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大手人材企業で新人賞を獲得!27歳で海外勤務の夢を叶えた宮原さんが、「おじさんふたりのベンチャー」に転職した理由

2018年4月、新卒でパーソルキャリアに入社し、2022年10月からパーソルキャリアのタイ支店に赴任した宮原彩乃さん。

日系企業向けに法人営業を行う彼女は、入社から5年目の2023年4月22日、タイ・バンコクの日本食屋「ばんやアソーク店」にランチに訪れた。

ネギトロ丼でお腹を満たし、ふとスマホのfacebookを開くと、株式会社つぶだてる代表の寺平さんが、自身の半生を描いた記事を投稿していた。寺平さんとは新卒で配属となった福岡で2019年に出会い、彼が主催するオンラインイベントや読書会に参加したことで交流があった。

読み始めると、あっという間に寺平さんのストーリーに引き込まれた。

いつも明るく振る舞っていた寺平さんがリクルートから独立した時、あんなに苦しい思いをしていたとは意外だった。ホスピタリティに溢れ、いつもひとを楽しませようとしている寺平さんの様子がフラッシュバックした。サハラマラソンや日本横断についても話を聞いたことはあったが、その根っこにある思いを知り、心を強く揺さぶられた。

宮原さんは、その場で寺平さんにメールを送った――。


なにをやるにも1番になりたい幼少期

1995年、宮原さんは福岡県飯塚市で、ふたり姉妹の長女として生まれた。公務員の父と自宅で英語のホームティーチャーをしていた母のもとで育った。

厳しい両親のもとで育った宮原さんの母は、留学や海外に出て自由に暮らしてみたいと願っていたが叶わなかった。「娘たちには窮屈な人生を送ってほしくない」との思いから、宮原さんたち姉妹がやりたいことをいつも応援してくれた。

幼少期について尋ねると、「めちゃくちゃ負けず嫌いで、なにをやるにも1番がとりたかったんです!」と、即答が返ってきた。両親の勧めで3歳から始めたスイミングでは、6歳になると競泳クラスに移り、週4日の練習をこなし県大会にも出場した。他にもピアノ、英語と習いごとに明け暮れる日々を送っていた。

「両親から強制されたことはなくて。競泳の大会に出るのも自分で決めてよかったんです。でも、心のどこかで長女として認めてもらいたい、親の期待に応えたいと思っていました。本当は辞めたかったんです……、そういう自分を」。

小学5年生になると、競泳スクールのなかに誰にでも意地悪をしてくる子がいた。バスも同じで母同士が仲が良いこともあり1年間我慢していたが、小学6年生のある日、プチンと我慢の糸が切れた。競泳スクールからバスで帰宅し夕飯を食べると、両親に告げた。

「実は競泳、辞めたいんだよね」。

母は突然の娘からの告白に驚き謝った。「もっと早く言ってくれたらよかったのに」と言われ、宮原さんは自分の気持ちを伝えずに我慢していたことを後悔した。

中学校に入ると、バレーボール部に入部した。
個人競技ばかりをやってきた宮原さんは、人生で初めての団体競技にチャレンジしたが、まったく馴染めなかった。自分のミスでみんなに迷惑をかけることが嫌でストレスを感じた。それでも始めたからには最後までやりきろうと3年間続けた。

「幼少期から高校ぐらいまでは、本当の自分らしくない感じがしてぜんぜん楽しくなかった。モチベーショングラフで書くと、100のうちの0から10ぐらいをいったりきたりしている感じ。感情の波もなく、求められることに対して淡々と結果を出すような幼少期だった」と、当時を振り返る。

挫折を味わった高校受験から、勉強にハマるまで

競泳を辞めたあと新体操を1年経験した宮原さんは、高校受験の際にチアリーディングの強豪校である私立の進学校を受験することにした。その高校に通う先輩から話を聞いて、文武両道の高校生生活に強く憧れを抱いた。

しかし、結果は不合格であった。普通科には合格したものの、宮原さんが志望する特進学科への合格は叶わなかった。結局、地元の県立高校に通うことになった。

「私はひとの3倍くらい努力しないと報われないんだ……」。

自宅のパソコンで不合格通知を見た宮原さんは泣き崩れた。あまりに落ち込む姉を心配した妹が、県立高校に合格するようにとお守りを作ってくれた。お守りのなかには父と母からのメッセージも入っていた。

これまでスポーツに打ち込み結果を出してきた宮原さんにとって、高校受験は人生で初めての挫折となった。

「高校に入学したら、なにかで結果を出してとり返さなければ……」。

地元の県立高校に入学した宮原さんは、バドミントン部に仮入部した。バドミントンであれば、これまでやってきたスポーツの経験も活かしてやれるのではないかと考えた。1週間の体験入部が終わる頃、部長と顧問の先生に呼び止められた。「明日までに正式に入部するかどうかの返事が欲しい」。

