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40代女性、成功からの転落と離婚。娘と離れて暮らすどん底人生から運命の一本歯下駄に辿り着くまで『第一話』

こんにちは。Ayari✼です。

「人生のどん底から一本歯下駄ipponblade(イッポンブレード)に出会い大逆転した話」のブログに偶然にも出会ってくださり本当にありがとうございます。

このお話は嘘のような本当の夢と希望に溢れた奇跡のリアルストーリー♪

このブログに出会ってくださった全ての方に、「まじで?人間のからだってすごくない??」そんな驚きと感動を私はお届けしたいです。

そして、できればあなたも、この女にできるのなら私にだって(俺にだって)できるはず。もっと、自分の人生を冒険してみよう!チャレンジしてみよう!

そんな風に思ってもらえたら、私はとても嬉しいです。

アマゾネスはギリシャ神話に出てくる逞しく美しい女性部族のイメージがありますが、近年では、それが架空の存在ではなく実在する戦士かもしれないと、埋葬された戦士の遺体がDNA鑑定で女性だったということがわかり、より神秘を帯び注目を集めています。彼女たちは馬に乗り遠くへ矢を放ち侵略してくるものたちから、自分たちの領土を守っていました。女性の身体性は、本来、人間の想像を超えた可能性を秘めています。

話を戻し、このお話は仕事もプライベートも人生の全てが八方塞がりとなってしまった人生のどん底にいた40代女性が、たった11ヶ月で、女子初となる一本歯下駄でウルトラマラソン50km完走を成し遂げ人生を大逆転させる実話です。

その一本歯下駄は、ただの一本歯下駄ではありませんでした。

天から降りてきた神の創造物である「ippon blade(イッポン ブレード)」

ippon bladeは、まるでアマゾネスたちが乗っていた馬たちのように、乗る人の人格や器量を鏡のように映し出す不思議な力をもっていました。

調子に乗っている者は立つことができても転んでしまい、反対に怯えすぎている者は足がすくんでしまい、歩くことすらできませんでした。

アマゾネスのように「ippon bladeに乗る人」は熟練者であっても神様から厳しくも愛で試され続けました。

アマゾネスは本当に実在したのだろうか?

誰にもその真相はわからないファンタジー

このお話も、実在する人生のどん底にいる40代女性が、ippon bladeに乗って現代のアマゾネスへと進化していくリアルファンタジーです。

ようこそ、ippon bladeアマゾネス・神秘の世界へ


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私の年齢は現在42歳女性。Ayari✼といいます。

株式会社AYARIという会社を設立し9年目になります。健康に関する事業を行なっています。主にオリジナルの体操の指導、指導者の育成やオンラインスクールに、企業への健康経営サービスや運動指導、商品開発や体操の考案などもしています。

こう経歴を並べてみると今流行りのキラキラ系女性起業家のように見られますが、人生の酸いも甘いも経験し、どちらかというと泥水を胃液で薄めながら生き延びてきたような、人には言えない人生のどん底を幾度も経験しています。

私は幼少期から学校教育に馴染めず、今思えば発達障害児というラベルを貼られてもおかしくないような子供でした。大人たちの言っていることの意味がわからず、小学生の頃から自宅に引きこもりカラフルなミサンガを編むことに集中していたら義務教育が終わり、いつの間にか身体だけが大きくなり高校の単位も足りなくなってしまい、中退せざるを得なくなりました。隣では母が泣いていました。

でも、父親はそんな私を面白がり、兄弟の中でも特別可愛がってくれました。父もまた、社会の常識や風潮に上手く合わせることのできない一風変わった人でした。自然の中にいるのが何よりも心落ち着く父は、私をいつも自然の中へ連れてまわりました。川に飛び込み鮎をモリで突き捕まえては火を起こし川辺で焼いて食べたり、山の中を愛犬と共に走り回って山菜を採ったり、父親の船で太平洋の外海に出ては漁師のようなダイナミックな魚釣りも体験しました。「食べるものは自分で狩りにいく。」そんなことを体験で教えてくれた逞しい人でした。父は仕事に対する姿勢も奇想天外で、ローマ字も読めないのに一級建築士になり株式会社を立ち上げたような破天荒な人でした。今でこそ、株式会社を設立するのに少しの資本金があれば誰でも設立できますが、当時は、株式会社を設立するには1000万円が必要で、父は、親戚中に頭を下げてお金をかき集め会社を設立しました。父の仕事は大胆且つとても丁寧で、弱い人たちの常に味方でした。だから、周りの人たちからとても信頼されていて、「あや、人類皆兄弟、お金じゃないんだよ。」これが常の父の口癖でした。


