見出し画像

【読書】まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 by 阿部幸大


あらすじ

人文学における論文執筆には、基礎となる習得必須の知識と技術が存在する。しかし、それを現在の大学教育はうまくカリキュラム化できていない。

どんな条件を満たせば論文は成立したことになるのか、どの段階でどの程度の達成が要求されるのか、そしてそのためにはどのようなトレーニングが必要なのか。‪──‬そもそも、いったい人文学の論文とはなんのために書かれるのか?‬

本書では、期末レポートや卒論レベルから世界のトップジャーナルまで、論文執筆に必要な実力を養うための方法論を網羅。原理編・実践編・発展編・演習編の四段階にわたり、独学で学術論文を準備・執筆・出版するために必要なすべてを提供する。

類書の追随をまったく許さない、アカデミック・ライティング本の新定番。

AMAZON

0. 私のアカデミックバックグラウンド

本の著者(阿部幸大氏)のアカデミックバックグラウンドは人文学であり、この本は多様な分野の人から出版前にフィードバックを受け必要に応じて内容を発展させつつも、前提としては人文学の論文を想定している。また、アカデミックライティングの主要な教育は、博士論文を執筆した米国で受けたと推察される。

一方で、この記事の筆者(私)は、2015~2020年まで日本においてIMRAD形式で論文執筆をする自然科学分野で教育を受け、2024年~現在は英国において計算機社会科学(Computational Social Science, Social Data Science)の研究をしており、読むのも書くのも、CSや応用統計学、量子力学といった自然科学寄りの論文もあれば、政治学や行動経済学といった社会科学寄りの論文もある。
人文社会科学の正規の教育を受けたことがない中で分野変更をするにあたって、2024年に英国の人文社会科学分野に特化したカレッジで4週間フルタイムのアカデミックライティングのコースを受講し、カルチャーショックに揉まれ、時には反発しながらも、最終的には良い成績(Distinction)で修了している。

このように、本の著者と記事の筆者は、学術分野とアプローチ(定性研究と定量研究)も場所(米国と英国)も異なり、言ってしまえば「まったく土俵が違う」ので、私自身が本の内容を理解しきれていない点や、そもそも噛み合わない点などがあるだろう。
しかし、何より自分の読書備忘録として、また、あわよくば他の読者と読書経験を共有する目的で感想を書く。

1. 「問い」「仮説」「アーギュメント」は芋虫、蛹、蝶のようなものではないか

私の経験上、研究と論文執筆を同時並行で進める前提において、最初段階で絶対に必要なのは「仮説」である。しかし、この「問い」「仮説」「アーギュメント」は芋虫、蛹、蝶(若しくは卵、ひよこ、鶏)のような、実質的に同一のものではないかと考えている。

本の著者は、「今までのアカデミックライティングには、Research Question(問い)とそれに対するAnswer(答え)が必要とされていたが、問いは絶対に必要なものではなく、必要なのはArgument(論証を要求する主張)である」と述べている。

著者は、矢野の『新版 論理トレーニング』を参照し、
「思考において究極的に重要なのは「閃き」や「飛躍」であり、論理は、むしろ閃きを得たあとに、閃きによって得た結論を、誰にでも納得できるように、もはや閃きを必要としないような、できるかぎり飛躍のない形(論理的な形)で、パラグラフに再構成し説明すること」
これこそが研究であり論文執筆であると述べている。
しかし、筆者が本の引用で示すとおり、多くのアカデミックライティングに関する書籍は、研究や論文執筆は「問い」から始まると述べている。

私は、何か別のこと(※)をしているとき、ふと「●は実は▲なのではないか。それを立証するために■という手法(データソース)が使えそう。」と研究の種のようなものを閃くことがあり、これを「仮説」と読んでいる。

(※)私の場合は、他人とまったく別の議論をしているときやトランプやチェスなどの対戦中、ブラジリアン柔術のスパーリング中などにアイディアが浮かんでくることが多く、相手に謝りつつ、忘れないうちにメモを始めている。閃きやアイディアが浮かんでくるタイミングを自分でコントロールできないのはなかなか不自由だと感じている。できれば、一人でいるときなど周りに迷惑をかけないタイミングで閃くことができるようになりたいが、なぜかいつも対戦相手がいる場面で閃いてしまう。

