹丕(そうひ)の太子時代に四友と言われ、かの「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」を立案した人物。
「陳羣(ちんぐん)」を紹介したいと思います。
ただこの人物。ドラマなど作品の中では影が薄い印象が個人的にはあります。
ドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」でも司馬懿(しばい)が曹沖(そうちゅう)の師として登用された時に、司馬懿がどれほど優れている人物か紹介。
曹丕から曹沖ではなく曹丕側にならないか打診するために司馬懿の元に派遣される場面が描かれ、記憶が確かならそこで出番が終わっていた気がします。

司馬懿の批評をする陳羣ドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」

よく引き合いに出すゲームの「真・三国無双」シリーズでもまだプレイアブル武将として起用されていません。
個人的に一番作品の主軸に登場した作品は北方謙三先生の三国志だと思います。
最初に一通りこの作品を見た時に曹丕の下では陳羣の手腕が十分に発揮されていて、曹叡(そうえい)の家臣になった途端。曹叡の我儘を何とか叶えようとする可哀想な役回りに感じました。
そういえば、九品官人法には触れずに人事を担当しているということしか触れられてなかったと思います。
それで曹叡の代には軍費や曹叡の思い付きで始まった宮殿造営や、帝自らの巡幸の費用をどうしようかと悩んでいる場面が多かったと思います。

そんな陳羣の生涯をまずは振り返りましょう。

ーー陳羣の若かりし頃ーー

陳羣は自分の祖父である陳寔(ちんしょく)にこの子は大物になると評価され、父である陳紀(ちんき)の友人、孔融(こうゆう)は陳羣の才能を殊の外評価したと言われています。
それで、同郷である辛毗(しんぴ)、杜襲(としゅう)、趙儼(ちょうげん)の4人と並べて「辛陳杜趙(しんちんとちょう)」と評されました。
因みに余談ですが、陳羣の祖父である陳寔は、「梁上の君子」を泥棒と差すようになったきっかけの人物です。
簡単に言えば梁の上に隠れてた泥棒に気づいた陳寔が一族を泥棒が隠れている部屋に集めて、善と悪について説いて最後に梁の上に隠れている泥棒を指して「誰かに間違って習ってしまった悪」と説きました。
泥棒は吃驚して陳寔の前に顔を出して土下座をして謝罪し、陳寔はこれを許して絹を差し出したと言います。
この一件をきっかけに陳寔の村では泥棒が出なくなり、「梁上の君子」は泥棒を指す言葉になったと言われています。

陳羣は当時豫洲刺史(よしゅうしし)に任命された劉備(りゅうび)に別駕(べつが)という役職で登用されました。
徐州牧(じょしゅうぼく)である陶謙(とうけん)が死後劉備に徐州を譲ると言い、劉備がそれを受ける気配を見せると陳羣は
「南に袁術(えんじゅつ)、西に呂布(りょふ)がいるこの状況では危険でございます。」と諫言したが聞き入れられず、結局劉備は袁術と交戦している最中に呂布に隙を衝かれて領地を失い、劉備は陳羣の諫言を聞き入れなかったことを後悔したと言います。
陳羣はその後県令(けんれい)等に推挙されたりしましたが、父である陳紀と共に徐州へ避難しました。

時は経って曹操が徐州の呂布に勝利し滅ぼしたときは呂布の軍中に仕官しており、曹操に会うと平伏。そのまま登用されました。
一説では同郷である荀彧(じゅんいく)に推挙された人物の1人とも言われています。

曹操が王模(おうも)と周逵(しゅうき)という人物を登用しましたが、陳羣は「道徳を汚す人物」と反対しました。
曹操は聞き入れずに登用すると2人とも咎を受けて処刑されることになり、曹操は陳羣に詫びました。
一方で、陳羣は陳嬌(ちんきょう)や、戴乾(たいけん)という人物を推挙しました。
曹操が推挙した2人とは正反対に、陳嬌は高官になるまで出世し、戴乾は呉が叛いた時の国難に殉じることになりました。
この1件で世間は陳羣の人物鑑識眼を評価することになりました。
ここを明記している物を見たことがないのですが、おそらく呉が叛いたというのは関羽(かんう)を討った「樊城(はんじょう)の戦い」で一時的に魏の下に入った呉が、「222年から223年にかけての三方面の戦い」で決定的に呉と争うことになった時期だと思われます。

曹操は度々肉刑復活を論じさせており、この議論が一番白熱したころに陳羣は意見を求められたと言われています。
その理由としては陳羣の父である陳紀が一度肉刑について論じていたことがあるからとされており、鍾繇と共に賛成意見を出しました。
結果としては王朗(おうろう)等の反対が多数であったために見送りとなりました。
この肉刑の復活がどういう意味を持つかと言うと死刑と、懲役の中間の刑が無いために死刑の判決を出される範囲が広いことが問題視されていました。
その為に四肢を痛めつけたり、犯罪者の証しとして入れ墨を施したりする肉刑の復活が論じられるようになったのです。
因みに去勢もこの肉刑に含められる考えもあって、祖父の曹騰(そうとう)が宦官であるから余計にこの議論に熱を持っていたのかもしれませんね。

曹丕が魏の太子になった時、四友と称された内の一人である陳羣は深い敬意をもって接したと言われ、顔回(がんかい)に例えて称えられたと言われています。
この顔回というのは儒教の四聖の一人と言われ、「復聖」として尊敬されています。
もっと簡単に言えば孔子(こうし)の弟子の一人です。「孔門十哲(こうもんじってつ)」と言われる10人の優れた弟子の一人でもあり、孔子に将来を嘱望されていましたが、師匠である孔子より先に早逝してしまった人物でもあります。
この顔回の話で言うと、日本の千利休がわび茶の精神から茶道具に「顔回」と銘を打った物があります。(日本史には詳しくないので曖昧ですが…)

顔回と言う茶器

ーー曹丕に仕え魏の重臣としてーー

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