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信頼が消えたら、言葉は通じなくなる

「司会をしながら議事録作成は大変だと思うから。」
委員会での業務の一環として、議事録作成があるが、それを若手に振られる。この時、素直に自身の業務を軽減してもらい有り難いとの思いを抱くことが出来なかった。
人の仕事を獲って自身のチャンスの場に変えたい魂胆があるのではないかと感じるのだ。例え同僚が私のためというパターナリズムに裏打ちした業務分担を行ったとしても、私には嫌がらせにしか見えない。
なぜなら、彼はこれまで他者の企画を自身のものとして名を馳せてきたからである。
……………
「これまでの出来事はなかったものとして水に流してやっていって欲しい。」
そういうエライ人の話に、嫌なことがあれば辞める選択をし続けることは出来ないから、どこかで手を打ってここで生きていかねばならない以上、水に流すことはやむを得ない。だから、
「はい。」
とは言ったものの、本音は「無理かもしれない。」との思いで染まる。その後も同僚からの話に、一々裏を疑い、一つ一つの行動が信頼出来ない。事あるごとに、私を外すためと解釈してしまうのだ。
業務配分が、多ければ嫌がらせ。少なければ外す目的。
有休の許可は、許可なら外す契機。不許可なら意地悪。
「結婚おめでとう」の言葉は嘲笑で、さらには飲み会の誘いすら、事後的な悪口のネタを探すための嫌がらせと屈折して見てしまう。
……………
思えば、思いやりと嫌味は、同じ言葉で表現される。
「風邪が心配だから呼ばなかった。」
は、真に思いやりある表現の時も、相手の健康不安に付け込んで欠席を促すもののこともある。
「可愛いね。」
の一言は、僻みの表現だったり、純粋な褒め言葉だったりする。
同じ言葉でも文意は受け取り手の心によって変わる。そうやって心を読むツールになるから口は災いの元なのだろう。
だから、言った方の意思如何を問わず、発言者の思いは一人歩きし、言われた方が感じた人格が、発言者の人格となる。
そして、「発言者は、妬み僻みが多い。」となる。

私にとっての同僚は、「卑怯な人」であり、それは事後的な状況の変化で簡単には変わらない。親切にされると、アメとムチの様に思えるまでである。
……………
本音を隠した見せかけの親切に気が付かないのであれば、「動物的本能が欠落した愚かな人間である」と、それを見ていた他人から良いように扱われる。
三つ子の魂は百まで続くのだから、人の本性は変わらない。同じ人に何度でも陥れられるであろう。
そんな考えを持つことは悲しいと思う人もいるだろうが、経験則によって辿り着いたこの判断は、何かに揺らがされることは出来ない。
…………
「若手に振ることは、適切な業務分担ではなく、当方を合理的に排除するための手段に感じます。」
私が返した言葉に、相手が凍り付く。私は凍りついた原因を核心を付いた一言への反応とみるが、同僚は屈折した解釈に対して言葉を失っただけかもしれない。

いずれにしても、信頼が消えているから、今はもう言葉が通じない。

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