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元康を諭したのはなぜ登譽上人ではなく榊原康政だったのか?史実との違いにこそ作家性が宿る。第2回「兎と狼」深掘り【どうする家康】

NHK大河ドラマ『どうする家康』第2回の深掘り感想です。
前回の感想はこちら↓

(※以下、ネタバレ注意)

ツッコミを入れたくなるのもわかるが、史実無視描写にこそ作家性が宿るのでは?

昨夜の放送から一夜明けて、ネットではまたまた話題になってる『どうする家康』ですけど。また史実至上主義勢が「なんで桶狭間の時点で信長がマント羽織ってるんだ」とか「なんで火縄銃が連射できるんだ」といったところが突っ込まれているようですね。

僕は2回見たのにまったく気にならなかったんですけど……ただ、そうか。言われてみれば。2020年の大河『麒麟がくる』では、「信長が桶狭間で甲冑着ているシーン」とか、「光秀が鉄砲の扱い方についていろいろ指南受けてるシーン」とか細かく描かれてたので、そこから照らし合わせてみると「おかしいじゃねぇか」って感想が出てくるのはわかります。

僕は先日、こうした史実至上主義者の方に対して苦言を呈するような記事を書きまして、嬉しいことにいまだにたびたび読んでもらえて感想などいただけるんですけど。

ここでも書いていますが、別に「史実と違うことに対してツッコミを入れる」ということ自体がダメだと言ってるわけじゃないんですね。史実と違うことに対して「ここ、ちげーだろwwww」って言う楽しみがあるのも知ってますし。僕自身、第1回の乗馬のシーンは「CGだCGだ」と何度も突っ込んでます(笑)。

ただ、それでもやっぱり「ここは面白かった、感動した」と楽しめる部分の方が多いからこのドラマを繰り返し見てしまうのであって、多少は批判も漏れるけど、それ以上に「ここ良かったよね!」と熱く語ってしまいたくなるのです。

それに、例えば今回の「信長が桶狭間でマント羽織る」「松平昌久が部下に火縄銃を連射させる」という史実無視のポイントも、『どうする家康』に関して言えば、むしろ功を奏しているように思えます。

岡田准一扮する織田信長が漆黒のマントを羽織って「竹千代ーーーー!」と叫んでた方が圧倒的絶望感が出ますし。まるで地獄からの使者のようでした。

そして松平昌久軍による銃の連射。あれもひょっとしたら元康(家康)の心象風景とも呼ぶべきものでしょうか。実際には1発1発弾を込め直しながら撃つほかないんですけど、あの絶望的な状況で仲間が次々に撃たれていく状況に追い込まれたら、「弾を込めている様子」みたいなのはまったく視界に入る余地もない。本当に「連射攻撃を食らっているかのような」映像として、元康の目には映ったのかもと考えられます。

要は、明らかな史実の無視があるとすれば、「その史実を無視してでも、製作陣が描きたかったものって何なんだろう」という点に着目できたらいいなと僕は思うのです。

「作ったやつらがバカだから」ではなく、今回はNHKの大河ドラマとして、時代考証の先生だってしっかり監修に当たっているハズですから。そうした監修者の目があるにも関わらず、「それでも描きたかった史実無視の描写」にこそ、作家性が宿るのではないでしょうか。

大樹寺で元康を諭したのが榊原康政だった件。なぜ登譽上人ではなかったのか?

そして今回、明らかに「意図的に史実を無視したポイント」として描かれた点がありました。大樹寺で命を絶とうとしていた元康に「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」の言葉の真意を教えたのが、登譽上人ではなく、榊原康政という若者だった箇所です。

だってあれも、紀行を見ると「先祖の墓の前で自害を試みた家康は、登譽上人の説得により思いとどまったと伝わっています」と松重豊さんのナレーションで語られてますからね……「え、ドラマのシーンと違うじゃん」と、あえて誰でも気づくような描き方になっていました。

あのシーン、別に登譽上人が元康に諭したとしても、流れとして不自然になることはありません。むしろ「さすが登譽上人の言葉、ありがたいなあ」と往年の歴史ファンだったら沁み入るシーンになっていたことでしょう。

