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「花束みたいな恋をした」×「星落ちて、なお」感想

直木賞受賞作「星落ちて、なお」読みました。
鬼才、河鍋暁斎を父に持つ娘、とよ(暁翠)の物語。
生きることの全てを画に捧げた男、河鍋暁斎。その背中を追う兄、周三郎。
なりふり構わず、画業を全うすることだけのために、家族や知人全てを巻き込んでいくことのできた父や兄。
とよは、描くことが、自分の全てと自覚しつつも、父や兄のように振る舞うことのできない自分に気後れを感じている。

明治から大正にかけてのお話なんで、当時の女性が置かれた地位や役割にあって、画家として独り立ちすることには、大変な困難がある中で。
絵筆一本で生活を切り開いていく、とよの力強さに胸を打たれるわけです。
しかし、一方で、創造とは反社会性を必要とするものである。
なにか、そういう思い込みに絡めとられた、とよの生き様には違和感も覚えました。

飲む打つ買うは、芸の肥やし。
世間のルールに従うことは、創造から背を向けること。
そういう反社会性が、この物語の中では常識化しているように思われたのでした。

で、それに異論を唱えるつもりもないのです。
そういう側面もあるとも思います。
二十代で死んだロックスターの言葉に胸を熱くしながら五十前まで来てますんでね。

僕は反社会性を伴った表現や創造を否定しているわけではないです。
そうして残された偉大な作品を愛しています。
同時代に生きていたとしても、絶対に友だちになれなかったであろうゴッホ。
付き合った女性たちを不幸にし続けたピカソ。

ただ、反社会性が創造の必然かと言われれば、それは違うとも強く思うわけです。
平熱のままに、他者の心を揺さぶる熱量のある創造を行える人だっている。
いや、むしろ、そっちの方が、推奨されるべきでしょう。どちらかと言えば。

ここから、「花束みたいな恋をした」の話になるんですけど、ネタバレ全開でいきます。

イラストレーターとして花開くことを夢見た麦くんですが、制作の対価としての原稿料で生活を築くことは難しく、ブラックっぽい企業への就職をします。

そして、彼は創作を捨てて、企業のルールに没入していくのです。
創作=反社会。彼の中にも、こういう刷り込みがあったんだと思うんです。
で、僕は社会の一員になったんだから、創作は、なしねーとなったんだと思うんです。
実際、時間的な余裕もなかったんだとは思いますけど。

でもね。
パズドラをやる時間はあったんだよ。
だったら、描いたら良かったんだよ。
僕なら、描いただろうと思う。
ブラックな仕事の渦中にいる自分を描いてもいいだろうし。
全く真逆のファンタジーを描いてもいいだろうし。

絵って、言葉で切り取られてしまった物事の間をつなぐ作業だとも思うのです。
リンゴの赤、ポストの赤、夕焼けの赤。
そうした赤の違いを表現するために絵はあるのだと思うのです。
反社会性と社会性の間のグラデーション。
もし、創作と反社会性が切り離せないものだったとしても、絵を描く人だからこそ、麦くんには、どこかに落としどころを見つけて欲しかった。
そういえば、劇中、描かれる麦くんのイラストは、白と黒しか使われていない、コントラストがはっきりした絵ばかりだったな。

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