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今日は命の日【死という選択肢】死ぬことに失敗した私からあなたへ


この記事は自死をテーマにするので

ものすごくデリケートでセンシティブな内容です。

(読み進めるかどうかは自己責任でお願いします)


2020年は残すところ1ヶ月となり

2000年に一度の大転換期と言われてましたが

本当に私にとっても重要な学びの深い年でした。


・・・


今年は私が知っているだけでも著名人11人

・元衆議院議員三宅雪子 ・木村花 ・鷹野日南
・三浦春馬 ・濱崎麻莉亜 ・芦名星 ・藤木孝
・竹内結子 ・関根拓 ・津野米咲 ・窪寺昭

自ら命を絶ったと報道されました。

(この内6名については他◯の可能性もあるようで

 私自身かなり強く他◯だろうと感じてます。

 疑問に思う方は調べてください)


そして

親しい友人が1人

お世話になった先輩が1人

親類が1人

自ら命を絶ちました。


今年は今一度改めて「命」というテーマにじっくり向き合え・・・

そういう宇宙のメッセージだったと強く感じています。

だから・・・

自分のこれからの「生」を見つめ「死」への思いを整理するためにも

「自死」について書くことにしました。

これまで決して他人に口外しなかった過去にも

言及しようと思います。


<命の火を消そうとした過去>


「自殺大国」と言われる日本において死にたいという感情は

思った以上に多く存在し身近に潜んでいることは間違いありません。

「死にたい」と思うことがさほど珍しくない世の中。

子どもたちにとっても日本は本当に厳しい状況です。


「死にたい」は人それぞれにその思いの「重さ」も異なり

逼迫度も全く違います。

しかもその違いはなかなか表面化されません。

同じ「死にたい」という言葉の裏に

計り知れない闇が隠れている可能性があり

またその闇の深さや広さはその本人にしか分からない、いや

本人ですら自覚できないという不透明さがあります。



私にも深く深く出口の見えない闇に包まれた時期がありました。

そして、内から湧き上がる「死にたい」の思いに忠実に

行動を起こしたことがあります。

「生きる辛さ」が

「死ぬ怖さ」に勝った瞬間・・・

「生きる意味」を見失い

「死に甲斐」を見つけた瞬間でした。



ある日の真夜中、私は両親宛、我が子宛の遺書を書き
首吊り用のロープを仕掛け用意しておいたおむつをはきました。
深々とターバンをかぶりマスクをして顔を覆いました。
なるべく発見後にお世話になるであろう誰かに見苦しい姿をさらすまいと
できる限りの準備をしたつもりでした。
ロープに手をかけ輪の中に頭を突っ込みあとは足元の脚立を倒すのみ。
「もうあと一歩。これで全てから解放される。」
なのに・・・
なかなかできないんです。
あれほどまでに望んだ「この世との別れ」が目の前に迫ってきたと思うと
無償にこの世への未練となんとも言えない空虚感が襲ってきて。

次から次へと涙が溢れ・・・
息をするのも難しいくらいに泣きじゃくっていました。

「死にたい」のに「死ねない」
「死ねる」のに「死ねない」

この苦しさ、情けなさはたぶん体験した者にしか分かりません。
ありえないくらいブルブルと震える手は
自分の全体重を必死で支えるかのようにしっかりと
ロープを握りしめていました。

そんな葛藤の時間が10分くらい続いたと思います。


結局私は・・・死に(ね)ませんでした。

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あれから月日は流れ今も私はこの世に生きているわけですが

死に損なったからといって決して

あの時の「死にたい」が嘘だったわけでも

軽い気持ちだったわけでもないし

もちろん

死ななかった自分に未だ「可不可」の判断を下せていません。


ただ、私はあの体験から多くのことを学んだと思っています。その意味でも

死のうとした自分を恥じてはいません。



<自分のためだけに生きていい>


あなたは自分勝手に生きていますか?

