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「待ち時間」の中にある豊かさ。僕はもうすぐパパになる。

「待ち時間」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。

僕の場合は、エスカレーターでの待ち時間がまず浮かぶ。歩みを止め、その場で立って到着を待つというのがなかなかできない。根っこにいらちな関西人の血が流れているのだろう。もはや階段を歩く。なんなら階段で一段飛ばしで駆け上がる。脚の筋トレにもなるし、心肺能力も高まる。一石三鳥やで。

もしくは、病院のそれであったり。人気ラーメン店のそれであったり。待ち時間というと長く退屈な時間を思い浮かべることが多い。

それは見方を変えると、この資本主義社会の中で自分が何も生産していないということに一種の焦りを覚えているのかもしれない。何か生み出さねば、生産的であらねば、と無意識的に思っている節さえある。故に本を読んだり、Podcastを聴いたりと待ち時間を意味あるものにしようとせわしく過ごしている。

僕にとって待ち時間は基本的にしんどいの象徴なのだ。

一方で待ち時間といっても一概に全てがしんどいというわけでもない。例えばそれは宝くじの発表待ちであったり、遠距離恋愛で久々に恋人と会えるシンデレラエクスプレスあったり。何かを待ちわびているひとときはむしろ心が沸き立つ。

ただテクノロジーが発達した現代だと、宝くじの当落確認のために新聞紙を1ページずつ繰るひとときは減り、いつ現れるかわからない恋人を駅の改札で待ち続けるということも減った。便利になればなるほどそもそも待つことが減り、この類の喜びは少しずつ減ってきているのかもしれない。

JR東海 X'MAS EXPRESS CM(1989年)より

テクノロジーの恩恵を受けると同時に、待ち時間の中にあったはずの喜びをいつの間にか忘れてしまった現代人。多分にもれず、僕もその一人だと思う。ふと立ち止まってそんなことに気づいたのは生命の摂理と向き合ったことがきっかけかもしれない。

私ごとだが、今月、パパになる。赤ちゃんが生まれてくるまでの約10ヶ月という時間は、テクノロジーが発達した今も昔もおそらく変わらない。この長いようで短い待ち時間の中には普遍的で、けれども忘れてしまいがちな豊かさがあった。

Photo by Yuriko Kasai

夏。うだるような暑さの中でセミは鳴き散らし、山手線の車輪が鉄路と擦れて都会を奏でる。何も変哲もない日常の音の編み目に小さな心拍が加わった。その音は、音としてはまだ聴こえない。けれど、確実に存在する音だった。待ち時間の中には知らない音と出会う豊かさがあった。

秋。妻の服の伸縮が飽和状態になる。化繊が伸縮するなんて別になんてことのない現象すら、命が大きくなる象徴だった。お腹に手を当てればたまに振動がくる。人工的なハプティクスではない、天然の振動がそこにはあった。待ち時間の中には非言語のコミュニケーションで通じ合う豊かさがあった。

冬。そろそろ名前を、とメモ帳にアイデアを書き残し始める。漢字、ひらがな、読み方、画数。見慣れた文字がそこにはあるのだが、それらを改めてテーブルの上に広げてみて一文字一文字、丁寧に口に含む。あまい、しぶい、さわやか、あまい。一晩置いてみると熟成されてまた味が変わる。待ち時間の中には文字を味わうという豊かさがあった。

春。出産が近づくにつれて妻と散歩をすることが増える。家の近所をせっせと歩き、公園に立ち寄る。そこには春の訪れを知らせるかのように梅が満開になっており、春特有の香りがあたたかな風に乗ってくる。これはすでに知っている香り。けれど新しい香りだった。マスクを剥ぎ取りながら深く息を吸うと、喜怒哀楽のどれにもカテゴライズされないポジティブな感情が梅色の香りと接続し脳内に焼きつく。多分、これから死ぬまで梅の香りを嗅ぐとこの感情を思い出すのだろう。待ち時間の中には香りと感情を反芻する豊かさがあった。

待ち時間も悪くない。

むしろ待ち時間の中には豊かさがある。そこに気づけることは人生を彩るための一つの要素だとも思う。そして裏を返すとそれを気づけない状態は自分が人間らしく生きられていない一つの指標になるのかもしれない。

効率化の世界の中でいつしか忘れてしまっている日常の豊かさを、いま一度気づける感受性を持ち合わせてパパになっていきたいと思うのです。

Photo by Yuriko Kasai

僕はもうすぐパパになる。

Photo by Yuriko Kasai

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