結べ、関西と福岡!~港で繋いだ世界と日本~
皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、
ありがとうございます。
このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」や「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう、「アゴラ」のような場所を目指します。
私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。
さて、私は18歳まで福岡にて過ごし、大学4年間は東京で生活しておりました。今は仕事で関西・大阪で生活して4年目です。関西はかつて都があったり、貿易の拠点があったり、日本の歴史の中心を担ってきました。そんな、歴史の主人公である関西と、私の地元で、愛する福岡との繋がりをご案内いたします。
第2回のテーマは「港と交易」です。
拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。
1. 日本と南蛮を繋いだ港
皆さんは、「三津七湊」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?かつて日本の交易を牽引した大きな港町10か所の総称です。特に「三津」は日本国内だけでなく、海外との交易で栄えた大きな港です。
その1つが「堺津」です。現在の大阪府堺市の港です。江戸時代には「天下の台所」と呼ばれるまでに発展した「大坂」の礎を築きました。要は外港的な役割を持ってたんです。現在も大阪市と堺市は隣接しており、大阪メトロ御堂筋線も乗り入れ、大坂市街地からのアクセスも良い街です。日本に5つある、県庁所在地以外の政令指定都市でも大きな都市でもあります。
堺は現代もですが、歴史的にも大阪だけでなく、関西地方にとってかなり重要な場所でした。では、ざっくりその歴史を紐解いてみましょう。
時は安土桃山時代、この時代の主人公はもちろん織田信長でしょう。彼は尾張出身ですが、安土に城を構え、天下統一を目指していましたが、家臣の明智光秀の謀反に遭い、自刃することになります。まぁ、大事なのは彼の政策です。信長はキリスト教を容認し、西洋の文化を積極的に導入していきます。
1549年にフランシスコ=ザビエル率いるイエズス会宣教師たちが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を布教し始めました。その一味にルイス・フロイスという宣教師がいました。彼は他の宣教師らと共に京都で布教活動を行う中で、織田信長と親交を深め、安土城の築城に大きく貢献しました。その後堺に拠点を移し、日本中を転々とし、布教活動を進めていきました。彼が残した『日本史』という書物はとても重要な史料ですね。
キリスト教の伝播が影響し、豪華絢爛な「桃山文化」が形成されます。その背景には、西洋文化の流入があります。そしてその玄関口を担ったのが堺津だと考えることができます。宣教師たちの住まいもあり、大河の淀川河口も近く、文化の中心地である都の京都への移動も楽であった地の利も活かし、堺が日本の外港として大きく発展を遂げます。特に今までの日本の歴史にはなかった、「南蛮貿易」の拠点として、栄えていくことになります。「南蛮」とは、大航海時代の主役だったスペインやポルトガルといったヨーロッパの国を指しています。ベルギーの地理学者エイブラハム・オルテリウスが当時描いた日本地図には、多くは藩の名前が記られているのですが、都の京都と堺だけは、都市名として表記されており、いかに大きな街だったか、日本にとって重要な街だったかがわかります。
織田信長亡き後、天下統一を果たした豊臣秀吉は、大坂城を拠点に世を治めます。豊富な水資源を活用した都市計画で、大坂一帯を「東洋のヴェネツィア」と言わせるまで、水の都としての地位を確立させました。現在もその名残がありますね。大阪市の市章は「澪標」です。航路の標識ですね。大阪が発展していった歴史には、堺が深く関わっていたと言っても良さそうですね。
2. 日本と東アジアを繋いだ港
堺津が発展するおよそ750年前には開港していたとされる港が、こちらも「三津」の1つである「博多津」です。現在の福岡県福岡市の港です。博多はなぜそんな昔に港として台頭したのでしょうか。そのヒントとなるのも時代背景です。当時はどのような時代だったのか見てみましょう。
