直木賞受賞作「星落ちて、なお」読みました。 鬼才、河鍋暁斎を父に持つ娘、とよ(暁翠)の物語。 生きることの全てを画に捧げた男、河鍋暁斎。その背中を追う兄、周三郎。 なりふり構わず、画業を全うすることだけのために、家族や知人全てを巻き込んでいくことのできた父や兄。 とよは、描くことが、自分の全てと自覚しつつも、父や兄のように振る舞うことのできない自分に気後れを感じている。 明治から大正にかけてのお話なんで、当時の女性が置かれた地位や役割にあって、画家として独り立ちすることには
最近は、だいたい4時半に起きる。起きるというか、勝手に目が開くという感覚だ。 すぐさま起き上がり、スマホにイヤホンをつないで耳に入れる。 ラジオアプリを立ち上げて、好きな番組にチューニング。 スニーカーを履いて、出発。 朝の住宅街に繰り出す。 新聞配達の自転車が何台か走っている。 他にも歩いている人が何名かいる。 高齢の方が多く、その中では圧倒的に若手である。 朝歩き界の新星と呼ばれているとか、いないとか。 毎日、ほぼ同じルートを歩く。 べつに好きな道というわけではない。
私はケチである。 もう、本当にケチなのです。 以下、自分がケチだなと強く感じるときのエピソードを挙げてみたい。 毎日、お湯をためてお風呂に入ります。 家族が多いので、シャワーよりも節約できる。 また、残り湯を洗濯に流用できる。 ケチの割りに、これは贅沢なんですが、入浴剤を入れます。 しかし、ここにケチのこだわりが顔を出します。 みなさん、お風呂に入る前に、かけ湯をしますよね。 この時、絶対、かけ湯をしてから入浴剤を入れるのです。 ほら、かけ湯って、言うたらお湯を捨てるわけで
シン・エヴァンゲリオンを観て、ある友だちを思いだした。 仮にA君としておく。 A君とは、大学時代バイトをしていたファミリーレストランで知り合った。 90年代の半ばだから、もう25年くらい前になる。 そうだ、エヴァンゲリオンのテレビ版が始まったころのことだ。 A君も僕も、大学の4回生だった。 同じく厨房配属で、大学こそ違うが同回生ということもあって、暑い厨房の中、共に汗流しながら、安い時給に愚痴たらしながら、それでも楽しく働いていた。 バイト以外で会うことはなかったが、バイ
自分のクルマを手に入れたときは、万能の力を得たような気さえした。 それまで乗っていたバイクと違って、こけるという緊張感にさらされることがない。 雨風にも負けない。 さらにすごいのは、眠くなったら、すぐにシートを倒して休憩できるということ。 移動に加えて宿泊の機能まで備えていることは画期的だった。 思い立って走り出せば道が続く限りどこまでも行ける。 その可能性が僕を興奮させた。 そうして、生活にクルマが浸透してくると自分の部屋の延長のように思えてきて、飾りたくなってくる。 僕
会話の流れが大学時代のことに及ぶと、 「京都の大学でした。と言っても伏見区ですけど」 などと答えてしまう。 伏見区出身や在住の方には、謝りたい。 べつに、伏見区での大学生活で、誰かに意地悪されたわけでもなく、非常に快適に十代後半から二十代前半の日々を楽しませていただきました。むしろ感謝しております。 ただ、「学生の街、京都におけるキラメキ☆キャンパスライフ」みたいなものとは、縁の無い毎日だったもので、その辺りへの気後れから、つい「と言っても伏見区ですけど」と付け加えてしまう
体を一生懸命きたえていた時期がある。 いろいろ、トレーニングをしたが、なかなかうまくいかず、たまたま知り合ったボディビルをやっている人に聞くと、たまごをたくさん食べるといいということだった。 僕なんて日に1パックくらい食べるよ、とその人は言う。 へえ、そうなのかと感心して聞いていた。 そのころ、僕は深夜営業のレストランで調理のバイトをしていた。 日によっては、すごく忙しい日もあるが、ヒマな時はヒマで、厨房のそうじや皿洗いをすることになっていた。 その日はわりとヒマで、そうじ
「電話、電気、ガス、水道」 これは、僕が一人暮らしをする中で知った大切な知識なのです。 公共料金を滞納した際、止まっていく順番、それが「電話、電気、ガス、水道」なのです。 今は違うのかもしれませんが、90年代の半ば頃は、この順番で止められていきました。 全て、自分で経験したことなので間違いありません。 電話、電気辺りまでは、簡単で、コンビニで振り込めば、その瞬間に復旧しました。 笑っていられるレベルです。 そこを越えて、ガス、水道に至ると、大変で。 まず生活自体がめちゃめち
ブームというのは、突然にやってくる。ありがちな言葉で言えば、雨後の筍みたいに。 そして、僕らの街にもブームがやってきた。 そう「もつ鍋ブーム」だ。 1992年当時、もつ鍋はブームだった。 なんだか、書いていて嘘みたい。 だけど、本当に街は、もつ鍋一色だった。 バブルが崩壊し、安くて美味しくてヘルシーな物へ。 そんなふうに雑誌では分析していた。 そして僕は、そんなブームの渦中の一軒、「もつ鍋博多屋」で、バイトをはじめた。 繁華街のビルの地下一階、壁は鏡張りになっていて、初め
一人暮らしを始めたのは、18の時だ。 最初の部屋は、間借りみたいな形だった。2階の廊下のつきあたり。畳が3畳、板張りが1.5畳という変型四畳半。風呂無し、トイレ、流し共同。窓をあけると2m先には電車が走っているのが見えた。 わりと最低ランクの部屋だったとは思う。その辺りを配慮してだろう家賃は2万だった。そのころ、よく思っていたのは、尾崎豊のI LOVE YOUのカラオケ映像にぴったりだな、ということ。この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたい、本当にそんな部屋だった。 この部屋
父親が野菜を育てている畑まで一緒に歩くのが、週末ごとの日課になっている。 父は定年退職後、野菜作りを自分のライフワークとして決めて取り組んでいる。 昨年は母の入院、退院、死去、葬式と、全く予想もしなかったイベントが目白押しで、目の回る勢いだったが、その暴風雨を通り過ぎた今、父親と凪のような心境を共有していて、親子という関係はもちろんだけど、バディというかな、戦友というかな、そういう心境で畑までの道のりを共に歩いている。 そんな二人にとって、ちょっと特別な道のりなのだが、この道
今の小学生たちは、ボランティアのスクールガードさんや保護者に見守られながら登下校していますが、僕が小学生だったころは、物騒な事件も少なかったからか、単純に子どもが多かったからか、登下校などは勝手に集まって、勝手に行ったり帰ったりするのが普通でした。 その朝も、僕らは集まって学校に向かっていました。通学途中で、大きな幹線道路を渡ります。その信号は、なかなか青にならないので、そこにあるジュースの自動販売機の下をのぞき込んで小銭を探したり、取り出し口に手を突っ込んで、おつりが残っ