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”妻が皿洗いが好きじゃないこと”を知った話

「あたし、汚れたお皿を洗うのが好きじゃないの」

ある日の夜、子どもを寝かしつけたあとに妻はそう言ったんです。

たぶん金曜日だったと思います。2人で寝る前にお茶を飲んでいる時でした。

ぼくは妻のその言葉にびっくりしたんですね。まさか妻が「皿洗いが好きじゃない」なんて思いもしなかったから。

その頃のぼくは帰りが遅い時が多くて、子どもたちが寝たあとに帰るときもありました。

そういう時は夕飯の食器はすでに洗われていて、一日の家事をすべてを終えた妻がぼくを出迎えてくれました。

ぼくにとって「夕飯の食器が洗われている」というのは当たり前の状態だったんです。

21時のキッチンのシンクが綺麗になっているのが当たり前だと思っていたんです。そこに何の不思議も感じていなかったんです。

もしかしたら、ぼくは妻が皿洗いをするのが当たり前だと思っていたのかもしれません。

それが当たり前の行為じゃなくて、しかも妻の苦手な行為だったと知ったのは上の子たちが2〜3才の頃でした。

ぼくらはギクシャクし始めた夫婦関係を変えたくて、twitterで見かけた世帯経営ノートを2人でやってみたのですが、そこで「妻が皿洗いが好きじゃないこと」に気づけたんです。

その後も妻はこんなことを言っていました。

「夕飯を作って、子どもたちの宿題を片付けて、ご飯を食べさせて、お風呂に入れて、ダイニングの食べこぼしを片付けて、1日のすべてが終わった頃に大量の汚れた皿が目に入るとうんざりする」

「だけど、放っておいたら見ているだけで疲れちゃうから、すぐに片付けたくなる」

家事育児で疲れ果てているんだけど、子どもたちに邪魔されてイライラしちゃうんだけど、汚れた皿が目に入ると疲れが溜まってくるからついつい片付けてしまう。

そして、皿洗いをしているとやっぱり子どもたちに邪魔され中途半端で終わってしまって、さらに疲れが溜まるということだったんです。

皿洗いが好きじゃないならぼくに頼めばいいのにと思ったのですが、自分からは言えなかったようなんです。それも3年間も言えなかったんです。

「自分がやらないといけない」とか「できない自分が悪い」とか「夫に悪い」と思ってしまっていたそうなんですね。

妻は「嫌いな家事がある」ことを自分からは言えなかったんです。

妻のその気持ちを知ってからは、できる限りぼくが皿洗いをするようになりました。

ぼくが家に帰るのが遅くなって、妻が「まだお皿洗ってないの」と申し訳なさそうにいう時があるんですが、「そんなことは気にしないて休んでいて」と言うようになりました。

「お皿はそのままでいい。俺が洗うから」とぼくが言い始めた頃、妻は罪悪感を感じているのかソワソワしていたんですね。(なんか申し訳ないな)とちょっと思っていたんだと思うんです。

どれだけぼくが「俺に頼ってくれ」と言っても、妻は呪いのような義務感に縛られていて、自分から頼ったり甘えたりすることができないんだと思うんです。

あれから数年経って慣れてはきたようですが、今でも呪いのような義務感を感じることがあるようなんです。

もしかしたら、それは仕事と家庭の割合で家事の分担量を考えているせいかもしれないなって思うんです。

”仕事時間が長いぼくの家事は少なく、仕事時間が短い自分(妻)は家事を多くしないといけない”と言う考えになっているのかもしれないです。

でも、家事の分担は経済的に力になれていない方がするんじゃなくて、好き嫌いで分担してもいいのかなって思うんです。

その方が夫婦関係は安定するし、ぼくらの心理状態が安定すれば子どもたちの心理状態も安定するんですよね。

ぼくは洗濯物を畳むことが嫌いなんです。

家族5人分(子どもは7歳7歳4歳の3人)の洗濯物がごっちゃりと山盛りになっているのを見ると、ぼくは気が狂いそうになるんです。

これを仕分けして綺麗に畳んでしまうことを考えるとうんざりしてきて、(いつになったらこれは終わるんだ)とか(どうせゴチャゴチャになるんだから畳む必要ないんじゃないか)とか考えてしまうんですね。

でも、妻は洗濯物を畳んでしまうことが好きなんです。食器を洗うのは嫌いだけど、洗濯物を畳んでしまうことは好きなんです。

そして、ぼくは食器洗いは好きなんです。食器を洗って食洗機に入れ、シンクを綺麗に磨き、ゴミ受けを綺麗に掃除して、キッチンテーブルを布巾でピカピカにすると、ものすごい充実感を感じるんですね。

だから、ぼくらの家事の好みをお互いに共有してからは、家事の分担は好き嫌いで分けるようにしたんです。すると、ちょっとお互いに毎日が楽になったんですね。

でも、なによりもぼくにとって大きな気づきだったのは「妻は皿洗いが嫌いだった」ということです。

”妻ならば、母ならば、皿洗いが嫌いなわけがない”という思い込みがぼくにあったんだと思うんです。

”嫌いであってはいけない”とまでは思っていませんでしたが、妻の素直な気持ちを知らなかったら、いつかそう思っていたかもしれないですね。

妻を”妻”や”母親”という記号ではなくて、ひとりの”個人”として見ないといけないなって、そんなことに気が付かされた出来事でした。

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