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絶海の孤島「青ヶ島」に行ってきた話

2023年12月16日から24日までの9日間、青ヶ島で開催された「移住体験プロジェクトに参加してきた。

東京から358㎞、伊豆諸島最南端に位置する青ヶ島。東京都でありながら、人口は日本で一番少ない158人(※2024年2月時点)。東京本土からの直行便はなく、訪れるには八丈島経由でヘリコプターか船のみ。そのアクセスの難しさから「絶海の孤島」とも呼ばれている。

神秘的な魅力に包まれる青ヶ島に“住んでみた”9日間に見たもの、感じたことをつらつらと綴ってみる。

(写真多めですが8千字超の大作になってしまったので、以下の目次からご興味ある箇所にジャンプしてご覧ください)


「好奇心」と「不思議な縁」で青ヶ島へ

「なんで青ヶ島行ったの?」

“THE観光地”とは言えない場所だからこそ、青ヶ島の話をするとほぼ全員から聞かれる質問だ。私が青ヶ島行きを決めたのはただ単純に「面白そう」「行ってみたい」という好奇心だけだった。

あえてもうひとつ理由を挙げるなら、青ヶ島に不思議な縁を感じたから、かもしれない。

私は、約4年前からフリーランスのライターとして活動している。3年ほど前、まだライターになりたての頃に一度、青ヶ島製塩事業所で塩づくりをする山田アリサさんという方にインタビューをさせていただく機会があった。これ自体、まあまあにレアな話だと思う。

1〜2時間ほどのオンライン取材で、生い立ちから今の活動に至るまで人生を深堀りしつつお話を伺っていくのだが、アリサさんは感極まって涙しながら島や塩づくりへの思いを語ってくれた。通算300人以上の方に取材をさせてもらってきたが、「青ヶ島」という地が強烈に印象に残っているのは、そんな出会いがあったからかもしれない。

▼当時のインタビューはこちら
「見つけた居場所は、嫌いだった故郷。日本一の塩で青ヶ島を未来へ残す
【株式会社青ケ島製塩事業所代表・山田アリサ】」

取材からすこし時が経った2023年の秋、ひょんなきっかけで青ヶ島で開催される「移住体験プロジェクト」に声をかけてもらった。

▼「青ヶ島移住体験プロジェクト」とは

青ヶ島に移住を検討している方に向けた、移住体験プログラム。「青ヶ島で仕事を探して移住を検討している方向け」「青ヶ島にいながらリモートワークできる方向け」の2パターンの募集があった。

<期間>
7泊8日(予定)

<プログラム内容>
・1週間、島に滞在し実際の生活を体験
・商店や飲食店、ゴミや電気など島の暮らしの案内
・島内事業所での仕事情報・見学(酒工場など)
・島民や移住者との交流会

主催:『Aogaijyu
(プランナー:『青ヶ島ちゃんねる』さん)

(参考:WEBメディア『アオガミライ』)

青ヶ島の方に取材したことがあるのも珍しいのに、さらにリモートワークで仕事ができる人が対象……??もはやこの募集、私のことでは……??くらいの縁を感じた。

現在私は30代。この先の人生、色々な場所を訪れる機会はあるかもしれないが、「青ヶ島」に行けるチャンスなんて来るだろうか。すこしでも心が動いた誘いには乗るべきだ。そう考えたら、参加しない理由はなかった。

“選ばれし者”のみが行ける?青ヶ島に行く2つの方法

どんなに事前情報が乏しくとも、往来のハードルが高いくらいの想像はついていた。とはいえ、いざ参加が決まり詳しく調べてみると、まあ過酷。
冒頭で伝えた通り、東京からの直行便はない。行き方は次の2択だ。

① 八丈島空港からヘリコプター(所要時間 約20分)
② 八丈港から船(所要時間 約3時間)

(参考:青ヶ島村ホームページ

ヘリは基本的に毎日1便運行しているのだが、定員が9名と決まっており、電話でのチケット争奪戦に勝ち抜かなければならない。出発の1ヶ月前の朝、参加者全員で電話合戦をし、なんとか往路のみ全員分の席確保。帰りはキャンセル待ち、という熾烈な争いだ。人気バンドのコンサート並みである。

八丈島と青ヶ島を結ぶ唯一の定期連絡船は、黒潮に囲まれた地形の関係で天候の影響を受けやすく、平均就航率は50~60%ほどだそうだ。とくに私たちが向かう12月は1〜2週間欠航になることもザラだという。

まさに、“選ばれし者”のみが行ける島。私たちは無事に青ヶ島に辿り着けるのか…?

