見出し画像

マリア・テレジアという女

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」や、「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 「世界史」の勉強って、覚えることがいっぱい、横文字がいっぱいであんま楽しくないなぁって思う人が多いかもしれません。でも、海外旅行に行くってなると、「世界史」は必須科目。「この建物すご~い!」とか、「街並みキレイ!」とか、「本場のマルゲリータおいしい!」とか思ってるだけじゃ意味がない。全てに歴史が詰まってるんだから。少しでも勉強していくと、もっと旅行先に愛着が沸きます。

 というわけで、本日のテーマは「オーストリア」です。皆さんはマリア・テレジアという偉人をご存じでしょうか。オーストリアをかつて、ヨーロッパ最大の国家に、ハプスブルク家を世界最大の家族に導いた女性です。今回は彼女にフォーカスし、彼女の生き様と、中世オーストリアの歴史を紐解いていきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.オーストリア大公女として

 そもそもハプスブルク家は名家と言える家系ではありませんでした。スイス、フランス、ドイツの国境辺りの田舎出身の家系だったんです。しかし、1273年にルドルフが神聖ローマ皇帝に選ばれ、ルドルフ1世として即位します。この出来事が、初めてハプスブルク家の名をヨーロッパ中に轟かせた瞬間です。

 1278年には、自分の即位に不満を募らせていたボヘミア王オットカル2世との戦いが起こりますが、勝利しオットカル2世の追放に成功します。これがマルヒフェルトの戦い。この戦いによりルドルフ1世は王位をより強固なものにし、ハプスブルク家がヨーロッパ最大の一族になるきっかけを作りました。

 マリア・テレジアが生まれたのはそのおよそ450年後。ってことは相当な期間ヨーロッパの覇権を握っていたということになります。しかし、彼女が帝位に就いたのはハプスブルク家の勢力に陰りが見え始めた頃でした。

 マリア・テレジアは先代のハプスブルク家とは少し異なり、生粋のオーストリアっ子でした。1740年から始まったオーストリア継承戦争の最中、プロイセン王フリードリヒ2世が、オーストリア領有の、ヨーロッパ屈指の資源庫だったシュレジエンを強奪した際、彼女はひどく落胆したそうです。オーストリア愛の権化だったこの女帝は、オーストリア領を失うのを嫌っていたのです。

 彼女の信念は、「政治力=軍事力」シュレジエン奪還に政治人生を賭けます。外交役として登用したカウニッツがロシアの女帝エリザヴェータ、フランスのルイ15世とも同盟関係を構築させました。墺・露・仏の三カ国同盟は、地理的にプロイセン包囲網を形成し、シュレジエン奪還への準備がいました。これは俗に「3枚のペチコート」と呼ばれ、カウニッツの功績は「外交革命」と称えられました。彼女を隣国ハンガリーの援助を約束させ、「量も質も」完璧な状態で七年戦争へ向かいます。

 結果から言うと、シュレジエンの奪還は叶いませんでした。最高の状態で臨んだ七年戦争中、「3枚のペチコート」の一角を担っていたロシアのエリザヴェータが死去し、プロイセン寄りのピョートルが帝位に就き、一気に形成が崩壊し、オーストリア側は敗北を迎えます。

 最後まで戦い続けた彼女の姿は、オーストリア公女としての、オーストリアという国への愛を感じるものですね。

2.フランツ1世シュテファンの妻として

 1736年にマリア・テレジアはロレーヌ公のフランツ1世シュテファンと結婚します。彼は神聖ローマ帝国のローマ皇帝でありながら、マリア・テレジアと共にオーストリアの共同統治者として国政を司ります。

 政治の傍ら、この夫婦はとても仲が良かったようです。夫婦というよりは、ものすごく仲の良い家族だったようです

 マリア・テレジアは、元々先代の皇帝が狩猟のために使っていたシェーンブルン宮殿を夏の離宮として再利用するために整備させます。この宮殿の特徴は、外装が美しくもどこか優しさを感じる黄色であることです。これはよく、マリア・テレジアが黄色が好きだったからと言われていますが、実はそうではないです。

 本当は夫のフランツ1世が、整備を担当していた建築家に金で覆うようにリクエストをしたようですが、金銭的問題で不可能と回答されました。そこで妻のマリア・テレジアが、金に色が近い黄色の外装にしてほしいとお願いしたようです。「テレジアン・イエロー」と呼ばれていますが、実際は「フランツィアン・イエロー」なんですね。

