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【短編小説】まぁるいメガネのその奥に

 大学一年の夏、フォロワー数が四桁になった日はお祝いにホールケーキを買って一人で食べた。半年後、フォロワー数が五桁になった日は彼女に内緒で高い風俗に行った。文章だけをアップするSNSで、言葉だけで、この人気を集めた。正真正銘、俺。濃縮還元。そこにちょっとした矜持みたいなものが生まれたのはフォロワー数が二万人を超えた日。つまり、一ヵ月くらい前の、東京に桜前線が到来した春の日。その日は特に特別なことはしなかったんだけど、強いて言えば俺に弟子ができた。弟子の名は丸井という。名前のとおり丸いメガネを掛けた痩せぎすの男だ。丸井は大学の講義終わり、名前もうろ覚えな友人たちとノリで飲みに行こうとしていた俺を待ち伏せて大学の門の前に立っていた。
「弟子にしてくれませんか。僕も、バズりたいんです」
 正直、俺は関わりたくなかった。ちょっと有名になるとこの手の厄介系オタクというか、自称ファンは掃いて捨てるほど湧いてくる。その筆頭のくせに俺のマネージャーみたいな顔をした友人Aが前に出た。
「ミノルの弟子になりたいなら、今日の飲み代奢ってよ。全員分!」
 丸井はそれを承諾した。割と前のめりで。「許可してねーぞ」なんて冷や水をぶっかけるわけにもいかない雰囲気に呑まれて俺もしぶしぶ了承した顔を作り、せめてもの嫌がらせにとちょっといい居酒屋を選んだ。ウニが乗った肉寿司と桜エビの刺身、鯛の酒蒸し、純米大吟醸の獺祭を気が済むまでリピートした。破産しろ、って勢いで。てかむしろ泣きついて欲しかったのに、願い叶わず顔色一つ変えないまま俺のフォロワー数を優に超える金額を支払った丸井が酔いも手伝って「兄貴って呼んでいいですか」とちょけるのに対し「兄貴はやめろ」と釘を刺すのが精いっぱいで、飯と酒で懐柔された自分が情けなかった。
 それから丸井はいつだって俺の後ろを付いてくるようになった。一度ちゃんと話そう。この関係に終止符を打とう。クズ男に沼る女の子みたいな心境で丸井を誘ったのは丸井のストーカー化から一週間が経った日。つまり今日だった。
「なんで弟子入りしたいん」
「今さら?」
「改めてな。ちゃんと聞いたことなかったろ」
 丸井は顎に手を当てて話し始める。
「僕ね、話が面白くないって理由でいじめられてたんだ。小学校から高校までずっと。てか地元が田舎だったから人の入れ替わりがなくて」
「そりゃ災難だな」
「高校三年の時かな。このままじゃだめだ、変わりたいって強く思ってさ。クラスの人気者のマネをしてた時期があったんだ。喋り方とか、間とか、声の大きさとか、けっこうちゃんと研究したんだよ。そしたら『マネするな』ってそいつにもいじめられて」
「ふーん」
 曖昧な返事とは裏腹に、俺はこのエピソードをどう書けばバズるか考えていた。アイスコーヒーを延々とかき混ぜ続ける俺を丸井がじっと見つめているのに気づいて、教訓っぽい言葉を吐く。
「多分そいつは余裕がなかったんだ」
「余裕?」
「そ。真似されて自分の人気がなくなるのを恐れたんだろ。そいつもオリジナルじゃなかったってこと」
 丸井は、豆鉄砲を食らってよろけた鳩が目から鱗を落とすような表情を浮かべる。
「僕、ミノルくんみたいになりたい。フォロワーがたくさんいて、友達も彼女もいて、余裕もある男に」
「いやお前なんで彼女のこと知ってんの」
 彼女は別の大学に通ってる。学内で俺に彼女がいることを知ってるのは中田だけだ。