この「仮説」から初めて、文献調査をし「●は▲である。」ということを述べた先行研究がないことを確かめつつ、●や▲、■を同義語に置き換えたりしながら文献を探す。●や▲、■(とその同義語)が全て登場している論文があれば精読して私がやろうとしていることと同じことをしていないか確かめる。●や▲、■(とその同義語)のうち2個のみ被っている論文は速読し、イントロを書く際に使えそうなものを抜き出す。この段階で確かめることは以下の3つだ。
・「■という手法を用いて、●は▲である。」と論じた論文が存在しないこと
・「●は▲ではない。」と結論している信頼できる論文やワーキングペーパーがないこと
・周辺の研究がしっかりされており、近年も引用されていること

「●は実は▲なのではないか?」というのは、この段階でもまだ仮説であるが、「■という手法の実験をしてみて、若しくは■というデータソースを解析してみて、◆という結果がでれば仮説は正しそうだ。」という検討がついている状態である。そうして、実験なりデータ解析なり、調査なりをして仮説が正しそうと言える結果が出たならここで、「●は実は▲なのではないか?」という仮説は「●は▲である。」というアーギュメントになる。

では、「問い」とは何かというと「●とは何か?」や「なぜ●はこのような動きをするのだろう?」といった抽象度の、研究のとっかかりとなる疑問ではないかと思う。このような純粋な問いによって、人は研究室を選んだり、研究テーマを選んだり、読む論文を選んだりするので、研究に着手する前段階として必要なものではあると思うが、論文執筆に着手する段階では、少なくとも「仮説」か「アーギュメント」くらいには発展していないと、論文のスコープが広くなりすぎてしまうと思う。

したがって私は、「問い」「仮説」「アーギュメント」は、「●とは何か?」「●は実は▲なのではないか?」「●は▲である。」という、実質的に同じものが研究の進捗段階によって呼び方を変えているだけではないか。
論文の完成に必要なのは「●は▲である。」というアーギュメントであり、全ての証拠が揃ってから論文執筆に着手するスタイルの人から見た場合、論文執筆段階で必要なのは「アーギュメント」のみである。
しかし、私のように論文執筆と調査・実験、データ解析を並行して行うスタイルの人から見た場合、論文執筆開始段階で必要なのは「仮説」である。

このように、論文執筆に着手するタイミングと、どこからを研究活動・執筆活動と定義するかによって、必要なのは 「問い」か、「仮説」か、「アーギュメント」かという議論が生じているが、実質的に同じものの進化段階の違いだと考えている。鶏唐揚げを作るのに必要なのは何かと言われたら、調理台上に必要なのは鶏のみだが、卵とひよこが存在しなければ鶏も存在しない。

2. アカデミックな価値と現実世界の間で

本の著者が感じた、アカデミックな価値と現実世界の価値の間の苦悩は、私が研究対象を自然科学から社会科学に移し、そのために人文社会科学のアカデミックライティングの教育を初めて受けたときに感じたフラストレーションと酷似していると感じた。そのため、私が感じたことが「門外漢による頓珍漢なだけの苦情」ではなく、真剣に研究に向き合うと直面する課題だという安心感を持て、救われた。

これはごく狭い研究者のサークル内でのみ共有されたルールにおいて解釈の巧拙を競うだけの、いわばゲームではないのか。

ーー研究はゲームなのだろうか?

第9章 研究と世界をつなぐ 本文抜粋

Academic writing in the social science tradition was the most difficult and puzzling lecture for me, and therefore the one where I made many new discoveries and learned a lot.

My academic background is in XX and I have always written my papers following the IMRAD structure (Introduction, Materials and Methods, Results, and Discussion), the most common organizational structure for academic papers in natural science. Therefore, I was confused at first because I had no idea about the structure of social science papers. At first, I was resistant to the approach of constructing a dichotomy, pitting two opposing ideas against each other, and ultimately declaring the author's perspective victorious in the essay. Because I believe that academic ‘progress’ involves discovering new methods, pathways, or ideas that resolve dichotomous contradictions; solutions that no one had previously unearthed. While practicing academic writing, I felt a sense of frustration and impatience, as if I was producing nothing of genuine academic value. It seemed to me that this approach resembled sports more than academics. Sports are fun, I like them, but they do not represent ‘progress.’ Sports won’t take humanity to Mars!