スケジュール通り、もっと言えば「2023年中に帰って来れる」保証はないので、いっそのこと年内の仕事はほぼほぼ納める覚悟で島に行った。(よく見たら募集要項にも「予定が変更になる可能性を踏まえた上で希望する方のみ応募してね」と書いてあった)

出発当日。4時起きで空港に向かった朝、強風のため羽田〜八丈島空港までの飛行機が条件付き渡航(天候次第で出発空港に引き返す可能性がある)に。しょっぱなから“上陸困難な島”の洗礼を受ける。

運良くその日は飛行機もヘリも無事に飛び、お昼前に青ヶ島に到着。この時点で、目に見えない力に導かれている気すらした(突然のスピ)

青ヶ島のヘリポート

ちなみに、楽しみにしていた人生初ヘリは想像以上に快適で、20分の乗車時間はあっという間だった。「ヘリだ〜〜!すげ〜〜!」と興奮したのも束の間、4時起きの疲れが出てちょっとウトウトしていたら目の前にYouTubeなどで観ていた“あの光景”が広がっていた。

青ヶ島の独特な二重式カルデラ

轟音と爆風に包まれながらヘリを降りる。私たちを待ち受けていたのは、青ヶ島の大自然。主催のおふたりやほかの参加メンバーが出迎えてくれた。

ちなみに青ヶ島の気候は、黒潮に囲まれていることから1年を通じて10~25℃と温暖らしく、私たちが到着した日も12月中旬とは思えない暖かさ(半袖の人もいた)。ただ、湿度が年間平均85%と高いのと、毎日風がめちゃくちゃ強く(風速15mくらい)、常に絶叫しながら歩いていた。

カルデラの中を歩く

めちゃくちゃざっくりだが、青ヶ島のユニークな地理的特徴も説明しておく。

世界でも珍しい「二重式カルデラ」は、海からそびえたつ断崖絶壁の「外輪山」、こんもりとした島中央の「内輪山」から成り立っている。(内輪山は「丸山」とも呼ばれ、火口をぐるっと散歩できる遊歩道がある)

青ヶ島村ホームページより)

島全体は「池之沢(いけのさわ)」と「岡部(おかべ)」の2つのエリアに分かれている。島の3分の2を占める池之沢には「ひんぎゃ」と呼ばれる噴気孔や遊歩道、オオタニワタリ(特産品の「青酎(あおちゅう)」という焼酎づくりに使われる)の群生地など手付かずの大自然が広がっており、人は居住していない。ちなみに後述するサウナもこのエリアにある。

池乃沢の森は神秘的な雰囲気が漂う。ジブリすぎる。
シダの一種、オオタニワタリ。葉の裏についた麹菌が青酎づくりに欠かせない
誰でも無料で使える地熱釜。中にお芋や卵などを入れ、蒸して食べる

「日本で人口が一番少ない村」といわれる青ヶ島だが、約160人の島民は「岡部」地区に暮らしている。岡部は池乃沢から車で15分ほど(徒歩だと1時間くらい)離れていて、ここに小中学校や村役場、商店、民宿も点在している。

岡部地区から。天気が良いと八丈島が見えることも

7泊8日の「青ヶ島移住体験プロジェクト」

今回の「移住体験プロジェクト」のプログラムはだいたいこんな感じ。

青ヶ島移住体験スケジュール(ざっくり)

今回私たちは「あじさい荘」という旧民宿の古民家で生活しながら、車を借りて池乃沢エリアの丸山やサウナ、港に足を運んだ。バスやタクシーはないので車がないと基本的に移動が難しいが、今回私含め参加者4人中3人がペーパードライバーという有り様だったので、移動のたびに全力で平伏していた。

今回お世話になった「あじさい荘」旧館。味がある

私たちは「リモートワーク組」として参加しているので、青ヶ島の暮らしを体験させてもらいながら、空いた時間で仕事をする。2020年、島に光回線が開通したことでWi-Fiは超高速になったそうだ。人が少ないことも関係しているのか、なんなら自宅より快適に作業ができた(集中していたかどうかは別の話)。