 外部はバロック様式で、内部はロココ様式のシェーンブルン宮殿で、マリア・テレジアは、家族に囲まれ、多くの時間を過ごします。広大な敷地で子どもたちと踊ったり、歌ったり、遊んだり、幸せで自由な時間を過ごしていました。

 しかし、1765年、夫のフランツ1世が他界します。マリア・テレジアは食事もできないほど酷く落ち込んだようです。彼女は家族で美しい時間を過ごしたシェーンブルン宮殿の一角に真っ黒な部屋を設け、夫の死を悼みました。また、フランツが亡くなったインスブルックにある凱旋門に、レリーフを作成するなど、夫の名を後世まで残そうと努めました。

 彼女自身も、夫の死から自身の死まで、喪服しか着なくなりました。その間なんと15年。これほどにまで夫を愛した妻はこの歴史上にマリア・テレジアしかいないのではないでしょうか。彼女の愛は、国と同じくらい、いや、それ以上に夫のフランツへ向けられていたのかもしれません。

3.16人の子どもたちの母として

 前章の通り、マリア・テレジアとフランツ1世は大変愛し合っていたんです。その証拠にって言うのもなんですが、2人の間には16人もの子どもが誕生します。そう、彼らは決して政略結婚ではなく、本当に愛し合って結婚をしたのでしょう。

 しかし、彼女はその子たちを他国の王族や貴族と結婚させ、ハプスブルク家勢力拡大と維持のため利用します。言い方は良くないですが。これが、マリア・テレジアが推し進めた「結婚政策」です。

 例えば、息子のレオポルト2世をスペイン王カルロス3世の娘であるマリア・ルドヴィカと、娘のマリー・アントワネットをフランス王ルイ16世と結婚させます。その目的は、自身のように愛し合った結婚ではなく、政略結婚でした。背景には七年戦争で戦ったあの国の存在があります。

 第1章でも述べましたが、マリア・テレジアはプロイセンからのシュレジエン奪還に人生を捧げたのです。つまりは、ヨーロッパの覇権を一族で担えば、プロイセン以外を味方にでき、シュレジエンの奪還へ繋げることができるというわけです。

 実はもう1つ背景があって、絶対王政の絶頂期を迎えていたフランスと長年続く敵対関係を解消するためです。ハプスブルク家以上に強大な力を持っていたブルボン朝を味方に付ければ、ヨーロッパの覇権を掌握できるわけですよね。

 まぁ、ここまで書いたことを考えると、子どもたちは彼女の国政のための駒に過ぎなかったのかと思うわけですよ。多分そうだと思うんですけど。でも、マリア・テレジアは子どもたちに、たとえ政略結婚だとしても、自分たちのような夫婦関係を構築してほしかったのではないでしょうか。

 そして、これだけの結婚政策を進めたのも、対プロイセンもありますが、1番は「ハプスブルク」の名を守るためだったと思うんですよね。どこの国に行っても、自分たちの家族が迎えてくれるという、家族の輪と大切にしたのではないでしょうか。マリー・アントワネットの死に様も、マリア・テレジアが望んだ娘の歩みではないはずです。

4.マリア・テレジアが残した世界との繋がり

 1780年にマリア・テレジアはこの世を去ります。しかし、彼女が生きている間に視界に捉えていたものは、ヨーロッパ内だけでなく、世界全体だったのではないでしょうか。

 整備させたシェーンブルン宮殿には、1441もの広間があり、彼女の趣味であった世界各国の特産物収集の保管庫として利用された部屋もあります。要は、世界各国の文化の学びを絶やさなかった人間であったことが読み取れると思います。では、日本の部屋はあったのでしょうか。

 あります。「日本の間」という部屋があり、そこには佐賀県の古伊万里が展示されています。今や県の魅力度ランキング46位ですが、当時は恐らく世界でTOP10に入っていたのではないでしょうか。佐賀県民の皆さん、誇るべきですよこれは!

 そんなシェーンブルン宮殿は1996年に世界文化遺産に登録され、オーストリアの歴史と、マリア・テレジアの功績、ハプスブルク家の歩みが世界的に再認識されます。海外旅行に行けるようになったら、オーストリア旅行へ出かけ、彼女が現代に残したものを感じたいですね。きっと彼女の想いを感じ取れるはずですし、彼女がどこかから語りかけてるような錯覚を感じるのではないでしょうか。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
Ciao...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?