学校からの帰り道、ひとりで自転車を漕ぎながら、ふと思った。

「ちょっと待って。 またスポーツをしようと思っていたけど、なにもしなくてもいいんじゃない? 私が努力するところは、ここじゃないかも……。結果を出すなら学業で首席卒業を目指そう!」

誰に言われたわけでもなく、学校の帰り道にひとりで決めた。

両親にも目標を共有し、塾に通わせてもらうことにした。学校から10分ほどの距離にある塾へ週3日通った。学校が終わると塾の横のセブンイレブンで、ホットドックや紙パックのロイヤルミルクティを買ってお腹を満たして22時頃まで勉強した。土日は図書館に通い本を読んだ。これまでスポーツに身を捧げてきた少女は、知らないことを知ることができる「勉強の楽しさ」にハマっていった。

直感のままに突き進む!「もっと外の世界を知りたい」

高校3年生になると進路について考えた。ひとを助ける仕事がしたいと思った時、真っ先に思い浮かんだのが医療業界だったので、看護師を目指すことにして理系科目を選択した。

高校3年の夏、母が高校受験を控えた妹が通う塾の先生から、「立命館アジア太平洋大学」について話を聞いてきた。妹が通う塾はグローバル思考の強い塾で、姉も受験の時期であること、母が英語の仕事をしていることを知っていた塾の先生が「面白い学校がある」と教えてくれたのだ。

母から立命館アジア太平洋大学の話を聞いた宮原さんは、「面白そう!」と盛り上がった。その勢いのまま、週末に母とふたりで大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学を見学に訪れた。

8月3日の土曜日、夏休み中の校内は、学生ふたりが歩いているのを見かけたくらいで、閑散としていた。思わず「Where are you from」と話しかけると、ネパールとインドからであった。校内や学生寮を見て大学生活をイメージした宮原さんは直感的に「ここで学びたい!」と思った。多様な国のひとと出会うことができることにも魅力を感じた。

翌週の月曜、高校の先生に志望校を変えること、立命館アジア太平洋大学を志望することを伝えた。先生も「面白そうだね!」と、大学の受験情報や入学者の情報を集めてサポートしてくれた。

同じ時期に、大学の受験対策として論文を学ぶ授業があった。そこでテーマとして取り上げられたのが、マララ・ユサフザイさんがニューヨークの国連本部で行ったスピーチであった。そのスピーチをYouTubeで見た宮原さんは、衝撃を受けた。

マララ・ユサフザイさんは2014年、17歳の時にノーベル平和賞を受賞したパキスタンで女子教育の重要性を訴える人権運動家だ。自分と変わらない年齢の女の子が、命をかけて女性教育の重要性を世界に訴えかける、その力強く生きる姿に心を打たれた。

「私はぜんぜん世界のことを知らない。もっと世界のことを知りたい。看護師資格は今じゃなくても取れるかもしれない。それなら、多様な文化やバックグラウンドのひとが集まるところで学びたい。今しかできないことをやりたいと思ったんです」

次は、アメリカへ行く!

「高校を首席で卒業する!」と、目標を立てていた宮原さんは、首席こそ逃したが、210人ほどの学年のなかで2位の成績を納め、高校を卒業した。

「2位ではあったけれど、自分が決めた目標に対して努力して結果を出すことができました。高校受験で味わった大きな挫折に対して、自分が納得できる結果を返せたような気がしたんです」と、穏やかな笑みを浮かべた。

2014年4月、宮原さんは、立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学科に入学した。

同大学には、海外だけではなく東京や大阪からの学生も多かった。学生寮ではフィリピン人のシェアメイトがいたり、多様なバックグラウンドを持つ人と話す機会が増えるなかで、「日本ってどういう国?」と、日本の歴史や日本のアイデンティティ、日本人としてどういう価値観で生きているのかなど、これまで考えたことのなかった問いに触れ、それを考え伝えていくことが新鮮に感じた。生まれ育った小さな町とはまったく異なる世界に、宮原さんは胸を踊らせた。

入学して1、2カ月が経つ頃、アメリカでの交換留学から帰国した先輩のプレゼンテーションを聞く機会があった。先輩の話を聞いた宮原さんは、「私も交換留学に行きたい!次はアメリカに行く」と、心に決めた。