「企業秘密」とメガネの奥から俺をじっと見た。どこまで調べてるんだ、丸井。
 やっぱりこいつは手元に置いておくべきだ。変に突き放して逆恨みされるくらいなら尊敬させ続けていたほうがいい。もはやストーカー化した客を操るキャバ嬢みたいな思考になってるが、仕方ない。とりあえず丸井の中での俺の地位を盤石にしておくとするか。
「なあ丸井。今お前が手に持ってるアイスコーヒーでバズらせてみろ」
「そんなの無理だよ」
「どう見せれば面白くなるか、って視点を入れろ。コーヒーから派生してブラジルに飛んだっていいし、店内をネタにしてもいい。アイスコーヒーって語感だけ拾っても、作り話でもオッケー。考えてみ」
「んー」
 たっぷり悩んだ丸井が差し出したテキスト。
『アイスコーヒーを飲んでたらコーヒーが好きになった。愛すコーヒー。』
 ダジャレじゃねぇか! もともとこき下ろすつもりだったけど、演じるまでもなく酷い出来だったので心からの罵倒を浴びせた。こんなのいじめられるに決まってる。お手本にと俺のバズった投稿をスマホに映して手渡した。

 さっき課題のためにスタバ行ったら店内で客が叫んでて、
 店員が宥めてもずっとクレーム付けるから行列になって。
 そしたら後ろに並んでるJKが
 「心の器shortでよろしいですか~?」
 って呟いて、隣にいた友達が
 「でも夜はMっぽくね」
 「それな、でもサイズはS。ウケる」
 って話したら顔真っ赤にして帰ってった。
 俺はカフェモカ吹いて睨まれた。
 ドMですまん。

 勲章みたいに並ぶ三万のいいねと一万の拡散。この投稿が俺の代名詞だ。丸井は穴が開くほど読み込んで、興奮しながら「こんなシーン出会ったことないよ」と言った。バカ言え、俺もねーよ。とにかく精進しろ、と言いまくってその日は解散した。
 その翌日から丸井は大学に来なくなった。

 高校時代から付き合っている彼女の朱莉は、俺がバズりまくっていることも、丸井と師弟関係を結んでいることも知らない。朱莉が知っているのは高校までの俺の姿だ。最近は理由を付けて朱莉からの誘いを断り続けている。正直、俺を子ども扱いする朱莉がそろそろ鬱陶しいし、何よりこれまでの自分を知っている存在は邪魔だ。大学デビューってわけじゃないが、俺の人生は大学一年の夏、あのバズから始まったようなもので、それまでのパッとしない自分のことはあまり好きじゃない。朱莉といると強制的にその自分に引き戻されるから、無意識で彼女を避けているのかもしれない。それよりも佳奈と居るほうが楽しかった。フォロワーでセフレの佳奈は一つ年下の童顔の女の子で、休日はもっぱら佳奈と遊んでいる。
 まさに今日がその日だった。アリバイのために今日と明日は友人の中田といる設定にして、適当な自撮りを送り付けて適当にSNSにアップするよう頼んでから待ち合わせ場所へ向かった。
 佳奈と夢の国へ行った帰り道、駅前のコンビニで佳奈にゴムを買いに行かせた。佳奈は顔を真っ赤にして、帰ってくるなり俺の胸をぽかぽかと叩く。じゃれつくその手を掴んで強引にキスをすると「人が見てるよ」と初めこそ反抗していた佳奈も数回目のキスで静かになり、自分から唇を突き出した。俺はそれをスルーして「行くぞ」と歩き出す。「もう」と怒りながらも付いてくる佳奈の足取りは嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねていた。朝まで楽しんだ俺たちは、佳奈の作った朝ごはんを一緒に食べて、ふらふらのままお風呂に入って、またヤって、泥のように眠って、目を覚ますと夕方になっていた。換気扇の下で煙草を吸っていると、佳奈が「帰るね」とドアに手をかけていた。「駅まで送るよ」と俺もサンダルをつっかけて外に出る。夕焼けが茜色に染める大通りを並んで歩いた。