もしあなたが今少しでも「死」を望んでいるならその前に一度

ありとあらゆる責任を放棄して自分のためだけに生きる選択肢を

自分に与えてほしいと思います。

世間から押し付けられる「美徳」を無視してほしい。


世の中には「他人のために生きる」人を徳のある人だと称賛し

素晴らしいともてはやす傾向があります。

そこを目指して生きることを少なからず求められます。


自分を犠牲にし他者へ尽くせば尽くすほど

皆から認められ尊敬される・・・・


それ、一旦手放してください。


もちろん他人のために何かをするって素晴らしいことです。

自分のやったことで誰かが笑顔になるととても嬉しいし充足感を感じます。

でも間違わないでほしい。

それは

「誰かの幸せが自分の幸せ」でありかつ

「自分の幸せが誰かの幸せ」である場合の話です。

決して

「あの人が幸せなら自分は不幸でもいい」ではないことを

忘れないでください。



誰かのために生きるということは

自分のために生きることからの「逃げ」でもある。

私は自分の体験から痛感しました。


私たちは皆、自分のために生きる義務があります。


自分自身を幸せにする責任があるんです。

自分の人生に対する責任を他人に転嫁してはなりません。


辛い 悲しい

苦しい 虚しい


仕事?

そんなの辞めてしまえばいい。

人間関係?

嫌ならすべて切ってしまってかまわない。


今あなたを悩ませてる何かは死ぬ以外では解決できないことですか?

「自分のためだけに生きること」を選択しさえすれば、もしかして

もっと楽に生きられるんじゃないですか?



他の誰でもなく、「自分のためだけ」に

生きることを考えてみてください。

『誰かのため』に辛いことに耐え、頑張っているのなら

それって本当にあなたのしたいことか考えてみてください。


自分を幸せにすることから逃げていませんか?

神さまはあなたに

「自分を粗末にして誰かのために生きるように」と

命を与えたのではありません。

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誰のために、何のためにがんばってますか?

好きな人のため 我が子のため 親のため 貧しい人のため 

上司のため 友人のため 国民のため 会社のため...



それはとっても素敵なことです。でも

自分のためってのが抜けてませんか?

・・・そしてね

考えに考えて、それでもなお「自分のために」死ぬことが必要だって

本心から望んで笑顔で言えるのなら・・・


私はその選択、否定しません。



<死にたいも大切な感情>


「死にたいと思ってはいけない」

「死にたいなんて口にしてはならない」 

そうやって気持ちを押し殺さなければならないことほど

孤独で苦しいものはありません。

私が実際に味わったことなので間違いありません。

押さえつけられてしまった辛い気持ち、苦しい気持ちは

行き場がありません。

もちろん消えることなく和らぐこともなく胸の奥深く溜まっていきます。 


確認したいんですが

「死にたい」って決して弱い人間の言葉じゃありません。

「死にたい」と思えるほどに情熱的に懸命に「生きている」。

そんな強い人間だからこそ抱く感情です。

半端にただなんとなく生きている人間に

「死にたい」という思いは生まれません。

だから

「死にたい」と思ったらまずはこう感じてください。


死にたいと思えるほどに自分は懸命に生きている。

実は死にたいと同じくらいエネルギッシュな「生きたい」を

魂の奥底に秘めてるんだってこと。


誰よりも誠実に自分の人生と向き合い必死に命の火を燃やしているんです。

だから自分を労ってほしい。

「よくがんばってるよ、えらいよ」と。


そしてね、ここからがけっこう重要で。

賛否が激しく分かれるところでもありますが・・・。

私は

「死ぬ」ことを選択肢に入れたとき人は今よりずっと生きやすくなる

と思っています。

人は選択肢が広がれば広がるほどそこに居場所を見出せます。 

 