(太字部分のみ和訳)
アカデミックライティングを練習しているとき、私は、本当に学術的な価値のあるものを何も生み出していないような、フラストレーションと焦りを感じていました。このアプローチは、アカデミックというよりスポーツに似ているように思えました。スポーツは楽しいし、好きですが、それは「進歩」を表すものではありません。スポーツは人類を火星に連れて行ってはくれません!

筆者の4週間のアカデミックライティングコースの提出課題におけるReflectionより抜粋

この、研究はゲーム(スポーツ)ではないのかという苦悩へのアンサーは人それぞれであろう。
私の学部時代(自然科学)の指導教員の一人は、研究を完全に遊戯としてのゲームと考え、本当に楽しそうに進捗を積み上げ、若くして教授になっていたので、完全にゲームとして楽しむのも有りだろう。
逆に、現実世界との接続とインパクトを最初から想定したり、自分の人生や特性から研究テーマを選ぶのも有りだろう。

3. ハンバーガー構造ではなく、Uneven U

アカデミックライティングのコースで、パラグラフもエッセイ全体も、結論(アーギュメント)を最初と最後にパラフレーズして入れるハンバーガー構造にしなさいと指導された。しかし特にパラグラフ(300~400word程度)でそれをしてしまうと、読み返した時に、どこか接続が不自然で、わざとらしさを感じてしまい困っていた。
書籍内で紹介されている「Uneven U」という考え方では、抽象度が高く説明なしではすぐに納得できない結論(アーギュメント)と、それを説明する具体的な証拠や事実の間を接続するセンテンス(抽象度4のセンテンス)を入れるというアイディアがあり、使えると思った。しかし、実際にそのような抽象度の文を捻り出すのは大変だろう。

4. 「教科書」ではない点に注意

本の題名が「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書」となっているが、この本はアカデミックライティングの教科書ではない。

「教科書」と言えるためには、以下の2点を満たしている必要があると考える。
①その段階(例:小学4年生、学部1~2年(教養課程)、博士学生等)において、その分野(例:経済学、生物学、アカデミックライティング等)で学ぶべきこと、知っているべきことを概ねカバーしていること。
②その分野の通説をとっていること。(議論がある場合においても、一定の支持を得ている説)
例えばある論点について、学会でA説が50%, B説が45%, C説が3%, その他諸々が2%の支持を得ているとき、A説やB説をとっていれば「教科書」と言えるが、C説やその他の説をとっている書籍を、いくら精緻に検討され学術的な価値があるとしても「教科書」と言えるかというと疑問である。

①について、この本は主に大学生以上の論文を執筆する必要がある人を対象としたアカデミックライティングの書籍であると理解しているが、「教科書」であるならば、絶対に「Academic integrity(学術的誠実さ)」や「Plagiarism(盗用)」についてはカバーしていなければならないのではないか。この本では、これらについては言及されていない。

②について、阿部自身が述べるように、この本自体がアーギュメント(論証を要求する主張)を持っており、それは「今まで研究論文とは、Research Question(問い)とそれに対するAnswer(答え)が必要とされていたが、問いは必要なく、必要なのはArgument(論証を要求する主張)である」ということである。この、問いは絶対的に必要なものではないという点が、新しさである。阿部自身が書籍内で引用しているとおり、多くのアカデミックライティングの書籍は問いが必要であると主張しており、逆に問いが不要であることをサポートする引用は書籍内にはない。そのため、この主張は現時点ではかなりの少数派意見だと推察される(実際に何%程度なのかは不明)。

このように、この本は、上述の2点を満たしていない。そもそも、邦題が「まったく新しい(中略)教科書」となっているが、表紙に書いてある英題は「A New Introduction:」となっており、「導入」である。この本は、教科書であることを意図して書かれたのではないと推察する。

したがって、この本を教員などが授業で用いる場合は「一つの導入」としてReading Listの一つに挙げることは良いと思うが、極めて重要なことをカバーしておらず、現時点ではまだ議論する価値ある少数派説を推しているこの本を「教科書」として中心的な教材に据えることはおすすめできない。

この記事が参加している募集