「帰ってなにすんの」
「んー、勉強しよっかな」
「勉強? なんの?」
「行政書士をね、目指してて」
「へぇ。堅実」内心、ちょっと焦った。
「卒業してからのこと考えたら、国家資格でも取っとくかなって。潰しも効くし。キョーミあるわけじゃないんだけどね」
「それって楽しい?」
 今のは俺らしくなかった。口に出した瞬間にそれが間違いだったと悟った。佳奈が前橋佳奈に、自分の人生に戻る音が聞こえた、気がした。
「ミノルから見れば楽しくないかも。でもみんなそうやって生きてるし」
「なんかダサくね、それ」
 俺は佳奈に期待しているから、こんなに必死なのか。きっと違う。俺は俺の焦りと恐れをぶつけているだけだ。
「そうかも。ミノルは人と違う視点でモノを見てるんだもん、分かんないよ」
 佳奈が突き放すように言った。不甲斐なく言い負かされる俺の姿。うん、そこそこバズりそう。
「もうここまででいいや。じゃあねミノル」
 そのまま背を向けて歩き出した佳奈の背中を見送った。またねって言わなかったな、なんて些細なことが気にかかる。今日は、なんか、ダメな日だ。
 佳奈の背中が見えなくなってからも、真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。ふらふら歩いて見つけた適当な公園に座ってSNSを眺めていると、ふと目に留まる投稿があった。百と少しのいいねが付いた、ブログ記事のリンクが貼られた投稿。
『令和を傾く浮気男の生態観察記』
 他人事とは思えずタップしてしまう。内容は調子に乗った遊び人の若者を観察し、その生態を暴こうというネタ記事だ。見る限りでは続き物らしく、俺が読んだのはその三本目らしい。他の記事もチェックしようと一度ホームへ戻るとデフォルメされた牛のアイコンが飛び込んでくる。ブログのタイトルは『九丼』。牛丼みたいな響きだ。どうやら全体的に俺の投稿と同じ系統で、街中にいる人を揶揄したり妄想を膨らませたりして意見を述べる個人ブログだった。その中でも決定的に違うのはその方向性だ。まず目につくのは気持ち悪いほどの観察眼。着てる服だけでそいつの家族構成をプロファイリングしている記事もあった。そして、ほとんどが暴走した妄想なのに、読んでいると「確かにあり得るかも」と思わせられる文章力。読む人を選ぶ気はするが、目に映った風景が地球を一周して目の前に戻ってくるような、長ったらしくも奇妙な心地よさがあるのも事実だった。
 ふと気づくと辺りは完全に暗くなっていて、すっかり読み入ってしまっていた。そろそろ帰ろうと立ち上がると、スマホが震える。朱莉からのチャットだった。
『今家にいるんだけどどこにいる?』
 さっと血の気が引いた。

「正直に話して」
 正座する俺と、冷たい目で俺を見下ろす朱莉。端的に言えば、浮気がバレた。
 表向き、俺は昨日から今日の夜まで中田と一緒に居ることになっている。もともと俺が好き勝手に佳奈と遊べたのは中田の尽力が大きく、今回も『中田と遊んでる』という完璧なアリバイ工作で俺の潔白は守られていた。中田は俺と朱莉の共通の友人で、朱莉も連れて何度か一緒に飲みに行ったことがある。中田は朱莉とSNSを交換していたからアリバイ工作にちょうどいい友人だったんだけど、その中田の投稿がきっかけで矛盾に気付いたらしい。
