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神の棲む地宗像・沖ノ島

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」や、「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 今回のテーマは、2017年に世界文化遺産に登録された、『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群です。私の地元福岡市から近いのですが、今回初めて訪れました。そこに根付いていた信仰との歴史を学んでいきましょう。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1. 国際交流の拠点と宗像三女神信仰

 まず、宗像・沖ノ島が世界遺産として登録された評価について見ていきましょう。宗像・沖ノ島に適用されている登録基準は以下の2つです。

(ⅱ):建築、技術などの発展において、重要な価値観の交流を示す
(ⅲ):現存あるいは消滅した文化的伝統または文明の存在の証拠を伝える

 登録基準(ⅱ)については、沖ノ島が古代日本において、東アジア地域との交流航路の守護神とされていたことが対象になっています。その交流で、当時の先進技術を用いた奉献品が納められ、それらを使い古代祭祀が行われていました。その古代祭祀の変遷を伝える考古遺跡が、ほぼ手つかずの状態で残っており、日本と東アジアとの価値観交流を示しています。

 沖ノ島から出土した奉献品およそ8万点は、全て国宝に指定されており、宗像大社神宝館に展示されています。その数もですが、かなり良好な状態で残されているので、見てるだけでドキドキしました。

 登録基準(ⅲ)については、沖ノ島、大島、九州本土の宗像大社三社で、1500年以上続いている宗像三女神信仰が評価されています。神職以外の沖ノ島入島禁止などの文化的伝統は今日に至るまで発展しながら継承されており、古代から続く信仰が現代に残されている貴重な証拠とされています。

 宗像三女神は、アマテラスが弟であるスサノオの持つ剣(十拳剣)をバリバリと嚙み砕き、吹き出した息の霧から生まれた三柱の神様とされています。『古事記』と『日本書紀』にも記述があり、あらゆる「道」の最高神とされているため航海の安全や交通安全の神様とされています。

2. 三社一体の信仰形態

 前章でも述べましたが、この地域における、宗像三女神信仰は、沖ノ島にある沖津宮、大島にある中津宮、九州本土にある辺津宮の三社一体となっています。

沖津宮

 沖津宮は一般人の入島が禁忌とされているため、中津宮のある大島に遥拝所があり、福岡藩主の黒田家が寄進したものです。こちらも世界文化遺産を構成する資産の1つとなっております。

 そもそも沖ノ島は島自体がご神体として崇められ、沖津宮には宗像三女神のうちの田心姫命(タゴリヒメノカミ)が祀られています。この遥拝所からは、気候条件が整えば、沖ノ島を望むことが出来ます。私が訪れた時は沖合が曇っていたため、目にすることは出来ませんでした。

中津宮

 中津宮には宗像三女神のうちの湍津姫命(タギツヒメノカミ)が祀られています。また、この中津宮は「七夕伝説発祥の地」とされており、天の川を挟んで織姫社と牽牛社の石祠式の小さな社も建てられています。

辺津宮

 辺津宮には宗像三女神のうちの市杵島姫命(イチキシマヒメノカミ)が祀られています。現代における宗像大社の神事の中心となっており、神社後方に広がる山林部には、「高宮祭場」という古代祭祀遺構が残っており、非常に厳かで、スピリチュアルな空間でした。

 これら三社で1つとなり宗像三女神を祀り、古代から現代まで信仰を集めてきました。その信仰は日本全国にも広がり、広島県にある世界文化遺産の厳島神社にも宗像三女神が祀られています。また、沖津宮に祀られている田心姫命は、栃木県にある世界文化遺産の「日光の社寺」の二荒山神社の祭神、二荒山大神の一柱としても祀られています。

 つまり、日本各地で高く崇められている神様たちの信仰起源、中心地となっているのが宗像・沖ノ島というわけです。

3. 宗像氏による伝統の継承

 これらの伝統を現代まで守り、受け継ぎ、世界に示していたのが、この地を治めていた有力豪族の宗像氏でした。

 当時の日本を治めていたヤマト王権は、朝鮮半島の百済、大陸の王朝から、資源や技術、文化、知識を流入させ、勢力の強大化を目論んでしました。そのためには、高度な土地勘と航海術を持つ人物が必要でした。

 そこで協力を要請したのが宗像氏でした。彼らは日本列島と朝鮮半島との間の海を越える航海術を持っており、その道標としていたのが沖ノ島でした。宗像氏はその沖ノ島を信仰しており、彼らの協力を得たヤマト王権は、沖ノ島で祭祀を行うようになったことが、「国際的祭祀」の起源となりました。

 祭祀の歴史は、岩上、岩陰、半岩陰・半露天、露天と移り変わっていき、最終的な形態として「社殿を持つ祭祀」として現代に残されています。それが宗像大社です。宗像氏はその祭祀を全て執り行っており、沖ノ島信仰を継承してきたのです。

 さらに、ヤマト王権の対外交流に協力することで宗像氏もその勢力、地位の強大化に成功します。宗像氏当主の娘を天皇家に嫁がせることで、ヤマト王権において大きな権力を持ち、大陸から多くの奉献品が、王権だけでなく、宗像氏にも贈られるほどの力を手にしたのです。

新原奴山

 それを示しているのが、新原・奴山古墳群です。宗像氏の墳墓として41基が一体的に築かれています。かつては海岸線沿いだったこの台地は、九州本土から沖ノ島を望むことが出来る場所でした。逆も然りです。海上からこの墳墓がよく見えたというわけです。

 さて、これが意味していることは何でしょうか。答えは「権力誇示」です。つまり、大陸から宗像・沖ノ島に奉献に訪れた使節たちが入港する前に最初に目にする場所に、一族の大墳墓群を築くことで宗像氏の強大さを世界に示していたということです。

 もちろんこの古墳群も、宗像・沖ノ島における信仰の一部のため、世界文化遺産を構成する1つの資産です。

4. 日本人の心のふるさと

 先ほども述べましたが、宗像・沖ノ島で信仰されている宗像三女神は、『古事記』や『日本書紀』にも記述が残っており、神道信仰の始まりと、拡大を示す重要な役割を担っていると考えられます。

 その発信源が宗像・沖ノ島であると考えると、この地は日本人の信仰の起源とも言えます。かなり誇張して言うと、「日本人の心のふるさと」こそ、宗像・沖ノ島というわけです。

 今回は私がこの地域を訪れた理由は、宗像・沖ノ島の「世界文化遺産たる由縁」を考えるためです。正直なところ、福岡に住んでいたにも関わらず、宗像を訪れたのは今回が初めてです。しかし訪れてみると、地域の歴史が国の歴史に、その歴史が現代へ繋がることに気付かされ、守るべきものであることを確信しました。

 やはり学びと経験って、人生を豊かにしてくれますね。幼稚な結びでごめんなさい。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。

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