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【宿題帳(自習用)】「音楽」をやり直してみる

大人のおさらい7科目目は音楽。

音楽の聴き方は、誰に言われるまでもなく全く自由です。

しかし、誰かからの影響や何らかの傾向なしに聴くこともまた不可能です。

人は、音楽を自由に聴いているようでいて、過去の経験や知識に大きな影響を受けています。

音楽が分かるとは、その音楽の属するジャンルが暗黙の前提とするルールを知ることであり、一つの文化に参入することです。

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そして、その文化の歴史を知り、価値体系とそのメカニズムと含蓄を理解し、語彙を習得することです。

早い話が、音楽も勉強しなさいとうことなのかもしれません。

たかが趣味で音楽を聴くのに勉強がいるのかよ、と不満に思う向きの方もいらっしゃいますよね。

ここで、視点を切り替えてみると、外国語を理解するには、語彙や文法の勉強が必須であり、同じことが音楽にもあてはまるのだとすると、説得力を持つのではないでしょうか。

異論は大いにあると思いますが、音楽文化を支える共同体の消滅と、商品化された音楽を心地よい響きを耳に入れるためだけに消費し、好きな音楽を自由に聴けばいいと思いながら、結局は、似たような音楽を孤独のうちに脳へ注ぎ込む人々の姿があるとの音楽評論もあったりします。

私たちは、もしかしたら、音楽の楽しみの大きな部分を失っているのではないか。

音楽をめぐって、人と人が言葉を交わすことこそが、音楽の本当の悦びをもたらすのではないか。

そのように問う場合、音楽文化の地平を超え出て、人と人との交わりの場であり、文化創造の場である社会を喪失した現代文明への再考を促すものかもしれません。

岡田暁生氏の著書「音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉」に依ると、作品のポテンシャルを深く味わうには、聴き方の癖=「型」を自覚して、感動を言語化していくことが大切だと述べていました。

「音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉」(中公新書)岡田暁生(著)

「型」が持つ共同体形成の力。

人はなぜある音楽には感動し、ある音楽には無反応なのか。

音楽の趣味とは何なのか。

人間は、理解可能なものしか理解できないのと同じで、感動にも、あらかじめ反応の下地が必要だといいます。

岡田暁生氏は、「自分の感性の受信機の中のあらかじめセットされていない周波数に対して、人はほとんど反応出来ない。

相性がぴったりの音楽との出会いとは、実はこれまで知らなかった自分との出会いかもしれないのだ。」と指摘していました。

クラシック、ロック、ジャズなど音楽ジャンル特有の「型」というものがあります。

こういう風にきたらこうだよね、というパターンは、ある程度言語化され、社会的に共有されています。

型を踏襲したり、新鮮味を与えるために敢えて離れたりする名演には聴衆の喝采が送られます。

型を感じるための受信機がセットされていないと、音楽はそもそも味わえない。

小林秀雄氏の「ひたすら聴けばわかる」という見方は嘘であることになってしまいます^^;

「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)小林秀雄(著)

聴き手だけでなく、評論家たちも型を仕事に使っています。

型との関係性を言語で説明するのが批評行為ということなんだろうね。

また、プロの演奏者たちも型を言葉にしています。

身体・運動感覚の言語化には、特徴的な現象がみられるという話が興味深いです。

プロの音楽家たちがリハーサルで使う以下のような特長的な言葉づかいが印象的ですね(^^)

「40度くらいの熱で、ヴィブラートを思い切りかけて。」

「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで。」

「おしゃべりな婆さんたちが口論している調子で。」

「ここではもっと喜びを爆発させて、ただし狩人ではなく猟犬の歓喜を。」

これは、「わざ言語」と呼ばれる類の砕けていて端的であり、感覚的で生々しいフレーズです。

身体性の語彙を芸術家たちは、共通語として活用するわけですが、これは、芸術だけでなく職人技の仕事全般にも通じる話ですね。

暗黙知を共有するための符号なのかもしれません。

それでわかる人はわかるし、わからぬ人は永遠にわからない。

聴き型を知っているかどうかで音楽の演奏の仕方、批評の仕方、味わい方のすべてが変わってくるということがよくわかります。

音楽は、言葉にできないのではなく、むしろ言葉によって作られていく面もあるのだという視点は面白く、そんな感じで、これからも好きな音楽を聴いていきたいなと感じました♪



ここで、静寂と音の関係から、記譜法、調性、和声、対位法と、まさに音楽の基礎の規則について書かれた芥川也寸志氏の著書「音楽の基礎」の最後の部分から、長いけれどメモ。