ただ今作の大河の主人公が登譽上人みたいな知らん爺様の説法なんぞに心を改めたとしたら、物語のテーマ的にブレてくるところもあるのでは?と感じてしまう部分もあります。と言うのも今回の元康、儒教的な「目上の者を敬え」という認識が、やや欠けているような気がするのです。

第1回から家臣団の1人として鳥居忠吉という歯の欠けた老人が出てきますが、元康、この老人に対して思慮に欠けた言葉を何度も投げかけています。丸根砦を攻める前には「ワシらは捨て駒じゃ」と言う忠吉に向かって「黙らんかジジイ!」と叫びますし。今川義元が討ち死にしたと言う報告を彼から受けても「お前は何を言うておるのかわからん!」という文句を言います。そして今回の第2回でも、家臣達に向かって「ワガママなのはお前たちだろ!なぜ言うことを聞かん⁉︎」

さすがに忠吉が銃撃を食らって大怪我をすれば、元康も心配そうな様子も見せますが、少なくとも「目上だから敬う」という様子は一切見せてきませんでした。鳥居忠吉だけではありません。基本的に年上ばかりの家臣団に囲まれていながら、割と元康、ワガママが多い気がするんですよね。家臣に対する敬意が希薄と言いますか、そもそも敬意があるなら第1回でいきなり1人で逃げ出したりもしなかったでしょうし。

年上を敬うどころか、裏切られ続けてきた主人公。年下にこそ認められたい?

なんでここまで目上の者に対する敬意に欠けているのか。過去回想から考えてみれば元康、これまで目上の者には裏切られ続けてきたんですよね。幼少期に両親の元を離れて今川へ送られようとする際には、父・松平広忠が信頼する戸田宗光に裏切られて、一度は織田に送られてしまいますし。さらに織田の元ではまさか、父にまで見放されて、危うく織田信秀から殺されてしまうところでした。

そんな中で、目上の者に対する敬意が希薄になっていったのではということは容易に想像できます。元康にとって唯一尊敬できる人と言えば、太守様であり、実の父子のように丁重に扱ってくれた今川義元のみ。それ以外の大人はすべて敵か、家臣団のように「面倒臭いワガママ連中」という意識しか持っていなかったのではないでしょうか。

他方で、自分より年下である本多忠勝に対してはやや違った反応をしています。本多忠勝が「主君とは認めん!」などと言うやや特殊な存在であるのもありますが、第2回では元康、「初陣の小僧の癖にどこまでも偉そうなやつじゃ。なぜそのような物言いをする」「今度はわしが、お前たちを守るために死ぬんじゃ。少しは主君として認めたらどうじゃ」というようなことまで言い出しました。大人の連中には殿と慕われて、むしろ嫌そうにまでしていたのに、年下の忠勝には慕われたいという気持ちが表れているのです。

そこから考えて、「そうか今回の大河の家康は、年功序列的な考えで人を慕ったりしないし、むしろ自分より若い者ほど心を許し、意見を受け入れやすいのではないか」と。そういう人物像として描かれているのではないかと感じました。これこそ、歴代の大河の主人公とは異なる点ですね。

年下キャラこそ重要に?後半は往年の大河とはまったく違う描き方になっていくのでは

いずれにしても、家康は大器晩成。物語も後半になってくると、家康より年上のキャラクターの方が少なくなってくるでしょう。それでも『どうする家康』というテーマである以上、最後の最後まで「どうする、どうする」が続いていくはずです。

その際に、「年下の者の言うことなど聞かん、すべてわしが決める!」と横暴な姿を見せるばかりになっていくとしたら、確かにそれはそれで去年の『鎌倉殿の13人』の北条義時をも彷彿とさせるような描き方にはなっていくと思いますが、「どうする」というテーマ性からは外れてしまうのではと思います。

……と、まだ2話目の時点でここまで分析するとなると「時期尚早だろ」と言われてしまうかもしれませんが笑。また「本多忠勝の内面」を分析した記事みたいに見当違いなこと書いてる可能性もありますからね……ただ、そうなったらそうなったで楽しかったりもするんですけれど。

(↓ことごとく外しましたw)

少なくとも、今後は本田忠勝榊原康政など、元康より年下のキャラクターの存在こそ、元康の次の行動を決める上でのキーとなってきそうな気がするのです。

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