「令和」祭りは政府のパフォーマンスであった
新元号の「令和」公表直後の空気感についての違和感を以前noteに書きました。勢いで書いたためか、反政権色が濃くなってしまっているのは反省点でしたが、自分のこれまで書いてきたnoteの中では、多くの人に読んでいただけたほうかなと思っています。
そして、今日はまた「令和」祭りについて少し書きたいと思います。
前提として、私は新元号そのものには特に反対していません。ただ、選考から現在に至るまでの政府やマスコミの行動は検証されるべきものであると感じています。その上で、本稿を書き進めてみます。
天皇陛下の「おことば」と社会への影響
まずは、今回のような「生前退位」が行われることになった経緯を思い返してみたいと思います。その中で参考になるのは天皇陛下の「おことば」です。一部抜粋します。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。
基本的に「生前退位」の理由として、天皇陛下自身の公務への思いや、健康状態についてが中心を占めていると言えるでしょう。その中で抜粋部分では、国民生活(ないし日本社会)に対する影響を考慮していることがうかがえます。
ただ、「お祭り騒ぎ」をしてほしいとは言っていないんですよね。当然ですが。みんな勝手に騒いでいるだけなんです。これは、天皇陛下の「お気持ち」を汲み取った行動と言えるのでしょうか。もちろん、天皇陛下はこの状況について意見を述べることはないでしょう。ですが、どう思っているのでしょうか。正直気になるところです。
そもそも、社会生活への影響を懸念されていたのに、結局エンジニアを中心に迷惑を被っている人も一部いるようです。結局どうなったのでしょうか。今、必死に作業しているところかもしれませんが、ほぼ報道されなくなりました。みんなで天皇陛下のために「不都合な現実」を覆い隠しているのか、はたまた不利益はなかったのか。非常に気になります。
菅官房長官のインタビュー
二点目に見ておきたいのは「令和おじさん」なんて名前をつけられた菅官房長官が日テレのインタビューに答えている映像です。しかし、これを見る前に少し思い返しておきたいことがあります。
菅義偉官房長官は25日午前の記者会見で、皇太子さまの新天皇即位に伴って改める新元号について、4月1日の決定・公表後も考案者を明らかにしない考えを示した。「候補者が氏名の秘匿を希望されているのに加え、候補者を明らかにすれば誰がどのような元号の候補を考案したかなどが詮索されるのが適当ではない。公表は差し控える」と語った。
平成に代わる新元号「令和」を決めた1日の臨時閣議後、内閣官房の職員が、閣僚に報道陣の取材に答えないように求める想定問答を配っていた。全閣僚会議や閣議の内容はもちろん、携帯電話の持ち込み禁止に関しても「コメント、答えを差し控える」との回答を要請。情報管理に神経をとがらせていたことがうかがえる。
初期は情報の漏洩をはじめ、コメントすらも気を遣っていました。それでも、一部の「政府関係者」なる人が明らかにしまくって、色々と漏洩してしまったわけです。その「政府関係者」は相当な問題だと思いますよ。「政府関係者」は機密情報を守ることに関しては超脆弱なようですし。しかし、菅官房長官までメディアの前に出てきて、新元号のウラ話を語るようになってしまいました。本当にこれでいいのでしょうか。こうしたことは許されるのでしょうか。
ちなみに、不透明だなと思っていた選考プロセスは早くも公開されたようです。出たこと自体は評価しますが、あまり検証はされなそう……。
パフォーマンス化した「新元号」発表
以前こんなnoteを書きました。その中で、若者の意見の中に、国会が有意義な議論の場となっていない理由として「パフォーマンスが過ぎる」という意見があることを紹介しました。
そういえば、今年3月上旬の根本匠厚労大臣の不信任決議案をめぐる与党議員の賛成討論の中にも、「審議引き伸ばしのためのパフォーマンス」という言葉が用いられていました。
Google等で検索してみれば分かりますが、「野党 パフォーマンス」と調べると多くの記事が出てきますが、「与党 パフォーマンス」なんて調べてもそのような趣旨の記事はほとんど何も出てきません。
では、今回の新元号公表は、政府のパフォーマンスにあたるでしょうか。結論から言えば、あたると思います。
