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読んでいくうちに表紙の印象がガラッと変わる③【三浦しをん「ののはな通信」】

三章。ついに「ののはな通信」は手紙からメールへと変わった。

二章はちょうど昭和が終わるの日のはなの手紙で締めくくられ、三章は2010年、ののからのメールによって始まる。

ののが自分の職場でたまたま再会した高校時代の友人からはなの連絡先を聞き出し、メールを送ったのだ。

そのとき二人ともすでに40歳を過ぎていた。二人が連絡を取らなくなってから、約20年の時間が空いていたのだ。


1.手紙からメールへと変わる「ののはな通信」

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ののはライターをしながら為五郎という名前の猫と暮らしをしていた。

はなは二章で再会した幼馴染と結婚して外交官の妻となり、アフリカのゾンダという国で暮らす駐在妻となっていた。


20年間知り得なかった互いのあらゆることが、国を越えてメールで送り合われる。

今までの手紙一通の文量もかなり多かったが、20年間の溜まっていたことが吹き出したかのようにメール一通の文量はさらに長い。

手紙だったらこの量の情報交換はできなかったことだろう。


そう考えるとインターネットやメールの誕生や発達はやはりすごい。

文字を打つ時間、メッセージが届けられる時間、どちらにおいても手紙とは比べ物にならない速さだ。

書いたことを一瞬でやりとりできるような、そんな方法が編み出されないかな。

まさに高校生のときにはなが言っていたことが実現したのだ。


そしてはなはこんなことを言っている。

ちょっとボタンに触れただけで、あっさり送信されてしまってるんだもの。ほんとにメールって困る。これが手紙だったら、郵便ポストのそばに陣取って回収車を持ってでも、投函したものを取り返すことができたのにね。

わかる。「あ、そんなこと送るつもりじゃなかったのに!」という情報送信の速さ故に起こってしまうことだ。

私は特にLINEスタンプの押し間違いで似たようなことが起きる。

LINE上で友人の相談に乗って「大変だよね……」と字面では共感しているのに、その後に“ハッピー!”のような空気を読めないスタンプを押してしまい、焦って謝ったことが何度もある。笑

ののはメールなどの発達についてこんなことに言っている。

郵便で手紙を送っていたのがファックスになり、いまやメールだなんて。江戸時代にどれほど長生きしたところで、早馬で送っていた手紙がメールへと変化するさまなど目撃できなかった。二十年のあいだに、技術だけは三百年ぐらい進化した感じですね。

そうだよなあ。自分が生きているときにその変遷を体感しながら恩恵を受けられるって、本当に奇跡的なことだと思う。

しかしいつしか現状で満足できなくなりさらなる便利さを求めたりするのだから、人間って本当貪欲というか、飽くなき探究心というか……。


2.悦子さんの「死」

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ののと暮らしていた悦子さん。

悦子さんは癌になり身体がだんだんと蝕まれていくのだが、ののは自分のことでいっぱいでそのことに気がつかない。

悦子さんは自分の最期をののに看取られないようにしたかったのか(真相はわからない)、「旅行にいく」と言って突然去りそのままののと再会せずにこの世を去ってしまう。

死に際を悟られないようにするなんてまるで猫みたいで、その後ののが為五郎と出会って一緒に暮らすようになったことから、どこか悦子さんと為五郎のつながりを感じてしまった。

悦子さんの死に向き合ったののの言葉たち。

私はいまに至るまで、悦子さんが死んだことを、完全には信じきれずにいます。いつかまた、どこかの街角でばったり出くわすのではないかと、心の片隅で思っています。いえ、それを願っているのかもしれない。
来世という意味でも、悦子さんがどこかで生きているという意味でもありません。うまく言えないけれど、「まだ会っていないだけ」。生まれてくるまえ、私たちがまだだれとも会っていなかったように、死んだひととも、まだ会っていないだけのような気がするのです。
悦子さんが私にくれた一番大切なものは、記憶です。それはいつも私のなかにあって、好きなときに取りだし、眺めたり耳を傾けたりすることができる。物はなにも必要ではないのです。

私は家族友人含めて身近な人の死を体験したことがないから、死について漠然とした怖さがある。

生きている以上だれにでも等しく死が訪れることは頭ではわかっているのに、いざ向かい合うことになったら私はまだ死をいうものを受け入れられないんじゃないかと思ってしまう。

死んでしまったら直接会えなくなるのも辛いし、もっと話せばよかったとか後悔するのも怖いのだと思う。そしてそれに耐えられない自分もいるんじゃないかと想像するから、漠然とした怖さなのかもしれない。

ののの言うように物理的には離れてしまうけれど、生きている人たちのなかに記憶が残ることで亡くなった人ともそのままつながっている。そしていつか自分も死んで自然に還っていく中で、また別れた人とも心身がつながっていくのかもしれない。



3.ひとはだれかに生かされている

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悦子さんを失ったののは、その後猫の為五郎と暮らしていくようになる。

一人でも食べて寝て生活はできるけれど、本当の意味で生きるのはむずかしい。自分以外のだれかのために生きてこそ、私たちは「生きた」という実感を得られるのかもしれない。だれかというのは、ひとに限らず、動物でも植物でもいい。物質でもいいかもしれない。それを通して、社会とつながっている、社会のなかにたしかに自分の居場所がある、と感じられるものであれば。ひとが営む社会のなかでしか、自分自身を、自分が存在する意味を、見いだせない。人間って面倒な生き物ですね。
本当に自由になったら、案外さびしくて不安で、息ができないものなのかもしれないけれど。塵ひとつない清浄な空気が実験室にしか存在せず、そこで生活しつづけられるひとはいないのと同じく。