 朱莉曰く、今日の昼間に中田の祖母の容態が急変し、彼は新幹線に飛び乗って地元の山形に帰ってしまったらしい。中田のアカウントに本来アップされるはずだった『ミノルと宅飲み!』というテキストと俺の写真はどこにもなく、代わりに『地元おひさ!』というテキストと広大な田畑を望む車窓の写真がアップされることとなった。中田の持ち前の鳥頭は、四年かけて築いた俺と朱莉の信頼関係を一夜でぶち壊す。あいつ、アリバイのために散々飲み代を奢ってやってたのに。
「中田くんは悪くないから」
 俺は先手を打たれて押し黙る。
「やましいことがあるから嘘ついたんだよね? 浮気でもしてた?」
 素直に謝って許される確率と嘘でやりすごせる確率とを天秤にかけて、後者を信じることにした。それが災いした。
「訂正するのが面倒でさ。本当は中田から断られたあと、一人で宅飲みしながらずっと映画観てたんだけど、ちょうど一瞬だけ買い物に出てたんだ」
「夕方来たけど留守だった」
 朱莉の視線がさらに冷たくなった。迂闊な十秒前の俺を呪う。あと中田も、中田の祖母も。
 でも考え方によっては間一髪だ。現行犯じゃない。入れ違いになっただけならまだ言い逃れる余地はある。推定無罪の原則に立てば俺はまだ戦える。立証責任は朱莉にある。
 いや、そもそも、俺はどうして言い逃れようとしている?
 朱莉は鬱陶しい存在なのに。
「もう好きにしなよ」
 朱莉から、聞いたことのない声が聞こえる。
「私の知らないところで何をしてるかなんて興味ないし。私は前の純粋なミノルが好きだったのにさ、ミノル、もうずっと変だよ」
 朱莉は俺に背を向けて、部屋を出ていく。
「ちょ、待っ」
 縋るように手を伸ばし、立ち上がる。瞬間、足がもつれた。
 長時間の正座で足がしびれていた。そのまま床に倒れる。
 玄関のドアに手をかけて振り返った朱莉と、目が合う。
「今までありがとうね。元気で」
 パタリ、と閉じられた部屋に静寂が戻る。
 じんじん痛む足を力なく叩いた。
 これじゃ、ただフラれた惨めな男だ。一方で、どう書けば今のエピソードがバズるかを考えている俺がいた。重症だった。落とした視線の先、ふと目に留まった本を手に取る。芸人が有名な賞を獲ったとかで名前だけは知っている小説。主人公も芸人らしいということは知っていたけど、古本屋で適当に買っただけで、特に興味はなかった。
 足の痺れが取れているのに気付いたのは、我慢できずにトイレに立ったとき。もう小説は中盤まで読み進めていた。結局そのまま朝まで眠れず、あとがきまでしっかりと読み終えてハイになった俺は、なぜか一限から大学へ向かった。

 友人ABCとの薄い会話で気が紛れたのも束の間、俺はすでに喪失感に苛まれていた。ABCが俺に向ける視線が、特別扱いが、虚しさを加速させる。対等な存在が欲しい。もしかすると彼女だけが俺を本当の俺にしてくれていた、なんてつまらない妄想だろうか。学食で味がしない日替わり定食を食べているとき、とうとう俺は席を立った。「トイレか?」と囃し立てるABCを無視して学食を出る。どうせここにいる意味はないんだ。もうこのまま退学してやろう。なぜか佳奈の顔がちらつく。なにが行政書士だ。国家資格だ。真面目はバカが生き抜くための武器で、俺には必要ない。俺は特別だ。動画とエッセイをアップして、その広告収入と投げ銭で食っていく。このフォロワー数だ。いくらでもやりようはある。本当に?