16歳の夏が終わろうとするその頃、

一学期も終えられず高校を退学しなければいけなくなってしまった私は、雲一つない青空を眺めながら思いました。

16歳でも働けば時給680円でお金がもらえる。「この世界は何てシンプルなんだ。」若さとはそういうものでした。そして私は、翌日からアルバイトを掛け持ちして働きまくりました。16歳の少女が1ヶ月間朝から晩まで働き、手にしたお金は10万円弱。ソーセージの肉詰めに、コンビニのアルバイト、ファーストフード店でのキャッシャー、なんでもやりました。そこには未来への希望しかありませんでした。そしてコツコツと、東京に行く為の資金を数年かけて貯めました。

「こんな田舎にいても、何も発展しない。東京だったら実力で生きていけるはず。」24歳で上京。その頃、ファッションが大好きだった私は、いつか東京でセレクトショップをオープンし大成功する。そんな夢を抱き、時給の良い派遣会社に登録し、某外資系ブラントショップで働くことになりました。売り上げは大卒の新入社員たちを追い抜き、即トップクラスになりました。とにかく生意気で勝ち気だった私は、派遣社員からあっという間に外資系大手企業に社員で就職。

が、やはり大きい組織の中で足並み揃えて生きることが性分として合わない私は、ストレスからタバコと酒まみれの生活に陥り、ある日、お手洗いにいくと激痛と共に尿が真っ赤になっていました。「あ、もしかしてこれって血尿?」病院に行くと、そのまま即入院となりました。

20代前半で酒飲みのおっさんが患うような慢性膵炎という膵臓の病気になったのです。

板橋区の病院のベットで天井を見上げ、「私はこのまま死ぬのだろうか。」ぽつりと呟きながら、目の前が真っ暗になっていきました。

そんな時に出会ったのがヨガでした。

当時は今のようなヨガブームはなく、まだまだ宗教的なイメージが強かったのが事実です。でも、若くして膵臓の病気になった私には、ただ肉体を鍛えるものでは自分は変われないことを本能的にわかっていて、宗教だろうとなんであろうと、藁をもすがる思いでヨガの実践に取り組みました。お酒とタバコに溺れる不摂生な生活に陥ってしまったその理由は、自分でも明確でした。精神的な弱さからくる寂しさや劣等感、将来への不安。また、学歴がないことも最大のコンプレックスとなっていました。しかし、ヨガを実践していくうちに、外からの評価ではなくありのままの自分と向き合うことを学んだのです。

ヨガを始めたお陰で、私の心と身体はみるみる元気になっていきました。最初は身体が硬くて、前に倒すのも後ろに反るのもきつかったのに少しずつ動くようになり、同時にタバコとお酒の量が減り、朝日を浴びて夜には眠たくなる、人間としての自然な生活のリズムへと変化していきました。子供の頃の純粋無垢な自分が蘇ってくるかのようでした。「もしかしたら、私の天職はここにあるのかもしれない。ヨガで得た恩恵を少しでも多くの人たちに伝え、困っている人たちの役に立ちたい。」ファッションの業界からきっぱりと足を洗い、健康産業に入って独立することを決めたのです。27歳、オーストラリア・バイロンベイに渡りヨガ講師のトレーニングを受けることになりました。ちょうどこの頃に、一度目の結婚もして、当時の夫も私のヨガ講師としての独立をとても応援してくれました。数ヶ月のトレーニングから帰国後、すぐにレンタルスペースを借りてヨガの指導を始めると、私のストーリーに感動してくれたたくさんの方々が、ヨガを受けにきてくれました。同時にヨガだけではなく、整体、古武術、合気道など、日本古来の身体操法も取り入れて、日本人の身体に合わせた独自のメソッドが少しずつ確立されていき、口コミで生徒さんが少しずつ増えていきました。

