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【旅エッセイ100】最後の旅エッセイ

ぼんやりしている時、昔の嫌なことばかり思い出してしまう。どうしてあの時あんなことが起きたんだろうとか。どうしてあの時そんなことを言ってしまったんだろう、とか。

別に考えなくて良いことなのに、つい頭をよぎって離れない。そうすると腹が立ったり悲しくなったり、心が乱れて落ち着かない。

ところが、旅エッセイを書いている時は違う。

写真を見返しながら、思い出の中を旅する。
あんな場所へ行ったな。こんなことをしたな。
日常の中で嫌な想いも苦労もたくさんあったはずなのに、noteに何を書こうと考えていると、浮かんで来るのは旅の楽しい思い出ばかり。

だから、今日まで書き続けて楽しかった。
おかげでこうして100回も連続で書けた。

10回くらいまで書いた段階で、もしこの旅エッセイが100回まで続けられたら書くのをやめようと決めていた。
「その時はタイトルを最後の旅エッセイにしようかな」なんて、続けられるかどうかもわからないのに考えていた。

北は北海道から南は沖縄まで、東北、関東、中部に近畿、中国地方はほとんど行ったことないけれど、九州に四国も舞台に、旅の思い出をこれでもかと書いた。

もう行ったことのある場所はほとんど書き尽くした気がする。新しい旅をしていない以上、どこかで書けなくなるだろうと思ってた。100というのは数字のキリが良い。

今日まで書いて来て思うのは、やっぱり何かを書くというのは最高に楽しい。

小説でもエッセイでも詩でも日記でも、何かを書く人には色々な理由があるのだと思う。
私の場合は書くのが好きで、それが小説という形ではなくなっても書くのをやめられなかった。

すっかり意気消沈してプロの作家を目指す夢から背を向けたけれど、それでも「書く」という行為は止まらなかった。どうして書き続けるのか考えてみるけどよくわからない。ただ書いていたい、書きたいという欲求に従って書いている。

たくさんの人に読んでもらって人気者になりたいワケじゃない。誰かの胸を打つ文章を書いてるワケでもない。何十万部、何百万部と売れるような本を世に送り出して直木賞や芥川賞を獲りたいワケでもない。

じゃあなんで書いているのか、ずっと考えている。

文章を書くというのは本来「手段」なのだろうけど、私の場合は書くことが「目的」になっている。

怠け者で面倒くさがりで、140文字のSNSですら長続きしないのに、誰にも読まれない手帳の片隅に文章を書き続けていた。旅エッセイもこうして100日、書き続けられた。

noteではずっと「旅」をテーマにして書いていたつもりだったけれど、結局は振り返りながら自分の「人生」について書いていた。100回書き続けたこれは「旅エッセイ」と言うよりは「旅と人生のエッセイ」なのだと思う。

たぶん、もし今日ここで旅エッセイを書くのをやめても書き続けることは止められない。私の人生からどんな形であれ「書く」という行為を取り除けない。

なので、書き続ける。

私が書いているのが「旅」ではなく振り返ってきた「人生」だと気付いたから「旅エッセイ」から「旅と人生」とテーマを改めて。

人を感動させるような感性も力強いメッセージもないけれど、誰かが暇つぶしくらいの軽い気持ちで読んで、「こいつまだ書いてるんだな」くらいに思ってくれる読んでくれる文章でいいから、書き続けられたらいいなぁと思う。

今日の写真は、旅先でもどこでもない、家のそばで撮った夕陽。

どこか遠くに行く必要はない、美しいものはすぐ目の前にもあると気付かせてくれた大切な一枚。

いつも読んでくれる皆さん、本当にありがとうございます。

どこまで書き続けられるかわからないですか、これからもエッセイを続けようと思いますので、また読んで貰えたら嬉しいです。


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