 学食を出たところで、俺は立ち止まった。
「おはよう」
「丸井。おはようってもう昼過ぎだぞ」とは言わなかった。そのセリフを吐かれて何でもないように笑うのは、俺のポジションだろ。
「お前、大学来てたの」
 代わりに吐き出した一言に丸井は恥ずかしそうに笑って「少し話そうよ」と歩き出した。中庭まで来ると、適当なベンチに腰掛けるや否や丸井が顔を寄せる。
「初めてブログの収入が入ったんだ」
 丸井は目を輝かせて、ひっそりと言った。声抑えんなよ。誰もお前の話なんて聞いちゃいねぇよ。
「ブログやってたんだ。どれくらい?」
「全然少ないよ。五百円で記事を売り出したら、昔から読んでくれてる読者さんが買ってくれて」
「じゃあ収入って、五百円?」
「うん。タメた割に金額がしょぼいね。ごめん」
「そんなことねーよ、大きな一歩じゃん。師匠として鼻が高いわ」
「ありがとう」
 本当に良かった、と口を衝いて出た。たかだか五百円で、という言葉は飲み込んだ。丸井に、五百円。丸井で、五百円。かえって自信が湧く数字だ。俺はいったいいくらになるんだろう。景色と思考のすべてにペタペタ値札が貼られていく。
「ミノルくんさ、昨日彼女じゃない人と歩いてたでしょ」
「それが?」不意に現実へ戻される。
「あの後何もなかった?」
 ドクンと心臓が強く跳ねた。わずかに遠のいていた朱莉の冷やかな視線がまた俺を射抜く。握った手にわずかに汗が滲んでいた。もしかして丸井は佳奈のことまで知っているのだろうか。
「何もって、なんだよ」
「遠目に見てても様子が変だったし、今日も顔色すごく悪いし、何かあったのかなって」
 その表情は真剣で、俺を本当に気にかけてくれているようだった。努めて明るく、簡潔に事の顛末を伝える。
「浮気が彼女にバレちまって。正座で詰められてちゃんとフラれたよ。フるなら正座させんなよって話だよな」
「フラれたの?」丸井は目を丸くした。
 実は俺を嵌めようと考えた丸井が背後で糸を引いて――なんて妄想も霧散し、俺はすっかり安心して詳細を話した。聞き終えた丸井は間髪入れずに言う。
「見る目のない人だね。純粋な頃のミノルくんってなんだよ。今が不純みたいじゃん」
 丸井はなぜか俺より怒っている。できた弟子だ。
「悪く言うのは気が引けるけど、自分の理想を押し付けてるだけに見える」
 すっと胸の内が軽くなる。そうか。そうかも。
「そもそも少し疑っただけでフるなんておかしい。口実求めてただけじゃん」
 確かにそのとおりだ。俺は浮気の決定的証拠を掴まれたわけじゃない。
「自分が別れたいと思ってたのに、それを相手の行動にこじつけて正当化しようとするなんて酷いでしょ」
 ぐうの音も出ない正論。俺も悪かったけど、それにしても朱莉にも非がある。
「そう言ってくれてちょっと気が楽になったよ。ありがとな」
「こっちこそ、師匠にはお世話になりっぱなしだから」
 実は丸井は傑物で、もっとずっと気が合う存在なのかもしれない。それから軽く雑談をして別れ、数歩進んで、そういえば俺は丸井に朱莉の別れ文句まで伝えたっけ、と立ち止まる。そんな些細な気付きはスマホに届いた一件の通知にかき消された。懐かしいグループ名が胸の奥の冷えていた部分をぽうっと温める。最新のメッセージには俺の名前があった。
『ミノルも絶対集合な』
 小学校の同窓会の誘いだった。

 関東に住んでいる友人だけが集まった非公式の同窓会は、安いチェーンの居酒屋からスタートした。唐突な誘いということもあって、集まったのは七人。もはやただの飲み会だった。月日が空いたとはいえ、かつて六年間毎日顔を突き合わせていた相手のことは顔を見れば全員思い出せる。俺のことも、全員が覚えていた。乾杯するまではぎこちない空気が流れていたテーブルに人数分のグラスが運ばれてくると、俺に視線が集まる。こういう音頭を取るのは俺の役割だったと思い出して、グラスを掲げて「乾杯!」と声を張り上げるとグラスがぶつかる音がこだました。