ちょうどその頃に赤ちゃんを授かり、呼吸法と瞑想が大いに役立ち、水中出産を経験しました。普通、赤ん坊は生まれるとすぐに泣きますが、水中出産の場合は羊水から水の中に生まれるため子宮から外の世界への圧力が少なく、流れがスムーズなために、水中出産の子は生まれてすぐ泣く子は少ないと言われています。娘もとても穏やかで安らかに生まれてきました。自らの力で子宮からゆっくりと出てくる彼女にそっと手を添え、私は娘を自分で取り上げました。「動物ってこんな風に生まれてくるんだ。赤ん坊って、生まれても泣かないんだ。」この体験はまるでオリンピックで金メダルをとったかのような感動の体験でした。自然出産の素晴らしさを身をもって体験したのです。彼女はとても利口で、私はなんの苦労もなく娘を育てていました。しかし、この子が私の元にきたのはやはり運命だったことは、後にわかることでした。


私の人生が少しずつ安定へと向かい始めていました。地元である静岡県に戻りヨガをベースに日本人の身体に合わせて考案したヨガを提供するスタジオをオープン。女性が新しい切り口で社会に進出する独自の事業展開は、多くの方々の共感を得てとても上手くいきました。地元の金融機関のビジネスコンテストでは最優秀賞を受賞し、まさに女性起業家として華々しいスタートとなったのです。当時は新聞、ラジオ、雑誌、様々なメディアから取材が殺到しました。が、ヨガがブームになればなるほど、本質からズレていく業界の在り方に私は次第に疑問を持ち始めました。

ヨガはファッションではないし、身体が柔らかくなれば健康になるわけでもない。現実的な物事から逃げていくための瞑想や呼吸法ではないし、自分と真に向き合う強さを人は忘れてはいけない。

私はヨガに命を救われた。今、ヨガの先人たちはこの業界をどのように眺めているのだろうか。

世間のニーズに次第に応えられなくなっている私がいました。そして、私は思い切ってヨガスタジオからヨガという看板を下ろして、独自開発したオリジナルのayanohaマインドフルボディーワークを提供するスタジオへと方向転換することを決意したのです。もう、自分の心に嘘はつけない。ヨガスタジオに通う多くの方々が「ヨガはやめちゃったんだね。」っと去っていき、インストラクターからは「ヨガという言葉がないと、ボディーワークでは何のスタジオなのかわかりません。なんか、言葉が筋トレみたいです。私はヨガインストラクターをやりたいんです。」そんな反感の声もあり共感は得られませんでした。憤りを感じる中で、自分の信じた道を迷いながらも突き進んだその姿を振り返ってみても、とても不器用で上手く対処できないこともたくさんありました。それでも人生を諦めず自分の道を進んだことは確かです。自分の道を突き進む私と、当時の夫との間には少しずつ溝が深まり、価値観がずれ始めていきました。気づいた頃には修復が不可能となり、数年後に離婚。様々な状況の判断から、最愛の娘とは離れて暮らすことになってしまいました。

その現実はあまりにショックで、私に深い傷を残しました。私は私の人生をこれだけ一生懸命にやってきて結果を出しても、娘と離れることになってしまった。自分の人生を全て否定されたような空虚感と喪失感でいっぱいでした。

幼い娘と離れて暮らし始めたその日から、眠る前に目を瞑ると娘の姿が脳裏に浮かび、心配で居ても立っても居られない苦しい日々が始まりました。

再び、私の人生にどん底がやってきました。

どうにもできず娘のことをただただ祈る長い長い日々が始まったのです。

全てが間違っているようで、全てが正解のようでもある。

「お母さんの今の力じゃ、今はどうしようもできなかったんだ。あなたの強さを信じているよ。未来は必ず良くなる。愛しているよ。」

夢の中で、娘に伝え続けました。夢の中でしか、伝えられませんでした。

いつかきっと娘と過ごせる未来がやってくる。そのために、準備していくしかない。

今を、生き延びろ!