「あじさい荘」旧館(襖が外れてるのはご愛嬌)
庭で採れたかぼすと青酎のサワー

島にはNYAYA』というコワーキングスペースもあり、こちらももちろん電源&Wi-Fi完備。

コワーキング&レンタルスペース『NYAYA』
こたつとプロジェクター、スクリーンがあるので夜は映画鑑賞をした

今回未知の体験だったので仕事のスケジュールはあまり詰めないようにしていたが、通信環境的には取材も問題なく実施できたと思う。

「あるもの」で生きる、自給自足ライフ

私たちは今回「観光」ではなく、あくまで「移住体験」なので、短い期間でもできる限りリアルな島暮らしを体験できるよう、基本的に民宿のキッチンを使わせてもらって自炊して生活する。

コンビニやスーパー、お惣菜屋さんなどはなく(もちろんUberもない)、食料・日用品は島唯一の商店「十一屋」さんで調達する。私たちが到着した日はシケの影響でしばらく船が来ていなかったようで、だいぶ品薄状態だった。

あとは明日葉(アシタバ)や島とうがらし、カボスやミカンなど自生している野菜や果物を使ったり、鶏を飼っている人に卵をおすそわけしてもらったり。

島の至るところに自生している明日葉。栄養満点で万能スーパーフードらしい
「あじさい荘」の庭の島唐辛子。通常の唐辛子より辛い

出会ってまもないメンバーと、冷蔵庫の中身や商店の品揃えとにらめっこしながら数日分の献立を考える共同生活は、なかなかにクリエイティブで刺激的な体験だった。だいぶ自炊スキルが上がった気もする(当社比)。

庭で採れた明日葉と島唐辛子のペペロンチーノ
たこ焼きパーティは2回した。タコがないのでこんにゃくとウインナーを入れる

青ヶ島でもAmazonなどのネット通販は注文できるが、なんせ船で来るのでいつ手元に届くかは天候次第だ(最短3日くらいらしい)。だから、島の人々はしばらく船が来ない想定で脳をフル回転させながら注文するのだと聞いた。

連絡船は生活物資を運ぶ、文字通り「島の生命線」だ。約1週間ぶりに連絡船が来た日には、私たちも港へ向かい、船の荷卸しを少しお手伝いさせてもらった。

船が来た!

誰が何を言うわけでもなく、船の到着時間には島の人々の車が港に集合し、コンテナからそれぞれの車に荷物を運搬する。そうやって島民で協力しながら暮らしを営んでいく。これが“島の日常”だ。

コンテナ一杯に荷物が届く

スマホでポチッとすれば翌日には手元に届く、そんなあまりにも便利な暮らしに慣れてしまうと、ここでの暮らしは「不便」だと感じるかもしれない。

しかし、なんでもすぐ手に入るわけではない“不自由さ”を知っているからこそ、その分自然のありがたみや周りの人の優しさを痛感できるのかもしれない。

「ない」ことを憂うのではなく、「あるもの」に感謝して生きる。島にいる間は、なんというか「生きている」実感があった。

お酒を飲みながら島の未来を語る夜

先ほども言ったように、島民は「岡部」という地区に集まって暮らしているため、大抵が“ご近所さん”だ。移住体験中、毎晩誰かしらのご自宅におじゃまして宅飲みをしていた。

海鮮鍋。豪華すぎる

キッチンでぱぱっと手際よく作って振る舞ってくれたり、自宅から手料理を持ち寄ったり。皆さんおもてなし精神が強く料理上手なので、なんだかんだ毎日めちゃくちゃバランスが整った良い食生活を送っていた気がする。

みんな料理上手
民宿「かいゆう丸」の交流会にて。名物の島寿司、本当に美味しかった

そしてなにより、お酒好きな方ばかり。どのお宅におじゃましても大量のお酒があり、酒も話も尽きることがない。深い時間まで美味しいお酒を飲みながら語り明かすのは、さながら大学生に戻ったようでとても楽しかった。(“終電”の概念がないので長くなりがち

どこに行っても海賊並みのお酒を用意していただいていた
ご自宅に日本酒の樽があった。おかしい

お互いの仕事やプライベートの話、時には真面目に青ヶ島の課題や未来をみんなで語り合う。そこに、年齢も職業も、島出身者か移住者かどうかも関係ない

ちなみに島ではほとんどの皆さんが「パラレルワーカー」だ。むしろ一つの仕事で生計を立てる難しさもあるようで、ほとんどの方が建設業や民宿の運営、漁業などを掛け持ちしながら働いている。