 全員のグラスが空になったあたりで、隣に座っている猿顔の杉野が「そうだ」と俺を指差した。
「ミノルってまだ芸人目指してるの?」
「は? 芸人?」俺は素っ頓狂な声を上げた。
「言ってたじゃん。卒業文集にも芸人になるって書いてたし」
「嘘つけ、酔ってめちゃくちゃ言うなよ殺すぞ」
「ひでぇ!」
 対面に座る町田が首肯しながら俺を見る。
「俺も覚えてるよ。ミノル、人を喜ばせる仕事に就きたいって言ってた。六年の時なんてクラスの前で一緒に漫才させられたし、俺」
 町田の顔をまじまじと見つめていると、当時のぼんやりした記憶に少しずつ色が取り戻されていく。黒板の前に立って漫才をしたことがあったような。
「そんなこともあったかな。あったとしたらくそつまんなかっただろ、思い出したくねぇ」
「そんなことないよ、なぁ?」
 町田はみんなの顔を見回した。全員が顔を伏せる。
「ほらスベってたんじゃねえか。杉野みたいにダダスベりしてたんじゃねぇか」
「俺は関係ないだろ!」
 するすると酒が進む夜だった。思い出話が終わり、それぞれの夢の話になったあたりで、俺の手がぴたりと止まった。俺はこいつらにありのままの自分を伝えられない。伝えたくない。
「ミノルは? 何かしてんの?」と町田。
「芸人だろ?」と杉田が揶揄う。
「だからやってねーっつの。やる予定もねーよ」
 グラスを持つ手が震える。自分で吐いた言葉に、どうしてか自分が傷ついていた。
「ミノル、面白かったのになぁ」
 ぽつり、誰かが何の気なしに吐いた言葉は当たりどころが悪かった。それからの記憶は曖昧だ。三軒目までは付き合ってから、その足で徒歩二時間の実家へ向かった。見慣れた戸建てに着く頃にはすっかり酒は抜け、夜も明けていた。

 合鍵で玄関を開けて靴を脱ぐと、キッチンから顔を覗かせた母親と目が合い、見つめ合う。タッチかよ。
「ただいま」
「どしたのこんな早くに。ご飯食べる?」
 首肯を返し、俺は居間を抜けて隣の部屋へ。そこには十歳で時が止まった小さな子どもの笑顔が立てかけられた仏壇。座布団の上に正座して手を合わせる。今日までのことを報告した。この瞬間だけは俺は六歳に巻き戻る。兄は、今の俺になんて声をかけるだろう。
「おーい」
 代わりに母親の声が響いた。居間へ戻り、向かい合って朝食を摂っていると母親が口を開く。
「どうしたの、突然」
 当然の疑問だった。俺も疑問だった。
「いやなんか……忘れ物がある気がして。取りに来た」
 ウインナーをつつきながらそう答えると、母親は不思議そうな顔を浮かべた。それからテレビのニュースにあーだこーだとコメントをする母親に適当な相槌を打ちつつ食事を終え、席を立った。
 二階の自室に入ると唐突に眠くなった。重い瞼を擦りながら部屋の奥で眠る段ボールや机の引き出しをまさぐる。タイムカプセルを開けている気分だった。汚い字で書かれた小学校の卒業文集には、杉野の言う通り『芸人になる』と書かれていた。文集と一緒になって出てきた、古びた一冊のノートが目に留まる。ぱらぱらとめくるたび、文字がぼやけていく。
 実家の玄関をくぐったときから、本当は思い出していた。忘れたくて仕方なかった古い記憶。小学一年生の時、四つ上の兄が亡くなったこと。涙が枯れるほどに泣いて、泣きはらして、ふと視線を上げたら両親がまだ泣いていたこと。よく冗談を言う親父がめっきり笑わなくなったこと。廃人みたいにテレビばかり見るようになった母の顔。暗くなった家庭を明るくしようと、ひょうきん者を演じ始めたこと。人を笑うんじゃなくて、人を笑わせたかったこと。
