【小説】『フラッシュバック』#40

 新幹線ひかりのごとく急いで天使の部屋に戻る途中、ぼくは考えていた。
 
 ぼく自身の本当の善きもの……。それはだれかのためだったのか。
 今となっては、なぜ自分がここにいるのかを知るには、自分の心残りを晴らしてからでないと意味がなかったのだと思う。そうでないと辿りつけなかった。何も変わらないからだ。必ず同じ轍を踏む。
 最初ぼくは、しょうもない日々を抜け出したかった。天使はぼくを導いてくれた。そしてケイコに出会った。とても刺激的で毎日が再び楽しかった。一度抜け出してみると、ぼくもオリジナルなものを生みたいと思った。そして、生きた証として残したいと思った。
 しかし、ずっと引っかかっていた……。この滅んでいく世界で生きた証を残そうとすることに意味はあるのかと。……だが、そういうことだったのか。
 ぼく自身の善きものとはだれかのためにあった。それがここにやってきた理由なのだから……。
 
 そしてぼくらは部屋に戻り、ぼくが作業を終えるのを天使は見守っていた。
 
 指を弾いているあいだ、ふと思った。
 そうか……ぼくは闇から光へ還るのか……。
 
 脳の処理速度が倍になり、現実が早回しで進む。
 時間は、消えたと思いきやまた現れる。
 脳のシナプスの数は、時間を経るにつれ増加する。
 ネットワークの構造はますます複雑になり、処理負荷が高まる。
 ぼくの頭はオーバーヒートを起こす。しかし、今はそれどころではない。
 
 ここはだれかの見ている世界で、そのだれかだけが抜けて不在の世界……。
 この世界に存在しないだれかを、ぼくははっきりとは認識できない……。
 だれかの覗く世界の中で演じられるぼくの最後の日々……。
 そして、そのだれかの命には、終わりが近づいている……。
 こうしてこの世界は滅んでいく……。
 
 わからない。後付けかもしれない。
 だが、やるしかない。
 
 「言っておくが」と天使が言う。「元に戻ることなどできないぞ」
 ああ、承知さ。ぼくが自分で責任を持つよ。
 結果がどうなるかはわからないが、ぼくは自分自身の善きものに向かう!
 
 この世界でできるすべてを終え、ぼくは言った。
 天使、今までありがとう。最後まで苦しかったが楽しく、充実してたよ。
 すると天使は言った。「すべては善きもののためだ」
 「親友よ」
 
 そして天使が言った。「セレモニーだ」
 「餞別(せんべつ)だ。場所はどこにする」
 
 思い出が駆け巡る。感慨がよぎる。ぼくらはある日、バーで出会った。
 しかし地上の崩壊が迫る。人に迷惑はかけられない。店は今頃大丈夫だろうか。
 そして自身の決意の日々を振り返る……。
 
 ……別れの場所は、あそこしかないだろう――!
 
 
 
 そうしてぼくらは建設中のビルの屋上へと舞い戻った。
 「最高の瞬間はつねにこれから訪れる」と天使が言った。
 今夜、一つの世界が終わる。 
 地表の崩壊はぼくらのいる建設中のビルの屋上まで到達し、頭上のクレーンがスローモーションで崩れ落ちていく。
 ぼくは、ひょっとしたら飛べるのかもしれないと考えながら、だれかに言われた一言を手掛かりにしている。
 LSDの致死量は一〇ミリグラム。睡眠薬の致死量は一五〇錠。これらぎりぎりを同時に飲んで、ぼくはこの世界にいた。そうしてぼくは天使と出会った。
 昔、だれかに生傷を応急処置してもらったような記憶がよぎる。その様子をはっきりと覚えていないが、今のぼくは確信に満ちている。
 魂の重量は二一グラム。
 柱の影から少女がこちらを覗いている。
 これはまだ科学と世間の常識が現実に追いついていなかった頃の話。
 そもそもは愚かな過ちが発端だったが、ぼくはいま愛を知っている。
 床を覆うコンクリートがちぎれて重力に逆らって舞う。
 だれもが天国に行けば、なれたかもしれない自分に会うのだろう。ぼくはその前に最愛の人に会いに行く。
 運命の霧の中に、いくつか起こる可能性のある未来が存在している。
 ぼくは自己意識のクオリアで、「意識」そのものを感じるための錯覚だとしても関係ない。
 未来には、「ぼく」という概念は消滅しているだろう。
 未来はますます仮想的になっていく。
 ぼくの記憶は三次元には残らないだろう。
 確かなのはこの想いだけで、意識は限界を越えて漂い、望ましい未来を手繰り寄せる。
 ぼくは天使に感謝している。
 暗い空から燃えるオーロラが溶け落ちていく。
 神の声を聴いた古代人も、神の意のままの自動人形も、恋をし、夢を見ただろう。
 光速で未来へ。
 少女が駆け寄って、ぼくの袖口を握る。
 目の前の現実と向こう側の境がぼやけて曖昧になっていく。
 意識が混濁していく。
 ありがとう。また、いつか。
 「雨の中の涙のように」と天使が言った。
 
 そして天使は引鉄を引いた。

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