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神屋宗湛という男

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 久々の「福岡史」シリーズです。本日フォーカスするのは、博多の豪商・神屋宗湛(かみやそうたん)です。日本史の教科書には決して出てこない、彼が福岡に残したもの、偉人たちとの関係性を読んでいきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.頭角を現した織田期

 まず、全く彼の名前を耳にしたことがない方のために、ザックリプロフィールを。

名前:神屋宗湛(かみやそうたん)
生年月日:1553年1月14日
没年月日:1635年12月7日
職業:神屋家第六代当主、商人、茶人

 博多の貿易商人だった、神屋家の第五代当主である神屋紹策の子として誕生しました。祖父は超有名人で、なんと、あの、神屋寿禎。全くピンと来ないかもしれませんが、石見銀山に、大陸から「灰吹法」を導入し、飛躍的に石見を発展させたのが神屋寿禎。宗湛はその孫ということになります。

 宗湛が日本史上に名を上げた一番最初の出来事は、1582年5月に、同じ博多の商人で、親戚関係でもあった島井宗室とともに京都へ足を運んだ際、安土城にて織田信長へ謁見したことです。目論見としては、信長の保護を得ることで、博多における自らの地位を確固たるものにするためです。

 しかしその1か月後、思いもよらぬ事件に巻き込まれます。

 1582年6月、再び宗湛は島井宗室と上洛し、信長に謁見します。そのまま信長とともに京都へ宿泊しました。その宿泊先は、本能寺。1582年6月2日早朝、宗湛らは本能寺の変に巻き込まれたのです。その時宗湛は、信長が大切にしていた、『遠浦帰帆図』を、宗室は空海直筆の『千字文』を持ち出し、脱出に成功します。

 事が落ち着いて、三度目の上洛時に、博多とともに「三津」を成していた、堺の商人たちとの交流を深め、日本有数の商人としての地位を確立する足がかりをつくり、博多だけでなく、日本全国において、有力な商人として名を馳せることになります。

2.躍動した豊臣期

 信長の後継者として天下を治めた豊臣秀吉の時代に、宗湛は大きな功績を残すことになります。

 1587年、大阪にて豊臣秀吉に謁見した際、本拠地関西の堺や奈良の商人らもいる中で、最上席座り、秀吉から気に入られるようになりました。秀吉からは「筑紫の坊主」と呼ばれるようになり、豪商の特権を与えられたことで、博多の商人のトップの座を確立しました。

 その背景には、秀吉自身も、元商人であったこと、また、共通の趣味である、茶道で互いに歩み寄っていたことが考えられ、宗湛は大きな権力と、莫大な富を得ることになります。

 そんな宗湛と秀吉が、博多の街にもたらしたものは、「太閤町割」という、博多の復興事業です。日本トップクラスの港町だった博多の覇権を得ようと、中国の毛利、豊後の大友、薩摩の島津の3氏が争い、博多の街は荒廃していたため、その復興を、福岡をつくった黒田孝高(官兵衛)に命じ、秀吉自らも大きく携わった事業です。

 それに貢献したのが、神屋宗湛でした。秀吉の九州平定に資金面で大きな支援を続け、九州平定後の「太閤町割」においては先頭に立ち、博多の街の復興を成し遂げました。また、1592年の朝鮮出兵においても、秀吉軍の兵站補給役を務め、天下統一前後における秀吉の大きな力となり、名実ともに、博多の豪商、秀吉の側近として日本史上に名を刻みました。

 今の博多の街も、町割の区画通りに形成されており、中洲川端、呉服町付近は、京都のように美しい碁盤のような区画になっています。また、神屋家の名を冠した「神屋町」もその区画内に残っており、神屋家の功績を現代に伝える史料ともいえるでしょう。

3.冷遇された徳川期

 秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いに勝利し、天下人としての地盤を固めた徳川家康は、一族による統治体制を採るために整備を始めます。その中で宗湛は生粋の武将であった家康には気に入られず、権力に陰りが見え始めました。

 しかし、博多における宗湛の力は健在で、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属した、黒田孝高の息子で福岡藩初代藩主の黒田長政は、神屋宗湛を黒田家の御用商人として登用します。

 また、長政が福岡城を築城する際、資金面で大きく貢献しました。さらに、金銀、米などを多く献上し、博多商人と福岡武家との良好な関係を築くことに成功したのです。

 その後、博多の更なる発展に寄与していた宗湛は、1635年に病に倒れ、亡くなります。84年という、当時ではかなり長い時間を生き抜いた神屋宗湛。宗湛は、一緒に信長に謁見した島井宗室、福岡藩筆頭御用商人だった大賀宗九とともに、「博多の三傑」と呼ばれ、間違いなく彼が福岡・博多に残した魂は、今でも生き続けています。

4.今も残る神屋宗湛の面影

 正直福岡「市」は、観光地という観光地がないです。でも、歴史はすごい古いし、その時代のものとか、神屋宗湛のように、地元に貢献した人物関連のものは、たくさん残っていて、町割もそうだし、歩いててその時代に戻ることが出来るような感覚になれる不思議な街です。

 神屋宗湛の墓所は、妙楽寺というお寺にあり、かつて宗湛が住んでいた屋敷跡には、豊臣秀吉を祀った豊国神社が建っています。また、小説家の井伏鱒二は、歴史小説『神屋宗湛の残した日記』で、彼を描き、現世に伝えています。

 ご子孫は何をなさっているかというと、福岡市のフランス料理店「ビストロ・シェ・ラパン」のシェフをなさっており、福岡市民に愛される存在です。かつての宗湛と同じように。そこで使ってる銀食器が、石見の銀だったら面白いのにな、とか思ってます。福岡にいらした時はぜひ、舌鼓を打ってください。

 福岡・博多には地元のヒーローがたくさんいます。今後も皆さんにご紹介しつつ、福岡の魅力、歴史の面白さを発信出来れば良いなと思います。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。

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