見出し画像

メビウスの輪

ぼくはぼくを、純真の持ち主だと思う。ぼくはぼくを、泥にまみれた極悪な考えの持ち主だと思う。そのどちらもほんとうに思うことがあるさ。

感情が沸騰して、爆発しそうになる。しょっちゅうはないけど、そんなことがぼくの平凡な毎日の中にも、たまにある。でもそんなときでも、ぼくは感情を爆発させて、その原因に関わりの深い対象を実際に攻撃して破壊するようなことはない。少なくとも、これまではそうして生きてこられた。

すごくイラっとするようなことがあると、その対象となる相手を、言葉で完膚なきまでにねじ伏せる場面だとか、腕力で滅却してしまうような場面を想像する。いつもじゃないけど、そういう想像をすることがある。でも、その想像の場面を実現させることはない。どんなに怒りが募っても、相手の胸ぐらをつかんでぶん殴るようなことは、これまでぼくはしてこなかったし、これからもそういう破壊や暴力、攻撃の場面を想像することはあっても、それを現実に起こすことはないと思う。

非道いとしかいいようがないおこないをイマジネーションするぼくは、実際に極悪人だろうか? その作り手が暴力を賛美しているかのように解釈されかねない映画や漫画を制作したら、その制作者は悪か? ぼくにはそうは思えない。だって、仮に人殺しの場面を作品に描いたとしても、その作者が実際に人を殺した訳ではないないのだから。

そうした作品を鑑賞した人がそれに感化されて実際に殺人をおこなったら、その原因をつくったのは作品の作者だということになるか? つまるところ、殺人を起こさせたのは作者であるということになるか? これは、断じてそうでないとぼくは思う。だって、作者のおこないは「制作」であるとしか言いようがない。「殺人」をおこなったのは、「犯人」の仕業以外の何ものでもない。それを否定するとなれば、作品が、だれかに殺人を起こさせるきっかけとなりうることを想定したかどうかで、作者の有罪・無罪が分かれるのを認めることになってしまう。

作者はそれを美しいと思って描いた。その作品を鑑賞した人は、醜い光景だととらえた。そういうことは現実にいくらでも起こりうる。どのように受け取られるかを想像する、そのセンスはきっと、あるほどに良いには違いない。

じぶんは美しいと思うことを、醜いと感じる人がいるかもしれないことを想定するセンスは、磨ける。そのための努力は、作者も鑑賞者も、いずれもがすべきことだと思う。

じぶんが手を下さなくても、殺人の指示は犯罪になる。ぼくは刑法の専門家ではないので根拠となる法が第何条の何項で、とかいう説明はできないけれど、これは、やってはいけないことだと思う。

ぼくは、ぼくがやってはいけないと思うことを、ぼくが作ったものを鑑賞した人がぼくの作品に感化されてやってしまうような描写をするつもりはない。ただ、それは、いまのぼくがそのつもりでいるだけであって、鑑賞した人が実際に作品をどう受け取るかの想像をしきれていないだけかもしれない。

厳密には、その想像を完璧に行き届かせることは、どんな表現者にも不可能だと思う。だから、ぼくや、ぼくでないあなたやそれ以外の人も、何かを表現しつづけるし、つくり、発しつづけるのだと思う。

それで、結局は、その人が実際にしたことを問うべきだと思うのだ。「しなかったこと」や「させたこと」を問うのは、「実際にしたこと」をすべてひと通り問うたあとで、というのが然るべき順番だと思う。

そして、「したこと」の「問い終わり」を見極めるのはむずかしい。ひょっとしたら、というか、確信といってもいいが、その終わりは未定であって、終わったときが終わりです、としか言いようがない。

お読みいただき、ありがとうございました。


#日記 #エッセイ #思想 #罪 #犯罪 #社会 #表現 #想像 #創作 #美醜 #審判

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?