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眠りに誘われて見る夢のほうではなくて、叶えたいほうの夢の話である。
私は占術師という仕事柄、相談業をとおして、様々な人の夢を応援したりしている。
かくいう自分は、どうか。

私にも、夢はあって、そのために自分なりの努力もしてきたし、何かしらを積み上げてもきた。だがしかし、その妄想級の夢は、どうにも具現化への足掛かりが、甚だ得にくいらしい...途方もない夢を抱きたい人であるから、実現可能な手堅いほうへスケールダウンすることではなく、どうしても叶いそうにない夢のほうへと心を奪われてしまう。そんな私を人は馬鹿だと思うだろうが、自分では自分をまぁ××夢見がちな××可愛らしい人だと思っている。

で、己の夢はと問われれば、私は唐十郎のようなちょっと変わった劇作家になりたかった。ほんで、自分の舞台にアタシもアングラ女優として立てればいい、と思っていた。だって、アングラ演劇というものは、女優が脱いでなんぼの世界だから(←あくまで私見)他所からその世界観に合う脱げる女優を探してくるより、自分で脱いでしまったほうが早かろうという算段である。

作品を作るということは創造主になることで、自分の中から湧き上がるものや自分の中にあるものをカタチにすることだと思っている人が多いだろうが、私は「自分にないものをカタチにすることが本当の表現者」のようなことを宣っていた楳図かずおの言葉のほうを支持したい。

自分にないもの、とは、これまでの自分の経験上のスクリプトにはないもので、他人様の呻き声であったり、今世の人生ではなく、もっと果てしなく遠い混沌からの呼び声や、集合無意識、あるいは天から降りてくるものなどでもあるかもしれない。それは別に綺麗でも美しくもなく、あまりにも人間的で個人的なものであるかもしれない。

芸術は美しいものではない。芸術とは、泥臭く混沌とした人間存在、生命そのものの何がしか、あらゆるものの意識の流れ、この世界の何かしら、はたまた宇宙やエイリアンからのメッセージ、わかるものも、わからないものも、あるものも、ないものをも、表現しようとしてみせた人間の奇跡の軌跡である。だからこそ、私はアートが好きである。

幼少の頃から、なぜに生まれ、なぜこの人生を歩まねばならぬのかと、苦しみの淵で一人自問し続けた私にとって、アートはほんものの救いだった。
人は、芸術の前で生きる意味を問うことはない、というのが私の持論である。

だからこそ、芸術か猥雑か、のような議論ほど、馬鹿げたものはない。
岡本太郎は、芸術は心地良く綺麗なものではないと言った。「なんだこれは!」と観るものを慄かせるもの。
アーティストはタブーの扉を開くことを恐れてはならない。時には、自分の中の、あるいは他者や観衆の、殺しても死なぬかのようなゾンビらに向き合い、矯つ眇めつ愛嬌を持って観察しながら、いろんなものを作ればよろしい。

時は21世紀。
芸術は美しいものである。もちろん、そのとおりである。その言葉の意味や味わいの深さが、時代に相応しく、真に豊かなものであってほしいと願う。それも、私の夢である。

脱げる身体を維持することも等閑で、ここ数年は全然創作活動などできていないのである。それでも、様々な表現方法を模索しながら作ってきた過去の古き作品たちを、noteに載せることによって、いくらか私の心の書庫も風通しが良くなるのではないか、そんなふうにも思っている。
アングラ戯曲への夢はもう手放してもいい頃合?

小説よりも奇なるのが人の人生。
私自身の生きてきた人生もまたアングラ風味満載だから、私は私として、ただ今を感じ、今見える足元の道をゆきながら...

またいつか、書きたくなるといいな♪


いつかまた、自由に、奔放に、縦横無尽に書ける日を夢みて、今は筆を置こう。



あなたもクリエイターだからと言って、noteに誘ってくださった pink cashmereさんに感謝❤️


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