時は平安時代初期、遣唐使が活発に日本と唐を行き来し、大陸文化を持ち込み、国の発展に寄与していました。その玄関口となったのが博多津です。ここで、前回の『結べ、関西と福岡!~日本の文化を創った偉人~』の話を少し思い出してみましょう。当時、大宰府という行政機関があり、とても重要な場所でした。しかし、大宰府は内陸であったため、陸路でしか足を運ぶことが出来ない場所です。そのため、博多はその外港として、航路の玄関口として発展の足場を固めたのです。福岡市内では「鴻臚館」と呼ばれる当時の海外交易施設の跡が見つかっています。中国だけでなく、朝鮮半島との交易の歴史を示す、歴史的に重要な証拠とも言え、博多の発展の基礎を裏付ける施設とも言えるでしょう。
平安時代後期には、平清盛が日宋貿易を始め、博多も重要な拠点として指定されます。これが、博多を日本一の港に成長させたのです。日宋貿易を通じて、博多には多くの宋の商人が商館を構え、国際都市として大きく発展します。また、臨済宗の開祖の栄西が聖福寺を、同じく臨済宗の僧の聖一国師円爾が、博多綱首の宋人謝国明の援助により承天寺を開山し、経済界と寺社の結びつきも見られるようになり、大都市へと発展していき、博多の文化形成の役割も担いました。
福岡の伝統的なお祭りと言えば、「博多祇園山笠」と「博多どんたく」でしょう。山笠は聖一国師円爾が博多の街に流行る疫病を水を撒いて清めて回ったことが起源とされます。舁き手に水がかけられるのもこれの名残でしょう。今では世界無形文化遺産として福岡が世界に誇るお祭りです。どんたくの起源は「博多松囃子」と呼ばれるお祭りで、清盛の息子が博多にもたらした恩恵への感謝を示したのが始まりと言われています。今年は中止されていまい、とても残念でした。
さらに、食文化にも大きな影響をもたらします。日宋貿易で日本にやってきたもの、それが「うどん」!!!!!福岡は「ラーメン」のイメージが強いと思いますが、うどんも負けていません!実は聖一国師円爾が宋からうどん作りの技術を日本に持ち帰ったことが始まりとされ、円爾が開山した承天寺には「うどん発祥の地」の石碑があるのです。博多のうどんは茹で時間が尋常じゃないくらい長く、コシなし!箸で持てば切れることも笑 宋から持ち込まれた当時は、麺の原型すらとどめていなかったとか。私はうどんには目がないんです。自称「福岡うどん大使」なので、ぜひ、福岡へお越しの際はラーメンもですが、うどんもお召し上がりください!
博多は大陸に近いという地の利を活かし、東アジア世界との交易で日本の文化形成を支えてきました。世界文化遺産の「沖ノ島」も当時の交易の証拠を残し、「海の正倉院」と呼ばれるほど、大陸交易の遺産を残しています。日本最初の国際都市は博多と言っても過言ではなさそうですね。
3. 歴史でつながる旅行論~大阪と福岡~
ざっくりですが、大阪と福岡の港湾国際都市としての歴史を紹介してきました。この2つの都市には、ある共通した神社があります。大阪では「住吉大社」、福岡では「住吉神社」と呼ばれる、航海の守護神である住吉三神(ソコツツノヲ/ナカツツノヲ/ウハツツノヲ)を祀る神社です。特に大阪の住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社として名高い神社です。そう、大阪も福岡も、航海の神様が守る街なのです。
時代は違えど、日本を代表する港町だった大阪と福岡は、今では日本を代表する国際都市へ発展し、日本の経済をリードする存在です。それぞれの交易相手地域のカラーが歴史や文化に描かれ、世界と日本を繋ぐ重要な場所でした。この2都市の発展がなければ、日本の歴史も、大阪や福岡の雰囲気も大きく変わっていたかもしれません。でも、歴史に「たられば」は禁忌なので、この歴史を更なる都市発展や、観光産業の新規開拓に繋いでいくのが、現代を生きる私たちの役目だと考えてます。歴史を学ぶのは、未来に繋ぐためです。地域の歴史は、旅行にとっては格好の観光材料です。今後、日本を観光大国へ成長させるためには、この2都市のプロモーション力や都市整備力がポイントになると私は思います。
大阪と福岡には、日本と世界を繋ぐ力がある。
長くなりましたが、
今回も読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
Ciao...
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