宮原さんを留学へと駆り立てたものはなんだったのだろう。

「語学の習得以上に知らない土地で生きていく強さを身につけたい!まだ見ぬ自分を見てみたいという好奇心が強かったんです」と、力強く語る。

そして大学2年生の夏、2015年8月から10ヶ月間、交換留学でアメリカのテキサスにあるセントエドワードユニバーシティを訪れた。

勢いよく留学を決意したとはいえ、自身の語学力には大きなコンプレックスを抱えていた。というのも、学校から選抜された3名のうち宮原さん以外のふたりは、高校時代に留学も経験しており英語が堪能であった。幼少期から英語を学んではいたが、英語を話しはじめたのは大学に入学してからという宮原さんの英会話レベルは、他のふたりが10点中8点ならば、宮原さんは2や3程度だった。

語学力へのコンプレックスを抱きながらも留学して1カ月が経つ頃、宮原さんにはある確信が生まれた。

「人は言語の壁を越えて通じ合うことができる。言語は単なる手段である」。

流暢な英語が話せないはずの宮原さんは、多彩な国籍の友人たちに恵まれた。休日にもグアテマラ、メキシコ、アメリカなどとさまざまな国の友人たちと集まり遊んだ。一方で、英語が堪能なふたりは、時折宮原さんの友人たちの輪に入り一緒に遊ぶことはあっても、いつもは周囲と関わることなく孤独に過ごしているように見えた。宮原さんは、たとえ上手く言葉が伝わらなくても「相手のことを知りたい、自分のことを伝えたい」との思いがあれば、お互いに通じあうことができるという感覚を覚えた。

「マイノリティ」を体験した自分にできること

友人にも恵まれ充実した留学生活を送った宮原さんだったが、アメリカで暮らして自分がマイノリティであることも実感した。

ひとクラス20名ほどのアメリカの大学では、宮原さん以外のクラスメイト全員がアメリカ人だった。なにか差別的なことを言われるわけでもないのに、規模の小さなクラスで自分ひとりだけが日本人という状況に、差別されているように感じてしまうこともあった。

宮原さんは帰国後、立命館アジア太平洋大学のように多様性がある環境でさえ、「やっぱり無理……」と、異国で生活することに生きにくさを感じる外国人の友人たちの声を聞いた。「マイノリティ」の問題について取り組むゼミに入った宮原さんは、LGBTsやマイノリティの人が過ごしやすい環境作りに取り組むことを決めた。

大学には男女別のお手洗いと車椅子用のものがあった。宮原さんは、ゼミの活動として学校に話を持ちかけ、車椅子用のトイレにLGBTの象徴とされるレインボーマークを貼った。他にも学内で実施されるアンケート用紙に、男女に加えて「その他」の項目を作ることを提案した。学内にいるLGBTsのひとにインタビューをさせてもらい記事にすることでLGBTsについて啓蒙活動を行った。

「初めての1位!」パーソルキャリアで手にした新人賞

大学3年生の時、宮原さんはマイノリティのサポートに関してどんな仕事があるのかを知りたくて大学のキャリアオフィスを訪れた。そこで担当者から人材業界を提案され、ダイレクトにひとをサポートすることができる人材業界に興味を持った。

人材業界の企業に複数応募するなかで、一番「働く」にフォーカスしているように感じ、海外支店もあるパーソルキャリアへ、2018年4月に入社。

東京本社で4カ月の研修を終えた後、福岡オフィスにキャリアアドバイザーとして配属された。

「まずは、新人賞をとらせてください!」

初めての福岡拠点長との1on1で宮原さんは開口一番に伝えた。当時の福岡拠点長は、前年に福岡オフィスのマネージャーとして配属された松崎さん。目の前の実績や仕事はもちろん、メンバーの人生や今後のキャリアについても応援するスタンスを持っていてメンバーからも慕われていた。のちに宮原さんが入社する株式会社つぶだてるの寺平さんとの縁を繋いでくれた人物でもある。

「たぶん私の癖なんです(笑)自分で目標を掲げて追いかけるみたいな」
宮原さんはクスッと笑った。

「本当はどうしたいの?」新人賞をとりたいと意気込む宮原さんに、松崎さんは切り返した。「海外で働くことにも興味があるんです!」と、入社前から掲げてきたもうひとつの目標を松崎さんに伝えた。

新人賞で実績を作り、海外拠点へ異動するというキャリアパスを明確に描いた宮原さんは、臆することなく福岡オフィスのメンバーにも「新人賞をとりたい!」と公言した。宮原さんより上の世代が多い福岡オフィスのメンバーは、温かな目で宮原さんを応援してくれた。