「音楽の基礎」(岩波新書)芥川也寸志(著)

「遠い過去の社会では、作曲者は同時に演奏者であり、聴衆がいたとして、それはいつでも立場を逆転しうる一体のものであった。

音楽はつねに、作り手、弾き手、聴き手の区別なく存在していた。

この三者の関係は時代とともに分化し、現代では録音技術の進歩のおかげで、ついには聴き手はいついかなるところでも、一台のオーディオセットさえあれば、自由に作曲者は演奏者を選択し、わが家の居間でも思いのままにオーケストラを聴けるようになった。

・・聴き手とは何の関係もなく、スピーカーは音楽を提供するのである。

音楽は一見人間の生活を彩っているかに見える。

しかし、もはやここには音楽の営みはない。

音楽はただ聴き流されているにすぎず、私たちとその音楽とは、何のかかわりも生まれてこない。

ちょうど、この世に何十万種類の植物や動物たちが生きていようとも、「植物」という名の植物、「動物」という名の動物、「生物」という名の生きものは実在しえないのと同じように、「音楽」という名の音楽、いわば<音楽そのもの>はつねに私たち自身の内部にしか存在しない。

それは遠い昔においても、オーディオが発達した今日においても、また将来においても変わるところはない。

私たちの内部にある音楽とは、いわばネガティブの音楽であり、作曲する、演奏するという行為は、それをポジティブな世界におきかえる作業にほかならない。

音楽を聴こうとする態度もまた、新たなネガティブの音楽世界の喚起を期待することであり、作り手→弾き手→聴き手→作り手という循環のなかにこそ音楽の営みがあるということは、遠い昔もいまも変わりがない。

積極的に聴くという行為、そして聴かないという行為は、つねに創造の世界へとつながっている。この創造的な営みこそ、あらゆる意味で音楽の基礎である。」

音楽の基本は音です。

音は、高さ(ヘルツ)、長さ(秒)、強さ(デジベル)、音色の4つの要素で規定されています。

そして、音はリズム、旋律、和声の法の上で音楽を構成しています。

この法があるから、美しい旋律や響きが得られるわけですが、実は、規定と現実のズレが音楽を奥深いものにしていることがわかります。

たとえば高さ。

音高とは、数学にもとづいて少しの狂いもなく設計されていると思っていたのですが、実際の音楽ではそうではないらしいです。

例えば、平均率音階は、オクターブを12等分したものですが、この理論値と実際のアナログな楽器は微妙に異なっているそうです。

現実の弦で得られる音響学的な平均率では、Cを基音としたC#とD♭では、C#のほうが若干高くなるそうですが、平均率では同じ音に集約しています。

完全な平均率では、ややきたないにごりがでるそうです。

天上の音楽より地上の音楽のほうが美しいといえるのかもしれませんね(^^)

次に、長さやリズム。

この基本となるメトロノームは、実際の音楽では、50~130に設定されています。

この数字は、人間の弛緩状態と緊張状態の脈拍の範囲と同じであるそうです。

肉体のリズムが、音楽を支配しているんですね(@@)

記譜法における速度記号も、杓子定規ではなく、本来は気分や表情で解釈するのが正しいそうです。

ある曲におけるアンダンテが、別の曲のモデレートよりも速い場合は、容易にありうると教えてくれます。

音色については、以下の通り、一層、曖昧であるのだとか。

「一例をあげれば、われわれがいろいろな楽器の音色を識別しているのは、じつはその楽器の鳴りはじめの部分と、音高がかわるときの変わり目の特徴に負うことが多い、ということである。

いくつかの楽器のある一定の高さでの長い音を録音し、その音の鳴りはじめの部分と鳴りおわりの部分とを切り落とし、それらをつなげて聴いてみると、切り落とす前は一聴して簡単に楽器の種類が識別できたのに対して、驚くほど識別が困難になってしまう。」

専門音楽家でさえ、鳴りはじめ(アタック)部分を消して、鳴っている持続音だけを聴かせると、それが何の楽器か、正確には当てられなかったそうです。

同じ音高でも、女性の声は低く、男性の声は高く、弱い音は高く、強い音は高く聴こえるという耳の特性もあるんですね。

気分や表情を表現するための斬新な記譜法を採用した楽譜も実在しています。

真っ黒に塗りつぶされていたり、何十ものデタラメな線が交差する不思議な楽譜に驚かされますが、人間の多様な感性を表し、演奏者に伝える方法としてはこれもありなんでしょうね。

