見出し画像

うたうためには【短編小説】

■うたえないから

“―――ごめんなさい”

 音楽室から戻るや否や、手渡されたノートの切れ端には、それだけが書いてあった。

 穏やかで優しい人なんだろうな、と思っていた。
 後ろの席の、福本 藍(ふくもと あい)。中高一貫の女子校で、高校一年の今年、初めて同じクラスになった。中学の頃から存在は知っていた。色が白くて、すらっと背が高くて、すがすがしい後姿が遠くからでも目立つから。涼しい目鼻立ちで、赤い縁の眼鏡が似合っていた。大人しい子たちのグループにいて、教室の隅でいつも本を読んでいた。
 今年は同じクラスで、しかも出席番号が前後だから、いろいろとペアになることが多かった。体育も、課外講義も、整列も。藍は、ついうるさくしてしまうわたしにいつも穏やかに微笑みかけてくれていたし、時には無言のままに二人で協力したりもした。個別にLINEしたりすることはほとんどないけれど、それでもダンスだって書道だって朝礼中の居眠りだって、ちゃんとこの一年近く、相性良く乗り切ってきたのだ。

 だから。

「ふざけるな! いい加減にしろ、福本!」

 担任の音楽教師の杉山の罵声が飛んだ時、何が起きたのか、わたしにはわからなかった。
 学年末の音楽のテストで、二人ずつペアを組んで、課題曲を二部合唱で歌わされる。皆の前で歌うので、緊張して声が出なくなったりする子もいる。
 わたしと藍の番だった。音楽室の前に出てクラスの皆の前に立ち、数フレーズを口にした。藍の声が聞こえてこなくて、おかしいな、と隣に視線を送りかけた矢先の出来事だった。
 藍は、端からわかるほど震えていた。唇を噛んでうつむいて、音楽室の一番後ろで仁王立になって大声でがなり立てる教師を、目だけで強くにらみつけている。憎悪、だ。彼女のぎらついた強い感情を見るのは初めてだった。
 教室に落ちる沈黙、迫る時間。誰もが凍りついたまま、担任が激昂した理由を探して視線だけをさまよわせている。
 拳は震えていたけれど、藍は決して泣いたりはしなかった。わたしはずっと、蒼白な横顔と白い頬ばかりを見ていた。穏やかなだけじゃないんだ。見えているだけじゃないんだ。初めて見えた藍の心の輪郭に、胸が波立つ。

 チャイムが、鳴った。

「……お前らの試験は来週に延期。来週歌わなかったら、福本だけじゃなくて、普久原にも音楽の成績は出さんからな」

 藍がひゅっと息を呑む。教師は横暴さを隠さず、憤慨をまき散らしながら音楽室を出ていった。
 呪縛が解け、皆が動き出す。気にしなくて良いよ、杉山の言うことなんて。咄嗟に声をかけたけれど、藍は少し泣きそうに眉根を寄せて、首を横に振った。
 ーーそして音楽室から教室に戻るとすぐ、後ろの席の藍からノートの切れ端を手渡されたのだ。
 ごめんなさい、ただそれだけが書かれた切れ端は、強い筆跡で書かれていた。たくさんの感情が閉じ込められているだろうそれを、数学の間中、窓からの光に透かして何度も見直した。

 少し悩んで、返事を書くことにした。数学の終わりのチャイムが鳴る頃、一言だけをノートの端にしたためて、そっと切り取る。
 そして、後ろの席を向いて、藍と目が合うより前にそれを手から離した。


■うたうためには

“――どうしたらいい? わたしに何か、できることはある?”

 数学の終わりに前の席からやってきたノートの切れ端には、そう書かれていた。

 明るい世界の人だな、と思っていた。
 前の席の、普久原 紫(ふくはら ゆかり)。快活に話し、明るい表情はくるくるとよく変わる。結われた茶色い髪はいつも、楽しげに肩口で跳ねていた。
 ――高校一年になって少し経った頃、私の父の会社は大きく傾いた。結局、借金を抱えて潰れた。高校はそのまま私立に出してやるから。そう言っていた父は秋の終わり、蒸発した。中学受験して入ったこの学校に、同じような悩みを抱える生徒はいなかった。誰にも打ち明けられないままの日々、自分だけが影法師。学校では禁止されているバイトをするために、部活はこっそり辞めた。
 貯金を切り崩しながら暮らして、母は慣れないパートを掛け持ちしている。まだ小学生の弟もいる。高校辞めて働くと言ったけれど、母から中退しないでと必死で止められている。三学期になって、いよいよ公立や通信制への転校を迷っていた時だった。