入社して1年、宮原さんは念願の2018年度エージェント事業部新人賞を受賞した。いったいどのようにして新人賞を獲得したのだろうか。

宮原さんには、キャリアアドバイザーとして顧客に向き合う時に心に決めていることがふたつあった。
「表面的な課題解決ではなく、本質的な課題解決をすること」
「顧客の可能性を自分が一番信じること」

このふたつを日々の行動に落とし込んだ。
面談では「顧客のありたい姿」「大切にしている価値観」を聞いて言語化。
刻々と変化する顧客の気持ちに寄り添うよう、面談後も顧客との接点をとり続けた。

「新人賞をとりたい!」と口にしながらも、自分の業績や同期の達成状況など、数字のことはまったく見れていなかった。ただ、目の前の顧客に自身ができることを120%提供したい、その一心だった。

2019年1月末、「このままいけば本当に新人賞いけるかもよ」と、上司が教えてくれた。気づけば配属後7カ月連続達成、支援人数は全国一位、成約金額でも全国3位の成果を上げていた。最後まで顧客の納得感を大切にしながら、顧客に伴走し続けた。

その結果、通期目標達成率173.7%、135名中1位という高い成果を残し、新人賞を獲得した。

「いままでの自分は中途半端だったんです。競泳でも県大会には出場するけど、全国大会にはいけない。高校でも首席での卒業を目指しながら結局2位だった。新人賞がとれたことで初めて、自分を認めてあげることができました」

糸島での運命の出会い

2019年の夏、宮原さんは、上司の松崎さんに誘われて福岡県糸島市にある合同会社こっからのオフィスのリニューアルパーティーに参加した。合同会社「こっから」は、のちに宮原さんが入社する株式会社つぶだてるの大元となる会社だ。

合同会社こっからがパーソルキャリアの新人研修を請け負ったことがキッカケとなり、当時福岡で拠点長を勤めていた松崎さんが招待された。松崎さんは宮原さんをはじめ、後輩数人を誘ってパーティーに参加した。

この時、宮原さんは初めて寺平さんに出会うが、大勢の人がいて直接ふたりで話す機会はなかった。この時の宮原さんの記憶には、こっからのオフィスの自然に囲まれた開放的な空間の心地良さが鮮明に残った。

直感的に「ここじゃん!」と感じた宮原さんは、その場で合同会社こっからの永久会員に入った。「永久会員」制度は、1万円で合同会社こっからが解散するまで永続的に、オフィスのワークショップスペースを自由に使える特典がある。

永久会員になったことで、以後、合同会社こっからが主催するイベント情報が入ってくるようになった。宮原さんは2度イベントに参加し、自らも1度ヨガのワークショップを企画し、開催した。

こっから主催のイベントでは、毎回寺平さんのスパイスカレーが振る舞われた。メインコンテンツでもないのに、「スパイスカレー作りにハマっているから、ぜひみんなにも食べてほしい!」と、カレーを振る舞う寺平さんに、精神的な余裕やホスピタリティを感じるようになっていた。

迎えた2022年1月、宮原さんのもとに一通のメールが届いた。

「キャリアの読書会をやるから参加しませんか?」

寺平さんからのメールだった。フラットにひとが集まれる「場づくり」を学びたいと考えていた宮原さんは、「面白そう!」とすぐに参加を決めた。1月から始まった月に一度の読書会では、みんなで1冊の本を読み語り合うことで、本を通してお互いの考え方を知ることができた。

7月になると、かねてより熱望していた海外支店への異動が決まった。2020年にも海外拠点への異動にチャレンジして、2021年のベトナム行きが決まっていた。しかし、コロナの影響でビザの取得が叶わず断念していた。

「あの頃は心が空っぽだったんです。せっかく海外行きのチャンスを掴んだのに、動けなくて悔しくて……。なにかしたいとウズウズしていました。だから読書会のように外に出て人と話せる機会がめちゃくちゃありがたかったです」

念願のタイ支店!のはずだった・・・

2022年10月、パーソルキャリアのタイ支店に赴任。150人規模の支店で、日本人が8人、あとは現地で働くタイ人という環境であった。人材を求める日系企業向けの法人営業に配属となった宮原さんは、転職エージェントとして海外でも「人の可能性を広げたい!」と考えていた。ところが、理想と現実のギャップを目の当たりにする。

キャリアアドバイザーを通して聞こえてくる求職者の希望は、給与条件ばかり。「国によってこんなにも思考性に違いがあるとは……」。長年タイ支社で働く日本人に話を聞いても、「こんなもんだよ」との反応にショックを受けた。タイへの赴任前、福岡オフィスでは、海外志向を持つハイキャリア層を担当していたこともあり、給与条件のみでのマッチングに物足りなさを感じた。