たった一人になった私はリュックに最低限の荷物を詰め込んで、すぐに新幹線に乗りました。もう一度上京し、一念発起することを決意したのです。コロナ禍に突入する前のこの時期は、健康経営や医療系の仕事がうまくいっていて、独自開発された瞑想を取り入れた誰にでも簡単にできるayanohaマインドフルボディーワークはニーズがかなりあったため、都内の企業を中心に契約先を増やして事業展開させていく計画をしていました。ヨガから方向転換したのはやはり間違っていなかったのです。時代は新しい風を求めていました。しかし現実は、少ない資金のなかで新しい事業展開に踏み切ったために、経費をかなり節約しなくてはいけない状況でした。一応肩書き経営者の40代女性が、10代20代の女の子たちとシェアハウスで住みながら、次の人生の幕開けを待つ日々が始まったのです。大きな古民家スタジオを運営し、新築の広々した家に住んでいた私が、40歳を過ぎて6畳一間の部屋で、シェアハウスに住み込み仕事に没頭する毎日。

スーパーで見切り品の食材を買っては、ささっとご飯の上におかずを乗せて、男前などんぶりをつくって、一人、シェアハウスの部屋で食べる生活。仕事は深夜まで続き、一緒に住む女の子達には、今の自分の身の上を説明するには時間も労力も必要で骨が折れるため、最低限のコミュニケーションでそつなく毎日をやり過ごしていました。

この世の中は、大多数と足並み揃えられない私みたいな人間は、不遇な思いをし続けるのだろうか?

私が報われるのは、いつ?

時に、どうしようもない怒りが込み上げ、それでも私は自分の人生を諦めませんでした。人生のどん底を何度も経験すると、度胸もついてくるのかもしれない。もしくは根っからの馬鹿なのかもしれない。スティーブ・ジョブズだって、本田宗一郎だって人生のどん底から大成功を治めたんだ。天才は皆、波乱万丈なんだ。小さな部屋でチューハイを一人飲みながら、自分で自分を励ます日々は続く。

そして私は、強く、固く、誓ったのです!

「男にはもうコリゴリ。これからは女一人で生きていこう。私より強い男になんか、絶対に出会えるはずがない。」

仕事に奮闘する毎日で、パートナーシップにも男にもうんざりしていた私は、一人の気楽な生活を満喫し始めました。女には、こういう図太さがある。

この生活をあと5年続けたら女でも髭が生えてくるのだろう。


〜運命が、動き出す出会い〜

ある日、私の目の前に一本歯下駄を履いた小平天という男が自信満々で立っていました。

「芸名ですか?」私が聞くと、「僕は1977年7月7日7時生まれで、おじいちゃんから7番目の孫なんだ。"天に届くようなスケールの大きい男になれ、天は高し"と願いを込めて"天"と書いてタカシと名付けてくれたんだよ。でも、TENと呼んでね。」っと楽しそうに言いました。

話を聞くと、どうやらこの男は一本歯下駄で100kmのウルトラマラソンを走ったらしいのです。

100kmを走る?しかも一本歯下駄で?

距離感を少しでも理解しようとGoogle検索してみると、現在地の世田谷区から富士山までの距離が約100kmの距離でした。

変態過ぎる・・・

もちろん、自分がやってみようとは思わないけれど、ヨガアーサナ(ポーズ)に疑問をもっていた私は、古武術や合気道などを取り入れていたので、とても関心を持ちました。西洋人に比べて筋力も少ない日本人には筋肉量を増やしていく運動よりも、筋肉の質を上げ動きの精度を高めていく方が理にかなっていると兼ねてから思っていたからです。でも、これを体現している人は殆どおらず、尊敬している古武術研究者である甲野義紀先生以外に出会ったことがありませんでした。

