見出し画像

67 姫風題(ヒメフウダイ)

 金曜の夜には届くはずだからと、あてにしていた飼料が滞ったのは予告も無しに起こったストライキの影響で、いつ日常が戻るのか三日経った今も先行きが見えない。

 こうなるとこちらで自給するよりほかになく、これもまた三日ほど降り続いている長雨の影響からまだぬかるみの残る草地で草を刈っては集めるが、さすがに人力ではたいした量にならない。それにこれはそのまま与えるのではなく、一旦フィルムで巻いて、日にさらして、充分発酵させてから与える必要があるのではないか。その証拠に、彼らを外に出しても青草を食んでいるところを見たことがない。

 何があっても餌だけは切らしてはならないと口酸っぱく教えられた以上、こちらとしても手を尽くしてはいるものの、どう見積もっても二日持たず、もしかしたら明日には底をつくかもしれない。

 と、頭を抱えていると、畜舎で悲鳴が上がる。

 急いで駆けつけると、一匹が血まみれで死んでいる。

 特別厳重に三重の電気柵を張り巡らせているこの畜舎に、野良犬が侵入したとも考えがたく、実際その形跡もない。ずたずたに引き裂かれた死体を見れば事故でもなさそうだ。となると共食いしたのだろう。あらためてよく見れば、死体は革袋のようにしぼんでいて内臓が綺麗に無くなっている。まだ餌を切らす前だというのに、こちらの状況を察したのだろうか。未来の飢えをしのぐために今仲間を食べたのか、それとも口減らしをしたのか。まさかそんな知性があるとは思わないが。そうか、動物の内臓は食べるのか。

 ……と、あれこれ考えてから、ふと思う。

 彼らは草食ではなかったのか。

 いつも指示の通り漫然とサイレージばかり与えていたのだから勝手に草食だと思っていたが、実は生肉もいける口なのか。薄暗い畜舎のなか、闇にうごめく彼らをライトで照らしてみると、さも平然と、何事もなかったかのようにぼうっと突っ立っていたり、隅で丸まって寝ていたり、ぴょんぴょん飛び跳ねていたりする。そうした彼らの一匹一匹を検分してみると、何匹かの口や胸元が血に濡れている。

 やはり彼らは雑食で、状況次第では肉を、それも仲間の肉をも喰らうらしい。

 いつにも増して戸締りを確認し、畜舎を出、部屋へ戻り、臨時レポートを三割方作成しかけたところで、迷いはしたもののエマージェンシーコールを取った。ワンコールで繋がったのはいいが、そこから担当へ取り次ぐのにしばらく時間が掛かったのを鑑みると、余所でも似たような事態が起きているのかもしれない。

 やがて出た男の声には微かに聞き覚えがあった、記憶が正しければ恐らく、この仕事を始めるにあたって行なった面接の場に居た、白髪交じりの髪を撫でつけた五十絡みの男だろう。状況をありのまま伝えると、男は言った――今後何があっても畜舎の扉は施錠したまま開けるな、こちらの担当者が到着するまでそのまま待機せよ。それは餌やりも床替えも何もせずただ待てということなのか、と聞くと、そうだ、と答える。担当者はいつ来るのか、と聞くと、現在手配中だ、と答える。電話口から聞こえてくる背景の雑音はさも忙しそうなうえ、男の声の調子もどこか冷静さを欠いているような印象を受ける。だいたい、あれほど餌を切らすなと厳命した手前、これは矛盾した指示ではないか。少なくとも明日一日分くらいは持ちそうでもあるし、刈った草を飼料に混ぜ込めば二日は持たせられるかもしれない。

 と、提案するまえに電話を切られた。

 畜舎のほうでまた悲鳴が上がった。

 夜はいつもおとなしく寝ているはずが、なぜ今日に限ってこうなのか、と考えるとやはりこちらの状況を察する能力が備わっているとしか思えない。特に出来ることはないものの、気になって畜舎の前まで行くと、これまで聞いたこともないような唸り声と、明らかに草でないものを噛みしだくにちゃついた音がする。

 ふと悪酔いしたように目が回り、寒気が走る。

 彼らの変わりように動揺したというのではなさそうだが、しばらく続く長雨で体調を崩しかけているのかもしれない。トタンを叩く雨の音が、それを意識すると急に耳にこびりついて離れなくなる。もしかしたら先ほどの不穏な音は雨による錯覚だったのではないか。と、今度は扉に耳を付けてしっかり聞いてみると、さらに眩暈がひどくなったので急いで身をはがす。

 部屋へ向かう最中、三度目の悲鳴が背後で長々と、尾を引くように、しまいには悲しげに響いた。

 頭がぐわんぐわんする。

 三割方仕上がっていた臨時レポートをどうにか五割程度の出来に持ち込んでから、やはり心配になって再度エマージェンシーコールを取る。男にありのままを伝え、次いで先ほどしそびれた提案をする。

 残りの飼料にこちらで刈り集めた青草を混ぜたものを与えれば二日は持つので、餌やりだけは行うつもりである、と述べると、男は何やら取り乱したようにわけのわからないことをわめき出した。状況が切迫して冷静な判断を行うことができなくなっているように思われたし、何より意思の疎通を図ることができなかったので電話を切る。

 もう本部のほうに頼ってはいられないようだ。いずれ応援が来るにしても、どうにかしてこの場は独力で保つよりほかにないらしい。

 と、決意を固めたところでまた悲鳴が響く。

 唐突に吐き気がして思わず膝をつく。

 どうするべきか。

 今飼い葉を補充すべきか、それとも夜明けを待つべきか。

 当然ながら夜中に給餌などしたことはなく、これまでその必要さえなかったのではある。しかし今は明らかに非常時であって、まさに非常な対応が求められる局面だろう。こういう時にこそ活躍しなければ、何のためにこの人里離れた山奥に常駐しているのかわからないではないか。

 と、意を決して部屋を出る。

 いつのまにか、雨は見たこともないほどの大降りとなっている。

 雨粒と雨粒とがくっつきそうなくらいの土砂降りのなか、ふくらはぎまで水に浸かりながら飼料小屋まで行くと、案の定小屋も床上浸水している。

 最後に残った飼料の袋が水に浮かんでいる。

 昼間に青草を刈って集めておいた麻袋も水に浮かんでいる。

 浮かんでいるということは中身がまだ完全には濡れていないということだろうと、そのまま引っ張っていって畜舎へ向かう。幸いなことに畜舎は少し高いところに作られているので、浸水の被害はない。

 ふたたび畜舎の扉の前まで来たとき、もう何度目か数えることも忘れた叫び声が、間近で響いてくる。

 強烈な眩暈に思わず倒れ込むと、扉の下の隙間から赤黒い液体があふれてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?