理想と現実とのギャップに打ちひしがれながらも、会社の制度を利用して異動したこともあり、漠然と「1年はここで頑張らなければ!」と自分に言い聞かせていた。

「決断すること」の大切さ

それから2週間後の4月22日、冒頭にも記したように、宮原さんはアポの合間の日本食屋で、寺平さんの人生ストーリーの記事を読んだ。そして、寺平さんにメールを送った。

「お久しぶりです!デビさんの記事を読ませていただきました。デビさんの色々な思いが伝わってきたのと同時に、決断することの大切さがすごく胸に響きました。そしてつぶだてるの創業おめでとうございます!実はここでご相談があるのですが、今わたしキャリアアドバイザーを本気でまたやりたくて。もしつぶだてるさんの方でまだ採用など検討されてたら、ぜひお話しさせていただけないかと思いご連絡いたしました……」。

タイでの仕事のこと、もっと心の底からエネルギーを出して仕事に臨みたいこと、寺平さんへのメールを打ちながら、これまで自分のなかに抑えこんでいた思いが溢れてきた。

宮原さんからメールを受け取った時の、寺平さんの心境についても話を聞いた。

「彩乃ちゃんは幼い頃から海外志向を持っていて、パーソルに入社した時から海外拠点で働くとずっと口にしていたんです。読書会で会う度にそろそろ海外に行けるかも……という話も聞いていました。社員を採用したいと考えた時に彩乃ちゃんが思い浮かんだんですが、やっと念願のタイに行けたところだし絶対無理やと思って声をかけなかったんです。変に気を遣わせてしまうだろうと思ったし。だから彩乃ちゃんからメールをもらった時、ビックリしました。まったく想定外のところからいきなりメールがきた。俺はなんなら今すぐウェルカムやけど……と思いながら一度話をすることにしたんです」。

タイ・バンコクの日本食屋から、日本にいる寺平さんにメールを送ると、すぐに返事がきた。2日後のタイ時間の朝9時、日本時間の11時、ふたりはオンラインで再会を果たす。

「『つぶだてる』で一緒に働きたいです!」

宮原さんは担当直入に思いを伝えた。メールで宮原さんの思いを知ってはいたものの、海外勤務への強い気持ちも知っていた寺平さんは、その第一声に驚いた。

「ほんまに?ほんまに辞めるの?」と、何度も尋ねた。

宮原さんに迷いはなかった。その場で処遇条件の話もして、後日、つぶだてる執行役員の西山さんとも顔を合わせた上で会社に退職を申し入れた。

「『つぶだてる』であれば、信頼できる寺平さんのもとで全力で働くことができて、自分の可能性を広げていくことができると感じたんです。新しい道が見えてきたら、その日から人生がめちゃくちゃ楽しくなりました」

宮原さんが見つめる未来

2023年8月、日本へ帰国した宮原さんは、株式会社つぶだてるに入社した。

「いま、社会に出て一番楽しいです!」と、満面の笑を浮かべる。

「社長との距離も近く、自分の頑張りがどう会社に影響を与えているのかがハッキリとわかります。だからこそめちゃくちゃ頑張りたい!これまで働いてきてこんなに自分のエネルギーが上がることはなかったんです。『つぶだてる』も『合同会社こっから』も、働いている人たちが好きなので、自分が頑張ることがそのひとたちに対してもプラスになるのが嬉しいです」。

一番になりたい、首席で卒業したい、新人賞をとりたい、海外へいきたい……。
これまで宮原さんは、「なにをしたいか?」を軸に意思決定をしてきた。目標達成に向けてがむしゃらに突き進むことで新人賞をとり、海外で働く希望も叶えたはずなのに、物足りなさを感じる自分がいた。

「……で、私はどうありたいの?」

自分自身と向き合った。

「目の前の人の可能性を広げ続けたい。どんな人に出会ったとしても、その人にとってプラスになるような自分でありたい」

宮原さんは、自分のありたい姿を寺平さんに重ねた。

2019年に合同会社こっからオフィスのリニューアルパーティーで糸島を訪れた時、直感的に「ここじゃん!」と思った。

「あの時から心のどこかで、『いつかここで一緒に働けたらいいな』と感じていたんだと思います。出会うべきタイミングで出会って、入るべきところに入ったのかもしれません」。

幼い頃から夢中になれるものを探し続けてきた宮原さんは今、表彰台ではなく、思いっきり自分を表現できる無限のフィールドを見つめている。

ランチに注文していたスパイスカレーをささっと食べ終えると、

「行ってきます!」と、ニッコリ。

颯爽と企業アポに出かけていった。


                   

                   (インタビュー・文=さおりす



最後に
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