「おい、福本。ちょっと来い」

 担任の杉山には、授業料の延納願と奨学金の申請のために、これまでも何度も呼び出されていた。だから今日、音楽の授業の前に職員室の片隅に呼び出されたのも、そんなことだろうと思っていた。

「お前、オレに隠していることがあるだろう?」

 音楽の教師だというのに美声のかけらもない濁った声とその内容に、反射的に肩が竦んだ。バイトが見つかったのかと思ったけれど、違った。

「いえ、何も」
「クラスで、3万円入った財布がなくなったそうだ」
「……え?」
「お前だろう、違うのか」

 疑われているんだ、私。その事実に気づいて、背筋が凍った。
 あまりの衝撃に言葉を失う。何か言うべきだと思ったけれど、舌は膨れ上がり口蓋に貼りついて、全く動いてくれない。苛立ちを隠しもしない担任ににらみつけられたまま、呼び出された休み時間の間ずっと、うつむいていることしか出来なかった。

「……授業の時間だ。行くぞ。放課後、また職員室に来い」

 労るような、嘲るような、でもどこか舐めるような担任の声が、ただ気持ち悪かった。
 喉の辺り、何か、大きな塊が詰まったみたいに息苦しかった。音楽の時間が始まってもそれが消えなかった。タイミング悪く歌のテスト。一緒に皆の前に立った紫が心配そうに覗き込んでくれるのがわかったけれど、それでも全く駄目だった。

 あれから三日、学校ではまったく声が出せない。

 枷でもはめられているように、ひゅぅひゅぅと息だけが喉を通り抜ける。いつも一緒にいるグループの子には、喉を傷めたとだけ伝えて面倒を避けた。医者からは一時的な緘黙だろうと言われた。
 テストは来週、とても歌える気がしない。このままこの学校を去るかもしれないと思えばつい投げやりになってしまうけれども、やっぱり紫には迷惑をかけたくない。ーー何より、このまま疑いをかけられたままでいるのは違うと、本当は思っている。
 ペンケースに入れっぱなしにしている、紫のくれた小さな返信。広げて、窓からの陽の光に透かしてみる。
 意を決して、国語のノートの片隅に走り書きをし、それを破り取る。前の席の背中をつつく。教師の目を盗んで振り返った紫に、書き付けた意思を、差し出した。

 ―― 一緒に戦ってください。

■間奏 

「あーーーーーー」

 藍と二人、放課後の線路沿いを歩きながら、わたしはわざと大きな声を出してみる。課題曲は二部合唱、なかなか難しい。わたしが下で、藍が上。まずは発声練習から。電車が傍を通るタイミングで大声をあげてみる。
 藍からは、一時的に声が出しにくい状況なんだと聞いた。心理的なものか、物理的なものかはわからない。藍はあれから数日、ずっと黙ったまま過ごしている。わたしとはメモを出して、放課後に時折筆談しながら、藍のバイトの開始が遅い日は(藍がバイトしてるって初めて知った!)一緒に帰る。バイトの時や家では声が出るらしく、声が出にくくなってしまったのは学校の中だけだそうだ。
 茉莉花の財布がなくなったことで、藍が担任に疑われると聞いて、飛び上がるほど驚いた。理由はまだちゃんと教えてもらえていない。けれど、藍ではないことくらいは、付き合いの長くないわたしにだってわかる。
 電車が来る。
 藍は背筋を真っ直ぐにして、息を吸う。あー、音程のない、か細い声。

「声、少し出てる!」
 ……うん。

 ごく小さな声と弾んだうなずきが返って、わたしも一気に嬉しくなった。
 藍の声より、ほんの少し大きいくらいの声を出す。藍の声をかき消さないように。藍がわたしよりもほんの少し、大きい声を出そうとしてくる。そうやって、少しずつ二人で声を出し合って、ちょっとずつ大きくしていく。いつの間にか、遊びみたいになってくる。

 次の日は、地下鉄の一番端、あまり使われていないB8出口。
 わんわんと声が反響する踊り場で目を見合わせて、せーの、でワンフレーズだけを合わせる。わたしたちのハーモニーが風に乗って千切れながら、地下道に流れていく。向こうから歩いてくる背広の人がほんの少し笑いながらわたしたちを見ているけれど、気にしない。
 藍の声は昨日よりも大きくなった。今日は正しい音程で、凜とした背筋と同じく、すぅっと筋が通る歌声。反響する地下道に広がっても、まだきれいな声の輪郭と残滓がはっきりとわかる。

「ねぇねぇ、藍ってさ、実は歌めっちゃ上手くない?」
――どうかな。中等部の時はコーラス部だったけど
「え! それで杉山に、わざと歌ってないって思われたのかあ」
――どうだろ? 