「パフォーマンス」をどのように定義するかという問題はありますが、ひとまず言えるのは「演技」であることと「アピールを含む」ことが要件と言えるかなと思います。「政治的パフォーマンス」という言葉もあるようなので、紹介しておきたいと思います。
マスメディアを通して,大衆という観客に対して展開される政治的演技。国会の演説や質疑応答,政党代表のテレビ討論会,選挙での演説,服装,態度などはマスメディアを通じて,そのイメージが提供される。政治家の人気はこのパフォーマンスのよさにも大いに依存している。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
この定義にしたがえば、明らかに「新元号」公表にかかわる政府の対応はパフォーマンスと言わざるを得ないと思います。新元号の公表というイベントを通じて、イメージを提供していることは否定できないでしょう。
たしかに、当日の発表だけであれば、「仕方のない」パフォーマンスだったとも言えるかもしれません(私はそう思いませんが)。しかし、後日になって「現役」の、菅官房長官がテレビのインタビューに答え、「令和」についての好意的な報道しか行われないのです。政府関係者が情報を漏洩しても、批判的な報道はほとんどありませんでした。マスメディアも見事なまでの「ポジティブ・キャンペーン」でした。まるで何も問題などなかったかのように。
これを、政府のパフォーマンスと呼べない理由が思い当たりません。多くのマスメディアも協力していますから、政府とマスメディアが結託したパフォーマンスと呼んでも良いかもしれません。
しかし、政治家も一種の人気競争ですからパフォーマンスは全面否定されるべきだとは思っていません。しかし、今回の「令和パフォーマンス」は統一地方選の真っ最中に行われました。新元号公表という国民的なイベントを政府・与党だけが「政治利用」するというパフォーマンスは正当化されるべきものでしょうか。よく考えたほうがいい話だと思います。もう、オリンピックという名の次なる「お祭り騒ぎ」は目前に迫っているのですから。
今のままなら、オリンピックくらいの時期に選挙をやれば与党が勝つでしょう。
しばしば「野党のパフォーマンスに国民は呆れている」なんて言いますが、今回の政府のパフォーマンスによって(一時的かもしれませんが)支持率が上がっている様子を見ると、失笑するほかないのです。必死に法案通過を止めようとしている人のことは嘲笑し、国民的イベントを政治利用して自らの政策をアピールしている人のことは批判の一つもせずに妄信しているのですから。
こんなこと書きたくないのですが、政治家を何を基準にして選ぶ方が良いのかよく考えた方がいいでしょう。
おわりに
以前のnoteでは、改元がリセット感をもたらすと同時に現実から目をそらす口実となっているのではないかと指摘しました。
今回のnoteでは「令和パフォーマンス」について指摘しました。別に「令和パフォーマンス」は悪くないという方もいるでしょうし、それも一つの意見として良いと思います。しかし(私にとって)パフォーマンスに流されて政治が進んでいくのを見ていると、戦争や人権侵害の歴史も重なってくるのです。安易に流された結果が過去の多くの惨禍であることは覚えておく必要があります。
選挙期間中に堂々と国民的イベントを政治利用したパフォーマンスを行い、実際に支持率が上がってしまうような日本の様子を見てしまうと、色々と思うことはあります。私には、この状況が良いとはどうしても思えません。
今回の記事を書くきっかけになったのはYouTubeで菅官房長官のインタビューを見たことがきっかけでした。普段から(私は)政権に対して批判的ですが、今回の件の菅官房長官の(初期の)厳格な対応は好意的に捉えていました。しかし、たった数週間でテレビのインタビューに出るようになり、しかもまだ統一地方選の真っ最中でした。正直、ショックでした。現政府の中に新元号公表の政治利用を問題視する人は一人もいなかったのでしょう。
あと数日で「令和」時代が来ます。一体どんな時代になるのでしょうか。
参考記事
追記(4.23)
安倍首相の「吉本新喜劇」出演も、政治利用であるとの批判が増えてきました。まったくその通りだと思いました。類似した話題だったのでリンクを掲載しておきます。
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