だから

死にたいなら死んでもいい。ただし、絶対に

「自分のためだけに」 


これが「死にたい」に対して私が私に出している答えです。



<共に生きる者として>

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「死にたい」と口にする人は嘘などついていません。

心の中には確実に「死にたい」があります。

その大きさや実行できるかどうかなんて全く問題ではありません。  

誰かが自死で亡くなると、人々は

「どうして言ってくれなかったのか」と苦しみます。

「そばにいたら止められたのに」と悔やみます。  

だけど、その人々の中に「死にたいなんて軽々しく簡単に言うな」

という人たちが混じっていることを私は知っています。 

「生きたくても生きられない人がいるのに」 

「親が産んでくれた大切な命を自分で消すなんて最低だ」  

だから「死にたい」なんて簡単に

言うべきではない。

考えるべきでもない。



テレビの世界でも現実世界でもこんな言葉で

自殺を止めようとする人たちがいます。

私はその人たちにとっての「簡単」がどの程度かわかりませんが

その言葉たちこそが死にたい人の背中をさらに押すのではないか

と思っています。


「死にたい」は、究極のSOSです。


もし死にたいとこぼした後に実行に移さずに

美味しそうにご飯を食べていたとしても

それは「死にたい」を吐き出せたからそうできてるだけ。

確かにそこに死は迫っていた。

だからもし誰かに「死にたい」と言われたらまずは

受け止めてほしい。そうなんだねって。

頭ごなしに否定したり

叱咤激励したりとかはやめてほしい。


 「死にたい」


誰もが口にしていいと思います。

むしろ口にすべきとさえ思います。

「死にたい」を素直にダイレクトに伝えられる相手がいること・・・

伝えても全て受け入れ認めてくれると信じられる相手がいること・・・

もし自殺を食い止めたいのであればこれが

最大の力になるだろうと思います。  


死と隣合わせの人間と共に生きる中で私たちに必要なこと。

死んでしまってから「伝えてほしかった」と嘆くのではなく

死んでしまう前に、伝えられる環境を。

そして決して「死にたい」を否定しないってこと・・・。



<全ての死が自死という捉え方>


歳を重ねるにつれ・・・

大切な人の死を経験するにつれ・・・

私の中で膨らんできた考え方があります。

病死や事故死を含めすべての死が自分が決めて選んだ死であり

つまり自死なんじゃないかという死生観です。


基本的に皆、顕在意識では「死にたくない」と思っています。

「(長く)生きる」ことを目指してます。

でもここでいう「自分が決めて選んだ」というのは

潜在意識レベルで・・・ってこと。

例えばこのまま生き続ければ
自分という肉体としてのバランスも
この世に生きる生命体としてのバランスもとれなくなる・・・
そういった場合は病気になったり事故にあったりして
自分の「生」を終わらせるんじゃないか。
(世の中は陰陽の法則で成り立っているし必要なことしか起こらない)

輪廻転生という考え方がありますが

「生きる」ために「死」に「死ぬ」ために「生きる」

その意味を私なりに少しずつ理解しつつあります。

「いつ死ぬかわからない」とよく言いますが、実はそれは

ちょっと違うかもしれません。

魂レベルではきっと死に方も死ぬ時間もすべて

自分で決めてるんじゃないかな。


「生」と「死」は両極にあるものではなく

となり(背中)合わせ。表裏一体。

どちらかだけに価値を見出しフォーカスしていると

本質を見失う気がしています。

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死を口に出すことを忌み嫌い死を「悪」とする価値観こそが

世の中の生き辛さを助長し人々を苦しめている・・・

そんな気がしてなりません。



<今日だけ生きてみる勇気>


いつでも死ねる。だから今日だけ生きてみたら?


矛盾してるかもしれませんが「死」をさほど否定しない私もやはり

「生」への希望は捨ててません。

人生は、たぶん「今だけ生きてみよう」の繰り返しです。 


誰もが

生きる権利をもっているし

死を選ぶ自由をもっていい。

生きるのも死ぬのも「自分のために」。

いつだって死ねる。だから今日だけ生きてみよう。


私が今アナタに送ることのできるメッセージです。


そして私は今日も自分のために・・・

生きることを選んでいます。



合掌


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