厳密な規則に支配されて良そうな、和音や和声構造も、ヨーロッパ古典音楽が作り上げた幻想的な部分があって、それに縛られない東洋の音楽の美しさにも、もっと眼を向けるべきだと、本書の最終章で新しい可能性について言及しています。

著者は、この本で音楽の基礎理論を丁寧に教えながら、一方で、現実の音楽は、人間の自由な感性こそが、芸術としての音楽に完成させるものだというメッセージを送っています。

そして、古典理論の背後にある意外な事実。

音楽が存在するためには、まず、ある程度の静かな環境を必要とします。

例えば、鐘もしくはそれに類似する音が鳴り響いているなかで、鐘の音を素材とした音楽を演奏しても、その音は環境に同化してしまうので、音楽としては聴こえません。

ちょうど、赤い紙に赤色のクレヨンで絵を画こうとするのと同じで感覚ですね。

しかし、程度を超えた静けさ・・・真の静寂は、連続性の轟音を聴くのに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなうものであるとのこと。

日常生活のなかでは、このような体験をすることはありませんが、音響器材の実験用などに使われる無響室に閉じ込められると、音を発しても、ほとんど百パーセント壁や床や天井に吸収されてしまい、自分の声さえ充分に聴くことができなくなるので、恐怖に近い非常に強い孤独感に襲われ、それに耐えるのは苦痛であり、限度をこすと精神に異常さえきたすといいます。

また大砂漠のなかで夜を迎えると、ときには完全な静寂に支配されるために、自分がその静寂のなかに吸い込まれていくような、ちょうど、無響室に閉じ込められたときの恐怖に近い感覚に襲われるといいます。

このような真の静寂は、日常生活のなかには存在しないまったく特殊な環境ではあるのですが、この事実は、音楽における無音の意味、あるいは、しだいに弱まりつつ休止へと向う音の積極的な意味を暗示しています。

休止は、ある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮します。

私たちがふつう静寂と呼んでいるのは、したがってかすかな音響が存在する音空間を指すわけですが、このような静寂は、人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせてくれます。

音楽は、まず、このような静寂を美しいと認めるところから出発するといえるのかもしれませんね。

作曲家は、自分の書いたある旋律が気に入らないとき、ただちにそれを消し去ってしまうだろうから。

書いた音を消し去るということは、とりも直さずふたたび静寂に戻ることであり、その行為は、もとの静寂のほうがより美しいことを、みずから認めた結果にほかならない。

音楽は、静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにあるのかもしれません。

すべての音は、発せられた瞬間から、音の種類によってさまざまな経過をたどりはしても、静寂へと向う性質をもっているのだから、そう感じることは、自然なことなんだろうね(^^)

川のせせらぎや、潮騒のような連続性の音であっても、その響きは、ただちに減衰する音の集団です。

音は、終局的に静寂に克つことができない。

また、一つの交響曲を聴くとき、その演奏が完結したときに、はじめて聴き手はこの交響曲の全体像を画くことができます。

音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終わった瞬間、つまり、最初の静寂が訪れたときです。

したがって音楽作品の価値もまた、静寂の手のなかにゆだねられることになります。

現代の演奏会が多分にショー化されたからとはいえ、鑑賞者にとって決定的に重要なこの瞬間が、演奏の終了をまたない拍手や歓声などでさえぎられることが多いのは、まことに不幸な習慣といわざるをえないのかもしれません。

静寂は、これらの意味において音楽の基礎であること、そして、楽器の音色の肝心の部分とは、最初のアタックと減衰具合にあるというのは、実際、とても興味深いですね。

積極的に聴こうと向き合わない限り音楽はいくら演奏されても音楽になることができない、と^^;

そう言われても、いつも積極的に向き合うと、夜、眠れなくなっては困るので(@@)

眠れない夜も音楽と一緒に、も必要だよね♪

https://open.spotify.com/playlist/37i9dQZF1DXaJxsaI3czLL

思うに、音楽の好き嫌いは、人間の感覚の違いだろうけど、千差万別、無限大にあろう音楽を聴く楽しみを、自他問わず制限するのではなく、受容して拡張させることができたらなあと、理想を描いてしまう自分がいます(^^)

聴き方だけが個人の心の内にあり、外に実在するのは、音楽そのもの。

どんな音楽であれ、聴き方によって、それは誰かにとっての良い音楽になるのだと、そう思っています。

【おまけ】

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