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【読切短編:文字の風景⑤】蝉時雨

朝の産声間もない空に、紫煙がくゆって消えていく。

朝7時。私は、ベランダに出て煙草を吸っている。空は冴えない色をしていて、吹く風はじき来る夏を感じさせない涼しさだ。階下からはトラックの走行音が、街の目覚ましアラームのように響く。

愛用のアメリカンスピリットの1mgからのぼる煙は、空と同じ冴えない色をしている。煙草から抜けだして間もない内は、アール・ヌーヴォーのような曲線を描きながらその姿を主張するが、瞬きするうちに形は移り変わり、そして消えていく。見るともなくその姿を目で追う数分間が私の日課だ。

地響きのようなトラックの音に紛れ、別の音が聞こえる。黒いゴムがアスファルトの上をこすりつける音より有機的で、ノイズの混じった高い音。ディストーションをかけたギターの音を、少しだけ思い出す。蝉の声を聴いたのは今年初めてだった。

地上に出てきて何日目だろうか。

蝉は7年間を地中で過ごし、地上に出てきて7日間で命絶えてしまうという。その儚さはあまりにも有名だ。

蝉は本当に、私たちが可哀想だと思うような存在なのだろうか。

彼らが人生のほとんどの時間を地中で過ごす姿は、大半の人間にも重なって見えないか。夢を見て、都会で下積みを重ねる人。いつか振り向いてもらえると、たった一人を愛し続ける人。それでなくとも、私たちが若さを享受できる時間のいかに短いことか。人生100年、誰の、何物の制約も受けず、自由を謳歌できる瞬間なんてそうそう巡ってこない。

その7日間が、彼らにとってどんな時間なのかをはかり知ることは出来ない。でも、遺伝子に刻まれた記憶を頼りに仲間と出会い、恋に落ちる。それは全てから解放された、幸せに満ちた時間なのかもしれない。

私たちが蝉になったら、何日間地上で過ごすことが出来るだろう。

再び煙草に口を付けると、すでにロゴの片翼が消えかかっていた。アルミ製の灰皿に吸殻を押し付け、蝉の声を背にベランダの戸を開けた。

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