実際にお会いしたなかでも、建設業と議員を兼業する人、民宿の手伝いや観光ガイドをしながらYouTuber、デザイナーとして働く人…人それぞれのかたちで、「暮らし」と「仕事」がシームレスに繋がっているようだった。

生徒数8名。島で唯一の小中学校

日中は青ヶ島のさまざまな場所を訪れ、島のリアルな暮らしについて話を伺った。

村で唯一の小中学校を訪れた際には、先生が島の子供たちの教育についてお話ししてくれた。

小中学校が同じ場所にある。
緑豊かな校庭で子供たちはサッカーなどのスポーツを楽しむ
学校前の歩道から。坂を抜けると海が広がっている

現在生徒数は小学生が6名、中学生が2名の合計8名

島にあるのは小中学校だけなので、高校進学と同時に東京本土に移り住み、一人暮らしをするのが一般的だそうだ。高校や大学を卒業し、働いて大人になってから島に戻ってくる人も多いという。

喫緊の課題は、子供の数——とくに「島生まれ島育ち」の子が減っていることだと聞いた。学校に通うのは、教員や役場の職員など任期付きで島に来ている方のお子さんが多く、任期が終われば本土に帰ってしまう。そうした事情から一時は中学校に進学する子どもが一人もいなくなり、閉校の危機に陥ったそうだ。

そんな状況を打開すべく、2022年に青ヶ島製塩事業所の山田アリサさんが「離島留学」プロジェクトを立ち上げた。1年間の期限付きで島外から中学生を数名受け入れ、親元を離れて島で暮らすという試みだ。2023年末時点ですでに合計5人の子供たちを迎えているそうだ。

生徒数が少ない離島ならではの課題もあるようだが、青ヶ島では「子供たちが好きなこと、やりたいこと」を実現できるよう、先生たちが工夫を凝らしていた。

生徒数が少ないので、学年を超えて学ぶ

たとえば放課後には音楽の先生がピアノ教室を開いていたり、学年を超えてバンド活動をしていたり。週末には子供も大人も一緒に校庭でサッカーをするらしい。島全体で子供たち一人ひとりを大切に育てようとしているのが素敵。

青酎酒造、村営住宅、サウナ

ほかにも、島の特産品である「青酎(あおちゅう)」の酒造を見学させてもらったり

とんでもない量の試飲が出てきてしっかり酩酊した

村役場や図書館に行ったり

青ヶ島村役場

村営住宅を見学させていただいたり、製塩所のアリサさんが私たちの宿まで話をしに来てくれたりもした。

移住された発電所職員の方が暮らす村営住宅。とても広い
製塩所のアリサさんと約3年ぶりの再会。アリサさんは超パワフル

忙しい中でも快く私たちに時間を割いてくださった島の皆さんのあたたかさとホスピタリティに、毎回感激しっぱなしだった。島の外にいる私たちが見た青ヶ島の姿を発信することが、少しでも島に貢献できるといいな。



すべてを文字にすると1万字を超えそうなので、ここからはダイジェストでお届けする。

大凸部からの絶景はアメリカの環境保護NGOの
「死ぬまでに見るべき世界の絶景13選」に選ばれたそう
池乃沢にあるふれあいサウナ。
天然の地熱蒸気を利用しているので日によって温度が変わるのだとか
地熱釜のまわりには人懐こい猫ちゃんがたくさん
ジョウマン共同牧場の満天の星空。地面に寝転んで流れ星を観察した。青春すぎる

奇跡のクリスマスイブ

さて。長すぎて冒頭の内容は忘れている人も多そうだが、帰りのヘリは争奪戦に負け、「キャンセル待ち」という状態。前日夜まで未練たらしく毎日ヘリの空席状況を眺めていたが、あいにくキャンセルは出ず。(24日に船の臨時便が出航するかも、とのことだったので、一応帰り支度をしていた)

結論からいうと、奇跡的に当日キャンセルが出たヘリに乗って帰ることができたので、当初の予定より1日延泊し、トータル9日間島にいた。私たちが“選ばれし者”だったのかは定かではないが、これも「青ヶ島マジック(「あおがしまじっく」って読んでほしい)」なのかもしれない。