「僕のチームでは他にもippon bladeで100kmを走った人がいるんだよ。」小平天は言いました。

「ippon blade(イッポンブレード)??」どうやら、この男が独自開発した一本歯下駄らしい。そして、その下駄を作った職人も裸足で山を走り回ったりこの下駄で100kmを走った男でモクエン・ワカクリという名前らしい。

ますます怪しい・・・。

何か自由と平和をこよなく愛するヒッピーの集まりなのだろうか?でも、小平天の地道に鍛錬されたことが見受けられるしなやかな所作や、ゴム毬のようなバネのある身体つきをしたこの男が只者ではないことは、なんとなく感じたのです。

その男は目を輝かせながら、私にこう言いました。

「綾ちゃん、スキップしてごらん。そしたらいつの間にか走っているんだよ。」

「・・・。」

私は少し考えて、「ごめん、私、走ることは一生ないから。走るのとか、苦しいからやりたくない。」

しらけた顔で突っぱねました。正直言うと、走ってカッコ悪い姿を晒したくなかったとも言います。当時、私は500mも走ると息が上がって疲れてしまい走るなんて大の苦手でした。

でも、小平天は私をスキップさせて、彼が仙骨を軽く押すと私の身体はトントントントン〜!っと弾み、20mほど進んだのです。

「え、走るってこういうことなの?」

「そうなんだよ、綾ちゃん。これがいつの間にか100kmになるんだよ。」

私は、何か生物としての本能を大きく揺さぶられたのを感じました。

私のからだは、この跳ねて走る感覚を、確かに知っている。

そのまま、少しスキップするように跳ねて走ってみると、身体全体がまるで軽い羽のように、地球をトントントンと弾み進んだのです。

そのまま、弾みながら空の方に走っていくような初めての体験でした。

二人はこうして、人生で最高の親友で最高のパートナーになったのです。

お互いの人生に、運命のパートナーというのが満を持して現れたのでした。


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それから時は流れ、

500mしか走れなかったランニングを始めて11ヶ月の私は、50kmのウルトラマラソンのスタート地点に、一本歯下駄「ippon blade」を履いて立っていました。

一本歯下駄で、ウルトラマラソンを走った女子はまだ誰もいませんでした。

危険すぎるし、キツすぎてそんなこと誰もやろうとしないのだと思います。スタート地点には、厚いクッションが魅力の高級スニーカーを履いたランナーたちがカッコ良く並んでいて、その殆どが男性でした。

「え?君、50kmをそれで走るの?」隣の男性ランナーが心配そうに私に声をかけました。

その声に、他のランナーたちも心配そうに私を眺め、と同時にスタートの合図をする女性が「強者のお姉さんが出て参りましたー!見てください。一本歯下駄で50kmを走るそうです!みなさん、応援しましょうー!」有り難くもマイクで大声で紹介してくれました。

エントリーしていたランナーや運営スタッフ全員が私に注目し、私は、益々不安でいっぱいになりました。

できれば、誰にも気づかれたくない。だって、失敗するかもしれない。

でも、168センチある私の長身は、11センチの高下駄を履くとさらに巨人になり、かなり目立ってしまいました。

もし、転んだら、、、

もし、完走出来なかったら、、、

もし、事故でも起こしてしまったら、、、

間髪入れずに「大丈夫?転ばない?」「捻挫しない?」「なんで、そんなことするの?」ランナーや運営の方々が次々に質問してきました。

私はいかにも自信ありげに「これで走ると整うんですよ。私、いつもこれで走ってますから。」と、こわばった笑顔で女優ばりに演じました。

内心は当然震え上がっていて胃がギューと縮み上がり、そんな中、容赦無くスタート!の合図が鳴りました。時間は大会では待ってくれない。

走らなければ!

走れ!

私の身体は、競走馬の馬のようにスタートの合図と共に何故が勝手にトントントントンと跳ねて走り始めました。

ippon bladeの軽快なリズムがスニーカーランナーの跡を追うように、大会の会場に鳴り響き、私はそのリズムに自分の運命を任せたのです。


第二話に続く


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。私をリアルで知る方は、分かりやすくするために少し時系列を割愛した部分もありますがご了承ください。

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