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日本における西洋建築は九州が育てた?

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、「勉強になった!」や、「こんな考え方もできるなぁ」という、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 今回のテーマは、日本と西洋建築についてです。その歴史を紐解いてみると、九州ととても強い所縁があると考えることができます。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.西洋建築の先駆け

 日本国内のおける西洋建築の先駆けは、長崎にあります。皆さんもよくご存じかと思いますが、大浦天主堂ですね。

 鎖国中はキリスト教の信仰が禁じられた日本において、長崎は潜伏キリシタンが生活し、日本で最も古くからキリスト教の文化を受け入れていた場所と言えるでしょう。

 そもそもキリスト教という概念は、「ヨーロッパ」という地域の概念を大きく結びついています。つまり、日本が開国後に海外の文化として取り入れたのは、ヨーロッパの文化ということになります。

 開国と同時に禁教令も解かれ、公にキリスト教の信仰が認められるようになると、1864年に大浦天主堂が竣工しました。これが、日本において西洋建築が産声を上げた瞬間となります。

 この教会で起きた最大の事件といえば、「信徒発見」です。長崎の浦上地区で生活していた船腹キリシタンたちが、大浦天主堂にてキリスト教の信仰を告白したというこの事件は、禁教令の中信仰を続けていた奇跡として、ローマ・カトリックの最高権威である当ローマ教皇にも伝えられました。

 大浦天主堂は日本最古のキリスト教建築物でもあります。建築様式としては、中央に高い尖塔を構えていることから、ゴシック様式と言えるでしょう。フランスのシャルトル大聖堂や、ドイツのケルン大聖堂がその代表と言えるでしょう。

 2018年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」における天主堂は、頭ヶ島天主堂のみがロマネスク様式で、それ以外はゴシック様式と、日本における教会建築、西洋風建築は、大浦天主堂の影響を強く受けたと考えることが出来ると思います。現に日本の教会建築のほとんどがゴシック様式です。同じ長崎の浦上天主堂を除いて。

2.辰野金吾の功績

 明治時代になると、文明開化が起こり、生活だけでなく、政治形態も西洋のシステムを取り入れ、世界的に大きく後れを取っていた近代化が急速に進んでいきます。

 その中でも、政治、金融、交通は大きく発展を遂げることになり、その中枢を担う場所を造らなければいけませんでした。これらはこれからの国家の中枢を担う場所でもあるので、堅固な建築でなければならないという条件がありました。

 しかしこれら全ての建築に携わった男がいました。彼の名は、辰野金吾

 現在の佐賀県唐津市に生まれた辰野金吾は、工部省工学寮(現在の東京大学工学部)の一回生として造船と建築を学びました。1880年にイギリスへ留学し、工学寮の教授だったジョサイア・コンドルの出身大学であるロンドン大学で西洋の強固な建築様式とそのメカニズムについての研究を行いました。帰国後は工部大学校の教授に就きました。

 その後個人事務所を設立し、国産第一号の建築家となった辰野金吾は、研究の功績を大きく評価され、次々と重要な建築物の設計を手がけていきます。その建築物たちが、もう、凄いものばかり。

 1896年に設計したのが、日本銀行本店。言うまでもない、日本の中央銀行で、紙幣の発行を行う「発券銀行」、国庫金の出納を行う「政府の銀行」、各銀行間の取引を行う「銀行の銀行」としての役割を持つ、日本金融界で最も重要な場所の設計をを手がけました。地震でも倒壊しないように、建物の上部を軽量化する技術を取り入れ、日本の経済を建築で支えていました。

 1914年には中央停車場、現在の東京駅丸の内駅舎を設計します。現在のものは、2000年代に始まった再開発事業にて復元されたものですが、限りなく建設当時の物に近づけて復元されたようです。2024年に刷新される新1万円札の肖像の裏面には、東京駅丸の内駅舎がデザインされ、全世界に流通することになります。

 最後に1919年に辰野金吾が開催し、自らも審査員として参加した、とある建築物の設計コンペが行われました。その建築物とは、国会議事堂です。鉄骨鉄筋コンクリート造りの建造物で、日本の政治を行い、この国の舵を取る場所の設計に大きく携わりました。

 しかし彼はこのコンペが行われた年、当時流行したスペイン風邪にかかり亡くなってしまいます。ただ彼が残した多くの建築は、現代にも多く残り、いかに強い建築で、イギリス留学で学んだヨーロッパの最先端の建築を日本に持ち込み、日本の近代化に貢献したのは言うまでもありません。

 また、万城目学さんの小説『プリンセス・トヨトミ』では、辰野金吾の作品がキーとして登場します。彼の作品は建築の世界以外にも様々な影響や感性を与えていたと言えるでしょう。

3.日本の西洋建築が教えてくれること

 何度も私の記事で登場していますが、日本の建築文化の基本は、木造です。急速に進んだ近代化のために、ヨーロッパの石の文化が持ち込まれ、現在の日本の風景を作り出しています。

 しかし、ヨーロッパの建築をそのまま持ってきたわけではなく、日本国内において、独自の近代建築として発展を遂げてきました。その中に、西洋の技術や設計手法を取り入れ、日本と世界が「つながる」証拠として、私たちの最も目に見える形で残っているということを忘れてはいけません。

 これからの日本の建築においても、日本と世界の繋がりは深く、ともに発展していくことに間違いはないでしょう。私はこれからの日本の都市発展や建築の発展にとても興味がありますし、期待していきたいと思っています。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
Ciao...

 

 


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