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3.11

おはようございます。音楽家の河野一之です。

2011年3月11日、未曾有の大災害を引き起こした東日本大震災が起きました。未だにあの大きく揺れしなるビル、人々の声、テレビに映し出される被災地の様子、津波、あの時の感情というのは鮮明に思い出されます。

風化させないよう、あの時の自分

あの時生まれた子供たちがもう小学校四年生になっているぐらいの時が過ぎたなんて信じられませんが、あの時あの瞬間僕も確かに生きていました。

地球の歴史に比べたら僕の10年なんて瞬きにもならないぐらいなのはよくわかっていますが、それでも僕は僕でこの10年を歩んできました。

そしてそんな10年前、英国留学の準備のため下積みを行いながらとある中華屋でバイトをしていた時2011/3.11 14:46、あの地震が起きました。

よく覚えていますが、日本人というのは本当に平和ボケというか、対地震耐性がめちゃめちゃ強く、都内でさえあの揺れだった最中でも平然とラーメンを啜る人もいて、頭上では吊られているエアコンがブンブンと横揺れしている中必死で「外に出てください!」と誘導したのを覚えています。

そして大勢の人同様店の外に出てみると目の前ではビルがジェンガが崩れる直前のようにグニャグニャと揺れて曲がり、ゴジラやガメラ映画をみて育った僕にはまるで世界の終わりが始まったかのように感じました。

その後一時バイトも解散となり余震が続く中でしたがダッシュで帰宅。停電によりマンションのエレベーターが使えなく7階(だったかな)まで駆け上がり母親の安否を祈りました。

幸いなことに家族全員無事でしたが、貯めてあった浴槽のお湯が溢れていたり、食器棚から食器が飛び出し割れていたりと多少の被害があったのは覚えています。

その後電気が復活し、電波が復活するまで情報は携帯電話からしか得られません。

僕は幸運なことに当時まだあまり多くの人が使っていなかったポケットwi-fiを使っていたので地震により混み合った携帯電話の回線ではなく独自のwi-fi回線で地方に住んでいた人とも連絡が取れ安否確認は数時間のうちにとれました。

その後電気やガスが復旧しテレビが映ります。これが本当に良くなかった。

本当の恐怖は自分の頭の中にある

どこかの湾に何百人と浮いている、工場が爆発した、原発がメルトダウンしている、津波による被害は数え切れないほどですとテレビ、ウェブサイト、SNSでは容赦無く知らされます。

見なければ良いという手段もありましたがあの余震が続く中できた情報収集はそれしかありませんでした。そして人間であれば本当に残酷な映像や画像は写真や映像に収めたり公共の場にアップすることを憚れるものなのでメディアでは言葉や音声のみでその本当なのか間違いなのかわからない情報を流します。

今10年経って冷静に当時を振り返ることができるからこのように淡々と書けますが、あの時あの瞬間は次の瞬間にはこの死亡者の数にカウントされるのは自分かもしれないという緊張感があったのは覚えています。

こうして文字や音声のみで被害状況が知らされるのが実は1番の恐怖を煽るのです。

バンジージャンプも飛ぶ前が一番怖く、飛んでいる最中はもうどうしようもできないので恐怖どころではありません。

つまりすでに大災害により甚大に被害を浴びている方々は論外ですが、メディアによって文字や音声によって自分自身の頭の中にイメージさせられる恐怖の化身が一番恐怖をもたらします。

つまり「この後〇〇になったらどうしよう」というこれまで生きてきて見聞きしたきた恐怖情報が脳内でこの先実際に起きたらという恐怖感に苛まれるのです。

これが当時情報をなんとか得ようとみていたSNSやテレビなどから引き起こされ不安感を増幅させられました。

メディアはメディアであの時あの瞬間今できるベストを尽くそうと頑張っていらっしゃったでしょうからそれを否定するつもりまありません。ただの僕の感想です。

その後の1週間

震災の翌日、予定されていた金5での業務は朝まで先方の出方を伺っていましたがどうしても決行したいという申し出のもと出動。演奏の合間の司会も昨日の今日なので何を話せば良いかとても悩んだのを覚えています。

そして電車も帰宅困難者がようやく動きだした下り電車に殺到しており、駅も騒然としていました。僕は演奏に向かうため上り電車だったためそこまでの混雑にはあいませんでしたしほぼ始発で向かったので大丈夫でした。

今覚えているのは帰りの電車で見た夕日が美しかったのを覚えています。

その後とにかく東日本はパニック状態でしたが幸いにも国民全員の努力、そして海外からの多大なるご支援のおかげで暴動なども起こることなく淡々と復興作業が続きました。

僕が住んでいた都内では計画停電が行われ、幸いにも住んでいた場所が計画停電の地区同士の境目にあったので、うちが計画停電対象地意識になれば隣の地区であった祖母の家に行ったり祖母の家のそばの銭湯に行ったりし安定した生活を送ることができました。

しかし連日報道されるニュースでは絶望的な内容ばかりです。

余震から来る精神の不安定さから眠りの浅い日々が続き、昼間起きていても徹夜明けのような身体状態も続いていました。

そんな震災直後の自分の記憶です。

最後に

僕たち日本人は本当に素晴らしい国に素晴らしい国民同士で住んでいるため時たまこの平和な世の中は一生このまま何も変わらずに続いていくと勘違いしてします。

それにこしたことはありませんが、たった30数年生きてきた僕でさえこれまで何度も

目の前で突然世界が豹変する

目に会ってきました。

その世界は昨日までの当たり前が何一つ通用しない世界です。

無いに越したことはありませんが、僕がこれまで生きてきた世界では実在しました。そしてこれから起きないとは誰も言い切れません。

このこれから起こる”かも”しれない不安や恐怖に備え続けなさい!となんていうつもりはありませんが(した方がいいでしょうが)、僕が提唱するのは

いつ死んでも良いように、今を大事に生きてみたらどうでしょうか

ということです。

誰かにありがとうと言い忘れていないか、誰かにごめんねを言い忘れていないか、自分自身が後悔のない選択ができているか

今この瞬間死んでも悔いはないような日々を歩んでいるか

そうしたものならいつでもどこでもできるはずです。

僕はそうしています。被災者の方々の心の平安が100%震災前に戻るのは難しいでしょうが、少しでも気持ちが楽になるよう祈っています。

今日3.11 14:46黙祷を捧げます。

Thank you

Kazz

PS:
2020年7月日本、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドのバンズマンで行ったコロナ禍で楽しみを奪われた小中高校生や金管バンドに携わる方々を救うために開催したJapan United Brass Project

主催者と運営で考えていたこの企画のもう一つの目的は、東日本大震災が発生したあの日から10年の今日この日、2021/3.11のためでした。
恐らく永遠に0になることはない被災者の方々の苦しみに少しでも寄り添えたら幸いです。改めましてご賛同いただいたみなさま誠にありがとうございました。


サポートして頂いた支援は全て金管楽器や金管バンドの奏法の研究、音楽を使ったエンターテイメントの発展に使用させていただきます。