だれかとなにかとつながらなければ生きていけないということは、人間は人間だけでは生きていけないということなのかもしれない。

自分と合わない人や環境があったとして不自由さを感じたとしても、それによって気づくこともある。「塵ひとつない清浄な空気」は一見素晴らしいことに感じるが、必要悪が存在する意義ってあるんだと思う。

きっとバイキンマンがいなければ、アンパンマンのお話が成立しないのと同じだ。


4.「ふり」「無神経」「不感症」

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アフリカのゾンダで暮らすはながののに送った文章。

不満や不安や憤りを、暴力以外のどういう手段で訴えたらいいのかわからずにいる。ゾンダが暫定的な平和を手にしたのはここ十年ほどのことで、国民のほとんどは内戦のなかで生まれ、生きてきたのだから。

ゾンダの人々は内戦という環境で生まれて生きてきたら、それが当たり前。

私でいえば日本の当たり前が自分にとって当たり前。

ある人々が自分たちの当たり前を振りかざして、別の環境の人たちの当たり前を壊していく。きっと今でもそれは暴力という形以外にも別の形で行われていることなのだと思う。

三章のはじめはわりと平穏な暮らしを送れていたはなだったが、だんだんとゾンダの情勢が悪化していく中での二人のやり取りに考えさせられた。

この世界で起こっているほとんどすべてのことが、神の意思なんかとはまったく関係ないのよ。全部全部、人間が引き起こしたこと。争いも理不尽も憎しみも。およそ醜いものはすべて。だったら紙などに委ねず、私たちは考え、動かなければ。<はな>
私はね、ただ闇雲に大勢が行く方へついていって、思考も感情も放棄するぐらいなら(放棄したことにすら気づかないほど、ボーッとしてるぐらいなら)、痛い目に遭っても、成果を上げられずむなしいばかりでも、自分の意思で、あるいは風に乗って、羽のおもむくままに飛んでいたい。見聞きしたこと、感じたことを、自分の頭で味わい咀嚼したい。<のの>
すべてが他人事。どんなに悲しく残酷な出来事が起こったとしても、それが直接自分の身に降りかからなかったら、おおかたのひとはすぐに忘れてしまう。なんとなくのムードで、「かわいそう」と悲しんだふり、「ひどい」と残酷さに憤ったふりをするだけで。もちろん私自身も含めて、とにかく「ふり」ばかり。そういう「ふり」の集積で、日常は成立し、つづいていっているんじゃないかと思うことがある。だとしたら日常って、究極の無神経と不感症とでできあがっているということね。<のの>
私はあなたの考えに賛成よ。日常は無神経で不感症なもの。なんとなくのムードで流れは決まり、私たちは流れに乗って、「ふり」をする。気づかないふり。気づいたとしても、「まだ大丈夫。平和な日常が続くはず」と信じるふり。そうやって私たちは生活し、毎日をやり過ごす。そのさきにあるのは、突然吹き荒れる暴力の嵐……。<はな>

もしかしたら今の自分もそうなのかもしれないと思ったのだ。

なんとなく周りに流され、知らないうちに支配され、いつしか自分がどこかへ行ってしまっているような感じ。

例えば「今年パルテルカラーが流行します」って、その流行って一体だれが作り出したんだろう。

グルメサイトの3.0の数字の評価って、自分にとっても3.0なのだろうか。

「ラーメンは美味しいけれど、餃子はいまいちだよね」って3.0という数字なんだろうか。

再生数が多いかったらだれにとっても最高の動画なのか。

この記事だって私のnote史上最高文字数になりそうだけれど、文字数が多いから一番時間をかけたかというと、そうではない。


「周りがこう言っているから」という風潮に合わせてしまう「ふり」を自分もしていないだろうか。

そうしているうちに見えざる手によって、本来の自分でない別の何者かに変えられてしまうのではないか。

「ふり」を続けていくと、一番敏感になるはずの自分に「無神経」で「不感症」になっていってしまうのかもしれないという怖さを感じた。


はなは外交官の妻としてこんな発言をする。

外交においては、これぐらい玉虫色の決着の方がいいのです。

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国境もだって、グルメサイトの点数だって、なんでもそう。

言葉や数字を使ってだれもが共通に理解できるように区別しようとするから、自分だけしか感じない半端なマーブル色みたいのがどんどんなくなっている。


どんなことでも、0か1でもないし、白か黒でもない。

0.5も0.002もあるし、グレーもチャコールグレーもある。

外交だってひととひととの話の中だから曖昧な部分があって当然なのに(外交という言葉自体が区別なのかもしれない)、国という人間が勝手に分けたもので自らを苦しめているのかもしれない。

「玉虫色」って黄色がかっていたり緑がかっていたり、人によってイメージが違う気がして、とても素敵な言葉だと思った。



最後はののとはなから少し話が外れてしまいました。

ゾンダの情勢悪化に伴い、はなの安否が気になるのの。

いよいよ次は最後の章ですが、どう展開されていくのか……。

続きが気になりますが、明日の楽しみにします。


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