「こんなん、スベるに決まってんだろ」
 段ボールから出てきたボロボロのノートに、ぽたぽたと雨が降った。表紙にネームペンで書き殴られた『ネタ帳』の文字が滲まないように袖でぐいっと涙を拭う。あの日枯れたはずだったのに、まだ降るのか。今日で枯らし尽くしてやるつもりで、声を殺して、泣いた。
 
 背中が痛くて目が覚めた。ノートを抱いたまま床で眠ってしまったらしい。久しぶりに夢を見た。町田と組んで漫才をして、大いにスベる夢。でもそれが逆に面白くて、目が覚めてから何度も思い出して笑った。そのまま始発で自宅に戻り、速攻でシャワーを浴びてから服を着替えたところでスマホが震えた。丸井からの着信だった。
『暇なら会えない? 今最初に投稿を見せてもらったカフェにいるんだけど』
 丸井なりに凹んだ俺を気遣ってくれたのかもしれないと思い了承した。丸井には伝えなくちゃいけない。師弟関係を解消したい、と。カフェへ向かう途中、なんとなく佳奈に連絡してみると着拒されていた。不思議とダメージはなかった。
 カフェに着くと丸井は前回と同じ窓際の席に座り、背中を丸めてスマホを触っていた。日記もメガネも、背中までもがまぁるくなっている。肩をポンと叩くと、丸井は俺を見てにこりと笑った。あの日と同じように隣に座ってアイスコーヒーを飲んでいると、丸井が唐突に言った。
「最近さ、投稿してないよね」
「あー言われてみれば」もう一ヶ月くらい俺のアカウントは動いていない。
「僕はミノルくんに興味があるんだ」変な意味じゃなくて、と付け足す。「ミノルくんの目に世界はどう映るのか。どう言葉にするのか。気になってたまらないんだ。だから続けてほしくて」
「丸井」
 え、と丸井が目を丸くする。
「SNSやめる。師匠は、別のやつを探してくれ」
「え、は、なんで?」
「お前の言う通りだよ。でも少し間違ってる。映ったもんを言葉にするんじゃなくて、言葉にしたいように映し始めちまっただけなんだ、俺は」
「バイアスみたいな話?」
「いや。もっと感覚的な話。普段から何をどう書いてるかでモノの見え方まで侵食されてくるってこと。俺が、見るもの全部どう書けばバズるかって視点でしか捉えられなくなってたようにな」
「それがミノルくんの持ち味じゃないか」
「でもさ、そんなことばっか続けてたら目も姿勢もそうなっちまう。俺は別にバズるために生きてるわけじゃないし、」
 ――そんなことがしたかったわけじゃない。
「もっと素直に人を笑わせたい。人を笑うんじゃなくて」
 俺は丸井に兄のことと子どもの頃の夢を伝えた。もうこれで、俺のイメージは崩れるだろう。丸井は怒るだろうか。俺を嗤うだろうか。見下すだろうか。それならそれでいい。でも、できれば、友だちでいたい。
「俺さ、もう一回原点に戻ってお笑いをやってみる」
 そう告げると、丸井は大きな動きで拍手をした。アメリカ人か。店員と客の注目が集まるのに気づいて、慌てて丸井の拍手を制止した。
「何やってんだ」
 丸井は興奮した様子で「ごめん」と居住まいを正した。鼻息荒く、丸井は目を輝かせて言った。
「いい。いいよそれ。本当に感動した」
 ほっとした。のも束の間だった。
「あとさ、この話”も”ブログに載せていい?」
 グラスの中の氷が溶ける乾いた音が響く。丸井のまぁるいメガネが不気味に光り、その奥にあるはずの目は、もう俺には見えなかった。


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