ちなみに帰路についたのは偶然にもクリスマスイブ。大袈裟ではなく、一生記憶に残るクリスマスイブだよ……。

滞在の最後のほうは「せっかくだからクリスマスパーティ参加して帰ろっかな」と思っていたくらいには馴染んでいた(と思う)。人間の適応力はおそろしい。

トナカイやサンタの格好でお見送りしてくれた

早朝の出発だったにもかかわらず、たくさんの人がヘリポートから見送ってくれた。このわずかな期間で“顔見知り”になった方々が手を振ってくれる様子をヘリから見たら、さすがに涙腺が緩んだ。今このnoteを書きながら、島で会った一人ひとりの顔が浮かぶ。みんな元気かな。

民宿「かいゆう丸」での交流会

“絶海の孤島”はあったかかった

月並みな表現だが、9日間の移住体験は長いようであっという間だった。帰ってきて2ヶ月ほど経つ今、青ヶ島が恋しくて懐かしい。完全に“島ロス”状態だ。リピーターや移住者が多いのがわかる気がする。そのくらい不思議な引力がある島だ。(またスピ)

「天使の梯子」が見えた

もちろん、“たった9日”で島の暮らしをすべて分かった気になるのはおこがましいだろう。私たちには見えていない、島暮らしの大変さや課題も、当然たくさんあるのだと思う。

それでも、されど9日。実際に見て感じたことで、当初のイメージが覆されたことも多かった。

一つは、都心と流れる時間の速度はそんなに変わらないということ。「島時間」なんて言葉があるように、島で暮らす人はのんびりマイペースなイメージがあったけれど、意外とちゃきちゃきしている人が多い(もちろんマイペースな人もいたと思うが)。みんな色々な仕事を掛け持ちして忙しいという背景もあるのかもしれない。

2日目に参加した郷土芸能保存会公演

もう一つは、青ヶ島はオープンで寛容な島だということ。「島、村=排他的、閉鎖的」というイメージがある人もいるかもしれないが、高校進学で一度は島を離れ、Uターンなどで人が出入りする島の風土ゆえなのか、青ヶ島には多様なバックグラウンドを受け入れる雰囲気が漂っている。

青ヶ島には、“外”から来る人も受け入れるあたたかさがあった。「初めて来たはずなのに、なぜか居心地が良い」と感じたのはそのせいなのかもしれない。

「自分ごと」が増えるということ

移住や観光、今回のような「移住体験」。地域にはいろんな関わり方があっていいと思う。多様な視点があるからこそ、気づける価値もあるだろうから。

大凸部(おおとんぶ)から見える絶景、港で見た燃えるような夕焼け、見渡すかぎりの満天の星空。島の人たちにとっての「当たり前の日常」は、“外”から来た私たちからすれば全部「宝物」みたいな景色だ。あの景色をもう一度、自分の目で見たい。

港からの夕焼け。絵画みたい

都心で生まれ育った私には、心から愛着を持ち、未来を憂うような「ふるさと」がない

だから「地方を盛り上げよう!」みたいな地域課題には正直ピンと来ない自分がいたし、盆や年末年始に帰る場所がある友人をちょっと羨ましく感じたりもしていた。そして、それはこれから先もずっと変わらないのだと、少し寂しく思いながら生きてきた。

だけど今回、ほんのわずかな期間ながらも、島で“暮らす”ように旅をして、毎日島の人々と島の未来について語り合って。気づけば、青ヶ島の未来は「自分ごと」になっていた。「ふるさと」なんて呼ぶのは、ちょっと大袈裟かもしれない。ただ、この年齢になっても帰りたくなる場所が増えたのは、結構うれしいものだ。

島の自然は厳しく壮絶で、いわゆる“観光向き”の場所ではないだろう。でも、だからこそ、心から青ヶ島という土地を愛して、島の未来を考える人だけが集まる場所になればいいのだと思う。きっと島の人々も、そう感じているはずだ。

帰ってからずっと、ライターとして、島の未来のために何ができるかを自問している。1人の人間ができることなんてせいぜい、こうして言葉にして発信したり、(叶うならば)定期的に島を訪れたりすることくらいだろう。

だけど、それでいいのだと思う。少なくとも、心のどこかで願っている。青ヶ島の厳しくも豊かな自然が、未来永劫続きますようにと。島の人々が、いつも笑顔で心穏やかに過ごせますように、と。


そんな存在が、場所が、少し遠くにあるだけで。人は強くなれるのかもしれない。

⛰️Special Thanks⛰️
青ヶ島の皆さん
『Aogaijyu』主催の皆さん
移住体験参加メンバー

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