 わたしの問いに、スマホの画面を使って答えを書いてくる藍の横顔を見る。まだ話すのはあまりうまくいかないみたいだけれど、歌うたびに少しずつ気配が和らいで、笑うようになった。藍は多くを語らないけれど、こうやって近くで過ごすと、思っていたよりもずっと表情豊かな人だと改めて気づく。
 歌い終えて、バイトの時間を気にする一瞬、藍は別人のように大人びた顔をする。藍が抱えている何かが、白い頬骨あたりに滲む。渡された、“一緒に戦って”の本当の意味もわかっていないかもしれない。けれど今、藍と一緒に歌うのは、楽しい。それでいいんじゃないか、と思う。
 声を上げる、声を重ねる、互いに張り合う。手渡せば、返るものがある。
 単純な喜びが、ここにある。

 そしてやってきた再テストの日。
 音楽室に移動する直前に、わたしはノートの切れ端を破いて、一言を書き付けた。

 “―― 楽しい戦いにしようね” 


■うたうからには

「何て言うか、ちゃんと見せつけてやりたいよね」

 紫は、そう言って笑った。

 ピアノの伴奏が鳴り始め、全員の視線がこちらに集中する。担任の杉山の眇めた目。紫はあっけらかんと、成績がつかなくてもいいよと言って笑ってくれるけれど、絶対にそんなことはさせたくない。
 拳の中に、紫がさっきくれた言葉がある。楽しい戦いにしようね、と書かれた切れ端をお守りにして握り込んだまま、クラスの皆の前に立った。
 息を吸い込む。
 心臓が燃えて、喉が苦しい。けれど、そのままで歌う。
 傷つけられたことに対して、怒っていい。紫に寄り添ってもらって、ようやくそのことに気づくまで丸一週間かかった。どんな立ち位置にあったって、人を傷つけて良い理由にはならない。どんな状況に置かれていたって、自分の誇りのために抗っていいはずだ。
 ここで歌うことは、今の私にとって、そのための唯一で大切な方法。そしてこれから先、理不尽を突きつけられた時に、ちゃんと戦うための練習だ。

 私の口からこぼれたのは、頼りなく震える、弱々しい声だった。

 こんな声しか出せない。杉山が唇をにやりと歪めたが悔しくて、腹の底に力を入れる。
 紫が、私より少し大きいくらいの声で寄り添ってくれる。その声よりももう少し大きく、声を出す。電車の傍で、地下道の入り口で、そうしたように。もう少し、大きく。気づいた紫が横顔で笑って、もう少し、大きく。
 そうやっているうちに、いつのまにか、真っ直ぐに声が伸びていた。
 紫の声と自然と混ざり合い、ハーモニーが生まれる。子どものころからずっと、歌うことが好きだった。ただまっすぐに、今できることをやればいい。自分の歌声につられて、前を向く。
 気づけば無心に、その旋律を奏でていた。

 “花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に……”

 クラス中の拍手で我に返る。杉山も、教室の後ろで苦々しい顔をしながら、しぶしぶ手を叩くのが見えた。
 紫が隣でにんまり笑ったので、思わず、つられて笑み崩れてしまう。どれだけ言葉を交わしても通じ合えないこともあるのに、たった一つの表情や、たったの一言がたくさんのものを伝えてくれることも、あるんだ。
 紫と、小さく拳を合わせる。まだ言葉を握りしめたままの拳が、とても熱かった。

 音楽の時間の終わり、五線紙のノートの切れ端に、一言を記した。
 教室に戻ったら、すぐに前の席の肩を叩いて、その言葉を手渡そう。

 ――ありがとう。


■うたのあとには

  ”お元気ですか。お変わりありませんか?”
  ”お手紙ありがとう、元気でやっています。そちらもお変わりありませんか?”

 ……あの日のノートの切れ端たちは、まだ手元に残っている。
 小さな想いのやり取りがきっかけでその後始まった、二人の間での10年以上に渡る文通。その間に交わされた、たくさんの文字たちと一緒に。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』3月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「うたう」。登場人物が歌にのせた思いが文章からも響いて伝わってくるような、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。https://note.com/bunkatsu/n/n89346902067b

また、本小説は【連作】でもあります。お気に召した方は、マガジン「紫と藍のあいだ」からも本シリーズ作が読めます。どの作品からも読めますので、よかったらぜひどうぞ。

本作で出てきた歌詞は、「花は咲く」からお借りしました。以下のリンクにはいろんなバージョンの「花は咲く」があります。


#短編小説  #掌編 #少女 #歌のテスト #少女たち #百合 #創作 #物語 #小説 #歌 #文活 #連作 #花は咲く

よろしければサポートお願いします。これから作る詩集、詩誌などの活動費に充てさせていただきます。